エルパソの月(角川武蔵野文学賞最終選考)

小林勤務

第1話 出会い

「これ、武蔵野って言うんだって」


 彼女はくたくたのチノパンのポケットから、一枚の小さなカードを取り出した。見せられたのは、赤い背景に半円を描いた広陵の上に浮かぶ巨大な満月――


「花札じゃないですか。なんでこんなもの持ってるんですか?」

「もらったの、マイクって彼から」


 どうやら彼女は旅先で出会ったドイツ人から、この絵柄の花札をもらったらしい。なぜ、ドイツ人旅行者が花札なんて持っていたかというと、理由は単純。彼も旅先で日本人旅行者からもらったとのことだ。


すすきに月っていうみたいよ、ソレ」


「へえ、そんな名前なんですか。詳しいですね」

「マイクはね、その花札ですっかり日本の虜になったみたい。興奮しながらムサシノって連呼してたもん」

「花札って武蔵野って言うんですか?」

「みたいね。別名? もしくは昔の呼び名なのかな?」


 バックパッカーと呼ばれる海外を旅する日本人のなかには、異国でのコミュニケーション用にこんな小ネタを持ってくる者がいる。


 かくいう自分も、旅先で出会った大柄なオランダ人からお茶漬けをもらった。彼も、同じ宿に居合わせた日本人から何らかの話の延長で、何袋か分けてもらったらしい。巡り巡って、結局、そのお茶漬けは僕のような日本人が食することで、異文化交流は一巡したといえる。


 角が擦り切れた花札は、何人の手に渡ったのか手垢で汚れている。


「気に入ったらあげよっか」


 苦笑交じりに受け取る。これを譲り受けても仕方ないのだが、なぜかこの絵柄を見ると心が落ち着いた。さっき飲んだビールのせいだろうか。どこか胸に訴える原風景のようで、不思議な温かみを感じる。


 日本を出国してから三週間も経っていないが、一人遠く離れた海外にいると、このように日本的なものを見かけると、幾ばくかの望郷の念に駆られた。


 それは、彼女もそう感じているのだろうか。


 彼女とはアメリカとメキシコの国境の街エルパソで出会った。


 グランドキャニオンの観光基地であるフラッグスタッフからグレイハウンドに乗り込み、揺られること半日余り、到着したのが深夜二時。外は驚くほど暗く、人通りもない。夜明けまで乗客がまばらになったバスディーポのベンチで時間を潰していると、いつの間にか眠ってしまった。目が覚めると目の前に彼女がいた。にやりと覗き込まれ、


「また日本人じゃん」


 挨拶を返すより先に、貴重品は腰巻にあることを確認。


「大丈夫だよ、そんな簡単にスリに遭わないから」


 パスポート、ドル、格安長距離バスの周遊券といった全財産が自分の腹を温めている。これをやられると、文字通り海外で一文無しの危機に陥る。この地に足を踏み入れてから身に付いてしまった習性だが、我ながらビビり過ぎるのか。


 彼女は自分とは東西入れ替わり、ニューメキシコ州のサンアントニオから今朝やってきたそうだ。日焼けを一切気にしていなそうな化粧っ気のない風貌。色落ちしたシャツに、土で汚れたスニーカー。


 僕は彼女のような人に初めて出会った。


 彼女は会社を辞めて、もう二年間も海外を放浪しているという。



 二段ベッドが左右に四つ並べられた窮屈なドミトリーの一室。今は八月だが、日本では考えられないほど冷房が効いた室内は全てが凍り付く勢いだ。同室の旅行者は皆、夜の街に繰り出したが、生憎貧乏人の僕は行く当てもなかった。暇つぶしにロビーの掲示板に貼られた各種ツアーのチラシを眺めていると、彼女から部屋で飲もうよと誘われた。


「そういえば、私って三鷹市の出身なんだよ、キミは?」

「ふじみ野です」


 そこどこ?と首を傾げる彼女に、埼玉のはずれですと前置きして東武東上線を北上した場所と伝えると、彼女はぱっと頬を赤くする。


「おお、じゃあ同郷じゃん」

「同郷? だいぶ距離ありますよ」

「この一帯は昔、武蔵野って呼ばれていたんだって」


 酔いが回っているのか、彼女は楽しそうに講釈を垂れる。


 武蔵野は、北は荒川、南は多摩川に挟まれた武蔵野台地を指すようで、遮る山脈もなく見渡す限り萱やススキが広がる――


「こんな花札の絵柄みたいな場所ね」


 うっとりする彼女には悪いが僕は、


「そんな風景みたことないですよ」と冷めた態度をとる。「てゆうか、これが武蔵野の風景って言われても、いまいちぴんときません」


「だよね。私もマンションしか見たことない。私にとってあの一帯って、ただの街だよ」


 街――


 そうだ。僕にとって武蔵野は、どこまでも似たような住宅が広がり、ロードサイドに聳え立つショッピングモールが社交場の――退屈な場所だった。


 昔から旅、というものに憧れていた。


 片道一時間半をかけて中央線沿線の大学に通うことになったが、半年も経たずに行かなくなった。別に友達がいなかったわけでもない。ただ、思ったよりつまらなかったのと、一足先に就職した姉が毎日疲れた顔で深夜に帰宅するのを見ていると、自分の先がわかってしまったからだ。そこから先は早かった。通学の面倒臭さも相まって、部屋でスマホだけを眺める自堕落な生活に成り下がった。


 アメリカに来たのだって一時の衝動だ。姉の、大学時代に海外行っとけば良かった、この一言になぜか焦りを感じて旅立っただけ。


 特に人生観を変えたいとか、そんな大それたものなどなかった。


 ここでふと考えた。

 じゃあ彼女は何で二年も――


 そんな興味がストレートに口に出た。僕の問い掛けに、彼女は見透かすような笑みを浮かべた。


「キミ、難しいこと考えてるね」


 軽く小馬鹿にされたあと、


「ねえ、明日、国境越えてみる?」


 翌日、僕は人生で初めて国境というものを陸路で越えた。



 市中から暫く歩いて南下すると、メキシコに続く国境のサンタフェ橋が見えた。往来の車を横目にこの橋を渡るとシウダー・フアレスに着く。


 こんな簡単に越えれるんだ。そんな単純な衝撃。


 一時間も満たない距離なのに、国が変わると雰囲気が一変した。行き交う人種の割合、交通の混沌、街がもつ熱気、雑踏の褪せた匂い、何もかも。


 鳴りやまないクラクションと喧騒に唖然とする僕を連れて、辿り着いた場所は小さな日本食レストラン。流れのマリアッチの旋律が響くなか、汁なしラーメンが運ばれる。


「こっちの方が物価も安いし、久しぶりに日本食が食べたくなったのよ」


 彼女はバンコクからスタートして東南アジアを周遊後アルゼンチンに飛び、そこから北上してきたそうだ。余りのスケールに絶句。アメリカは何もかもが高いから、もう一回メキシコに入国しようか迷ってるのよ、と笑う。どうやら彼女はこれを目当てに、日帰り越境に僕を誘ったようだ。


「コレって武蔵境が発祥なんだよ。こんな異国でも食べられるなんて感動もんだね」


 諸説あるようだが知っていた。大学に通っていた時に何度か友達と食べに行ったっけ。

 意外にも味は本格的で日本で提供されるものと遜色はなかった。噛みしめると、まだ大学に通っていた時を思い出す。友達は今なにやってるんだろう。同時に自分は。


「そういえば、キミはどこからきたの」


「ロスです」


「どこまで行くの?」


 この問いに言葉が詰まる。手元にあるのはわずかな資金と往復航空券であり、端から目的地もなかったからだ。最初、ロスに降り立った時はおっかなびっくりだったが、一人旅に慣れてくると、自分がどこまで行けるか試したくなり、気が付けば国境の街まで流れてきたのだ。


「カードも無いの? 随分無茶だね」

「持ってなかったもので。現金が尽きたらそこでお終いです」

「思慮深いのか無鉄砲なのか、難しいねキミは」


 呆れ顔の彼女を前に、今更ながら苦笑する。どこまで行けるかなんてかっこつけたはいいが、現金の底が終着点なのだ。


「お金がないなら無理にとは言わないけど、せっかくだからココに行ってみない?」


 彼女から一枚のチラシを見せられた。


 ホワイトサンズ国定公園――名前の通り荒野に突如として出現する白い砂漠。


「そこで見える月が幻想的で綺麗なんだって」




 翌朝、空は雲一つない青が広がる。ミニバンに乗り込んだ僕ら含めて五名の旅行者。宿から三十分も走ると、遮るものがない地平線がお出迎えした。乾燥した大地に一直線の道が伸びる。気紛れに窓を開けると乾いた砂混じりの風が舞い込み、彼女の黒髪を揺らす。


「閉めてよ」と文句を言われて、改めて遠い場所まで来たなと実感した。


 宿主催のツアーに申し込むと残りの資金が一気に減るが、断る理由もなかった。どこかで旅を締め括らなければならないなら――


 やがて目的地に到着して、宿のオーナー兼ガイドを先頭に、公園事務所からその奥へと進む。最初は荒野にばら撒かれた白い砂地が見えるだけだったが、深部へ進むにつれて、景色は白一色へと変化した。足元の草木も遠くの山々も見えない、龍のようにうねる雪花石膏の砂丘に囲まれた異世界。悠久の風に抱かれたような砂紋が美しい。


 彼女と二人で聳え立つ砂丘をよじ登る。登った先で目に映るのは、どこまでも広がる白い砂丘。


「もうすぐマジックアワーが始まるよ」


 砂に足をとられてよろめいた彼女の手を引き、頂上部で腰を下ろす。


 二人で変わりゆく空の色をぼんやりと眺めていた。


 太陽が沈む刹那、空は赤く染まり、大地の白に溶けて淡く色を変える。


 辺りが闇に包まれると頭上には青い満月が現れた。


 海外にくると日本の風景に想いを馳せるという。それは今も昔も変わらないのでは。河川の多い武蔵野と呼ばれた地域は、遠く離れた土地から誰かが川を越えて、移り住み、そんな人の往来や定住によって成り立った。昔の人も、故郷の夜空と原野の月を重ねたのだろうか。


「日本が恋しくならないんですか?」

「ちょっとはあるけど、それよりも世界中の色々な景色を見て回りたいかな」

「あるんじゃないですか、日本にもこんな景色」と花札を見せる。


 彼女はちらりと一瞥しながら意味深に笑う。


「また難しいこと考えてるね、キミは」


「考えてませんよ」


 ただ、月に照らされたあなたが綺麗だなって。


 今はそう思ってるだけです。



 了



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エルパソの月(角川武蔵野文学賞最終選考) 小林勤務 @kobayashikinmu

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