第3話
「では、おばあ様、これで失礼します」
「じゃあね! ばーば!」
「いつでもおいで、ミソラ。タケルさんも、元気でね。ショウコにも、たまには顔出すよう、きつく言っといてくれ」
白塗りの戸が締まり、いつまでも聞いていたかった幼い声が遠ざかっていく。今日は孫娘の旦那と、ひ孫のミソラが来てくれた……面会の時間はおしまいだ。アタシはこの部屋に一人、取り残される。……そんな時間にも、もう慣れた。
色々なことがあった。
良いことも、悪いことも数えきれないくらいあった。
恋もしたし、失恋もした。高校生になって経験した初めての失恋の時は、死んだ方がマシだと思うくらいだった。
高校を卒業したら就職するつもりでいたけれど、おばあちゃんが小金を貯めてくれていたらしく、大学まで行かせてもらい、都会の暮らしも経験することができた。
結婚もした。お母さんに勧められての、半ば強制的なお見合いから始まったお付き合いだったけれど、何度か会ってみるうちに「この人となら大丈夫」と思ったのだ。
三人の子供に恵まれ、子育ての大変さを思い知った。一人目が生まれたときは、今までの自分の身体でなくなったと思わせられるほどに体質が変わってしまい、色々と苦しんだし、周りに迷惑もかけた。それでも、この世で一番大切なものがアタシにはできた。
そうして育った子供たちは自立し、アタシの元から離れていった。自分の子の結婚は、嬉しくもあり、少し悲しかった。次第に静かになっていく我が家を見ながら、涙は決して人前では見せないようにしていた。
二人の子供に孫が産まれた。電話で知らされた時には実感が湧かなかったけれど、実際に会って抱っこさせてもらったとき、その温かさは、一番大切なものがまた増えたことを伝えてくれた。一番がたくさんあったっていいじゃないか。アタシ自身なんかより大切なものはもう片手じゃ足りなかった。
肉親との別れは悲しかった。初めはおばあちゃん。本当にアタシのことを最後まで一番大切に想ってくれていたということは、大人になって初めて実感できた。さすがにお葬式の場は平然さを保っていれたけれど、しばらくの間、思い出すたびにワンワン泣いていた。それからお父さん、お母さん……アタシの子供たちの前では多分、いつもの「お母さん」でいれたと思っているけれど、油断するたびに膝は崩れ、顔は歪んでしまった。
孫に子供が産まれた。落っことしては怖いので、抱っこは遠慮しておいたけれど、本当は抱きしめて走り回りたい気持ちで一杯だった。産まれたばかりの頃の娘によく似ており、ミソラは間違いなくアタシの血をひいていた。
あの人はアタシより先に逝ってしまった。気が強かったアタシのことだ。色々と衝突もしたし、それで苦労をかけたことも多いだろう。悲しかった。とても悲しかったけれど伝えたい気持ちは「ありがとう」の方が多かった。
歳は九十を超え、それでも畑仕事に精を出すアタシを周囲は心配していたけれど、身に染み付いた日課は自然と身体を動かすものだ。そしてある日の早朝、庭の掃除をしていた際――アタシは倒れたらしい。
今年で定年退職を迎えた息子の意思であれよあれよと転院の手続きが進み、アタシは生まれ育った町へと戻ってきた。
窓から見える町並みは、記憶にある頃とすっかり変わってしまっていた。昔友達と一緒に走り回っていた田んぼや公園は見当たらない。聞くところによれば、持ち主に手放されて放置されていたり、取り壊されてただの空き地になったりしているとのことだった。学校への通学路だった商店街は、軒並みシャッターが下ろされ、代わりに……とおずおず主張するかのように、大して大きくもないスーパーがポツンと一軒建っている。
「本当に短いんだねぇ」
ポツリともれた独り言は、人生というものに対して、であった。「人生二十歳が折り返し、そこからの時間は一瞬だぞ!」と誰かが言っていたっけ。その声の主を思い出そうとしたけれど、無駄だと思いすぐにやめた。
アタシは最近、色々なことを思い出せなくなってきている。いや、思い出せない……というのは少し違うかもしれない。今日の朝食の献立、昨日のTV番組の内容など、現在に近しいものは全くと言って良いほど記憶に残らない。けれど、昔のこと――アタシがこの町に住んでいた頃の出来事は割と思い出せるのだ。
最近、変な夢を見る。その中でアタシは、先の見えない階段を登っている。……もう現実のアタシにそんな力は残ってないというのに。
一段一段と踏み締め、一息ついて振り返ると――今まで登ってきた階段が、細かい粒子となって消えていく。驚いて足元を見ると、そこも粒となってサラサラと消え始めている。――落ちる! と身構えるけど何も起こらない。確かに登ってきたはずのものは消え、ただアタシ一人、取り残される。唯一遠目に見えるのは階段の始まり辺り、その部分は数段残っている。残っているのだけれど――それも少しずつ砂のように上から崩れ始めているのが年老いたこの目からでもしっかりと見える。
そうして目を覚ますと同時に悟るのだ。あの階段が消えて無くなる時が、アタシという人一人の人生の終わりなのだと。
そうして月日は流れていく。今は何月の何日だろうか。着ている服から見るに、どうやら夏は過ぎたらしい。
……アタシは多分、この病院から出ることはできない。自分の身体のことだ。医者に直接指摘されなくても何となく分かってしまう。アタシの身体に繋がっているなんだかよく分からない管は入院当初より増えており、まるでしつこく絡み付くツタのようだ、と思うこともある。
満月が綺麗な夜だ。カーテン越しにもよく分かる。
――一瞬、何か火花のようなものが頭の中で散って消えた。それが何なのか分からないが、多分、似たようなものを昔見たことがあったんだろう。……思い出そうとするだけ無駄だ。
廊下や室内は最低限度の照明だけが点灯しており、それは就寝時間をとうに過ぎていることを意味していた。
寝よう。次に起きるのは何時か分からない。もしかしたらまだ夜かもしれないけど、それならそれでいい。どうせ時間になったら流されるままに動くだけだ。
そんなことを考えながら、アタシは目を閉じた。
「……イ」
珍しい。今日の夢は音声付きなのか。
「……オイ」
少し音量が大きすぎやしないか。いくら夢でもそのせいで眠れないのは……少しだけ困る。
「オイ」
……これは夢じゃない。誰かがアタシを起こそうと声をかけている。でもこんな乱暴な口調の看護師さんはいただろうか。文句の一言でも言ってやろうと目を開ける。
「ったく、やっと起きやがった。オレは律儀にきてやったってのにオネンネとはイイご身分だな、オイ」
いつの間にか開かれていたカーテンと窓、そのサッシに黒服の少女が座り、金色の瞳でアタシを見下ろしていたのだった。
「あんたは――」
夜遅くにこんな格好でうろついている人物なんて、きっと碌なヤツじゃない。泥棒の可能性だってある。そう思ったアタシは、ありったけの力を振り絞ってナースコールボタンに手を伸ばそうと試みた。
「待てって」
――またあの火花が頭の中に走る。着火しようとするが、そのライターの歯車ヤスリが上手く回らないような、そんなもどかしい感覚に囚われる。
それでも不審者には変わりないはず――伸ばす手は止めない。止めないけれど――届かない。そして気付く。アタシはもう、自分の意思で身体を動かすことができなくなっていた。
「オマエ、だいぶ前からそんな感じだぞ。気付くの遅えのな。まぁ自分のことになるとトント疎いのは昔っからか」
どういう意味だろう。分からない。
「金目の、ものなら、アタシは、持ってないよ……他を当たって、下さいな……綺麗なお姉さん……」
一体何日ぶりにアタシは喋ったのだろう。かすれた声はちゃんと届いただろうか。
「もう一年近く、オマエはそんな感じだよ。身の回りのことは最低限、決まった時間にあの白服どもがササっとやって帰っていくだけさ」
「……お姉さんは、よく知ってるねぇ……。ここの人、なのかい……?」
「バカ言え、んな訳ねぇだろ。百パーセント、自信を持って部外者だ」
「……なら、お姉さん、は……一体誰、なんだい……?」
少女はサッシからよっと飛び降り、アタシの顔を覗き込んでこう言った。
「オレかい? オレは――『死神』さ。ちゃーんと半世紀以上に渡ってオマエとの約束を守りにきた、な」
――走る火花は次第にその数を増やし、束ねられてより強固なものとなる。そしてそれは、アタシの中で磨耗してしまっていた、ある一つの記憶に強烈な火を灯した。
「ごめん……忘れちゃってたね」
この時、この瞬間、アタシは確かに当時の「アタシ」だった。声色も姿もあの頃とはすっかり変わってしまっていたけれど、それでも「アタシ」だったのだ。
「気にすんな。ニンゲンはそーいうもんさ」
「あれから何してたの?」
「別に? その辺フラフラしてただけさ。あぁもちろん、オマエに目ぇ付けてた以上、ちゃーんと見てたぜ? それこそ今に至るまでのぜーんぶをな」
「……退屈じゃなかった?」
「言ったろ? オレは存在そのものからしてニンゲンとは違うんだよ。時間の感覚なんて無いに等しい。寝て起きたらオマエがババアになってた。そんだけのことだ」
「口の悪さは変わらないんだね」
「元々こうだ。いちいち気にしてられっか」
大仰な仕草も、口調も、こいつはあの時と全く変わらない。変わってしまったのは……自分だけだ。
「――で、どうだった?」
このニヤけた表情も懐かしい。
「楽しかったか?」
うーん、と少し考える。確かにあの時のアタシは自分が一番不幸なんだと思っていた。思い込んでいた。「運命は平等じゃない」っていうこいつの言葉はその通りで、そこから先の人生でも良いことが続いたかと思いきや、ドン底に叩き落とされるような出来事だって経験してきた。……それでもここまで生きてこられた。生きようと思うだけの理由は確かにあった。だから……
だから、アタシの答えは――
「――悪くなかったよ」
「うん、悪くなかった」
「一つ一つ振り返ってたらキリがないけど、全部、ぜーんぶひっくるめて、悪くなかった」
金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、そう答えた。
しばらくの間、無言の間が訪れる。こいつが何を考えているかは分からない。けれど、今のアタシが持っている全てをぶつけてやった。そんな妙な爽快感があった。
開いた窓から吹き込む風は少しひんやりとしている。やっぱり、今日は満月だった。
「……そうかい」
ニヤけた表情は消え、どこか神妙な面持ちに見えるのは気のせいだろうか。
「契約……忘れてねぇだろうな?」
「……ごめん!」
「この馬鹿野郎。あんだけ言ったじゃねぇか。……分かってるだろうがここにオレが来たってことは――」
「――うん、大丈夫」
ちゃんとアタシは理解している。こいつの役割も、契約についても。今さら何かを差し出すのにためらいなんか無い。惜しむわけがない。それだけのものを、アタシはコイツから既にもらってここにいる。
これは奇跡のようなものだ。アタシの心に灯る火はまだ残っているけれど、それもすぐに消えてしまうだろう。……多分これは、アタシに残された時間の前借りで灯された火だ。ならここで消してはいけない。血や肉や骨、アタシの全てを燃料にしてでも全てを終えるまでは絶やしてはならない。
契約――アタシの『思い出』を食べる代わりにこいつが叶えてくれる願い。
富、名声、権力、愛――そんなものは要らない。第一、アタシに子供が生まれた時、自分の人生における優先順位は入れ替わり、アタシは一番ではなくなっている。
こいつの言った通りになって何か癪だけど、アタシは自分の考えを一番に生きてきた。矛盾なんかしていない。自分の子供、さらには孫やひ孫と、自分より大切なものを優先している自分の姿が一番大事だったというだけだ。そして、その考えは今この時も決して揺らぐことはない。
「……願い事もオッケーだよ。ねえ、一つだけ聞いていい?」
「手短にな」
「アタシの『思い出』は美味しそう?」
「喰ってみるまで分かんねぇよ。けど――あん時よりは全然マシだと思うぜ? いやホント、前のオマエからは炭みたいな匂いしかしなかったからな。正直、腹下しそうな予感しかなかったわ」
「……契約、やめようかなー」
「――冗談だ。こんだけお預けくらっておいてそれはマジでやめてくれ」
「ウソだよ。あースッキリした!」
こいつからはこれだけ引き出せれば十分だ。それに……多分もうアタシに残された時間は少ない。胸の内で小さくなっていく灯火にくべることができるものは、もう何も残っていない。
けれど――これはアタシに残された数少ないもの全てを燃やし尽くして手に入れた奇跡だ。ムダになんてするもんか。そんなの許せない。そんなの――今のアタシじゃない!
「……もうちょっとおねーさんとお話してたかったけど、難しいみたいだね」
「……あぁ、そうだな」
「願い事、ちゃんと守ってくれるの?」
「そういう決まりだからな、破るとオレが死ぬ」
それなら安心できる。多分こいつはあの時も、そして今も親切な誰かさんとの契約を守り続けてここにいるんだ。ならアタシがお願いすることは一つだけだ。
ゆらめく灯火は、すでに一息で飛んでしまう大きさだ。
「・・・の・・・を・・・・・・」
……ちゃんと伝わったかな? 焦った。ホントにギリギリだった。少し余計なことを喋りすぎたのかも……まぁいいよね、それくらいは。感謝の言葉は言わない、言ってあげない。それは未来の誰かに任せよう……こんなことばっかやってるとあいつは永遠に言われないかもだけど、こればっかりは自業自得だ。あいつはあいつでそういうあり方を選んでるんだろう。だったらアタシが口出しすることじゃないもんね。これでアタシの時間はオシマイ。後はお願いね、
「……ったく」
言葉を返す相手がいなくなった空間で黒服の少女は呟く。
「結局同じことしか言わねぇじゃねーか、オマエらは」
ある日、ある時、二人を照らしていた夕陽や月光。それらはスポットライトの如く、今宵も病室へ冷たく差し込む。その照らす先に、生あるものはもういない。
「ばーば、てんごくにいっちゃったの?」
「……そうだよ、でも大丈夫。ちゃんとミソラを見守ってくれてるからね」
ママはそういってあたしをだきしめてくる。なんでママはないているのかな? よくわからない。だってあたしをみててくれるんだよね? それってまえよりもっとあえるってことだよ? よんだらおへんじしてくれるのかな?
「ばーば!!」
「ミソラ!」
なんでママはとめるの? ばーばはちかくにいるんだよね? ぜんぜんあえなかったから、あたしばーばとおはなしするのたのしみだよ!
「ミソラ……おばあちゃんはね……」
「ママ、なにかきこえるよ?」
斎場の片隅で草むらが揺れている。
「ばーばかな!」
あたしははしった。ころんじゃうかもだけどあたしはへーき。だってそれよりうれしいんだもん。
草むらから黒い影が飛び出した。
「わあ、ネコさんだー」
普通の猫より少し大きめで、やけに長い毛を持つ黒猫だった。そして何よりも、その瞳に湛える怪しげな金色の光が際立っている。
「おいでおいでー」
よんでみたけどあたしをみているだけでぜんぜんちかよってこない。あたしはこんなにやさしいのに、
じゃあこっちからいってなでてやろう、とすこしちかよると、にげられてしまった。むぅ、とあたしはせいいっぱいふまんげなかおをつくってみた。
「ママ、ネコさん逃げちゃった!」
「野良猫はほとんどそうよ。人に慣れてないから逃げちゃうの」
「ふーんだ、あたしあのこキライ!」
ほんとはおともだちになってなでなでしたかったけれど、あたしはせいいっぱいのうそをついた。
「それでいいのよ、ミソラ。あんまり近づくと引っかかれちゃうからね」
「……うん、わかった」
手を繋いで歩いていくニンゲンが二人。この後向かうのは彼らが暮らす家だろうか、それともついでに買い物でもしていくのだろうか。……どうだっていいか。
……アイツの「思い出」はたいそう美味かった。ならそれ相応のモンで応えてやるのが筋ってヤツだ。
金色の瞳に映るのはまだ幼い少女、まだ自分の世界しか知らない少女、そしてこれから――自分以外の世界と触れ合うことになる少女。
――廻る、廻る。時間や場所、肉体は異なれど、廻り続けるものがある。誰かに意図されたものでなくとも、同じように紡がれるものがある。廻る、廻る――
金色の環 餅野くるみ @kurumi-mochi
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