第2話
「――は?」
唐突に飛び出してきたその言葉を、アタシは理解できずにいた。何だって? 死神? あのフード被って鎌持ってるあれ?
「あぁ、別に意味なんて深く考えなくったっていいさ。単にオマエらの見方で言えばそれが一番近いってだけで、オレはそんな枠に縛られるようなモンじゃねぇよ」
「はぁ」
本当によく分からないので適当に相槌を打っておこう。そして適当に誤魔化して逃げよう。そんな算段が頭の中を駆け巡る。
「少し話さねぇか? ちょうどヒマしてたんだよ」
「いえ……この後塾があるので……」
「いや、オマエサボってたろ」
――まただ。こいつはアタシしか知らないことを知っている。アタシの表情から強い警戒の色を感じ取ったのか、一歩下がって両手をヒラヒラさせている。一体何の意思表示だろう。
「そんな睨むなって。死神って言ったろ? 腐っても神様なんだぜ、オレは。全知全能とまではいかないが、そこそこ便利なチカラでオマエの考えてることなんざ丸見えなんだよ」
自称「死神」という部分と、そのよく分からない能力については疑う余地が十分にあるが、それとは関係なくこのまま何も無しに返してくれそうな様子もない。
アタシは腹をくくった。
「分かりました。何を話せばいいんですか?」
「そんな大した内容じゃねぇよ。言ったろ? 暇つぶしみたいなもんさ」
決まりだな、とそいつは前置きし、
「とりあえずこんなとこで立ち話もシンドイし、中入らねぇ? いい具合に座るモンもあったはずさ」
中とは? 既にここは屋内なんだけど。
「こっち」
そいつは背後にある教室の入口らしき部分を親指で指し示した。
「……暗くなる前には帰りたいんですけど、それでもいいなら」
「よし! 決まり!」
そう言うが早いか、そいつはズカズカとその教室へ入っていった。時折「邪魔だな、コレ」などの声と共にガチャガチャと鈍めの金属音が聞こえてくる。
「オーイ、早く入ってこいよー」
覚悟を新たにアタシは教室へと入ることにした。
思っていたよりもマシな状態だった。何がと聞かれれば廃教室の様子が、である。ボロボロなのは変わりなく、机や椅子は隅に重ねられて一つ取り出すのも大変そうだ。外からも見えていたが、窓ガラスは一つ残らず割れており、吹き込む風になびくカーテンは、元が何であったのか分からないほど劣化し黒ずんでいる。黒板にはよく分からない外国語のようなものがスプレーで吹きつけられていて、一種のアートの様なものを形成していた。
それでも、そんな有様であっても、ここでかつて授業が行われていたんだな、ということが分かる程度にその空間は体裁が保たれていた。
そんな教室のど真ん中に机と椅子が一組設置されている。目の前に得意げに立つこいつがあしらえたのだろう。
「まぁ座れよ。座り心地は保証しないが無いよりマシだろ?」
「……長い話になるならお断りしたいんですけど」
いいからいいから、と軽快なステップで背後に回ったそいつは、アタシの肩を押して半ば無理矢理椅子に座らされる形になった。
埃が舞い上がり、たまらず目を閉じて周囲を手で扇ぐ。どうやら長年にわたって積もりに積もっていたもののようだ。
「……最悪」
スカートと上着は完全にクリーニング行きが確定した。本日の悪いことポイント、プラス一だ。
ため息をつき、あらためてそいつを見上げた。逆光が順光となり、今度は姿がよく見える。
女性……であることは間違いないと思う。スラリとした長身、黒を基調としたワンピース型セーラー服を違和感なく着こなしており、胸元では赤い長めのスカーフがヒラヒラとはためいている。学区内でこんな制服は見たことがない。夕日を受けて艶めく黒髪は異常に長く、少なくても腰くらいまであるんじゃないだろうか。それは窓(であったもの)からの風を受けて廊下側になびいていた。磁器を思わせる白い肌に整った顔のパーツが並ぶ。そしてその中でも彼女を際立たせているのは、切長の目の中心からこちらを覗いてくる金色の瞳であった。
「それで、今日は楽しかったか?」
いきなりケンカを売られた。ニヤニヤと笑っていることから、あえて聞いてきたのだろう。今日のアタシの不幸事情はほぼ全て知られていると考えていいはずだ。
「……うん、とっても!」
そっちがそういう態度なら、こちらもそれに合わせて言葉を投げ返すだけだ。できることならそのニヤけた顔面に。
「そうか、ソイツはよかった!」
「自称『死神』のオレから見ても今日のオマエのツキっぷりはかーなーりぶっ飛んでたんだぜ? それを愉快痛快な出来事としてキャッチできてるんなら言うことねぇさ。尊敬に値する」
「………………」
そんなわけない……ある程度の舌戦は覚悟していたけれど、それはものすごくちっぽけで、まだ自覚なく未熟な身であるゆえに簡単に吹き飛んでしまった。
「そんなわけないでしょ!」
アタシのタガは一瞬で外れ、決壊した感情が流れ出していく。
「何も面白いことなんてなかった!」
「みんなアタシのことなんて嫌いなんだ!」
「みんなみんなみんな! アタシの敵だ!」
吹き出す感情に言葉が追い付かず、具体化できない。でも、それでも良かった。あたしの中に渦巻く呪いのような感情を、言葉にして吐きだしたかったから。
「……楽しくなんて、なかったよ」
止まることなく流れてくる涙は、悲しみからくるものか、怒りからなのか分からない。この激情が頬を濡らしているのだろうか。歪む表情やポロポロとこぼれるしょっぱい雫が逆に感情を抉り出しているのだろうか。もはやどっちでもいい。感情に色があるならば、アタシのキャンバスはきっとぐちゃぐちゃに塗りたくられているに違いない。
「そうかい」
特に変化のないトーンでそう答えたこいつは、アタシが全て言い終えるのを待っていたのだろうか。荒くなった息を整え、涙を埃っぽい袖でぬぐって顔を上げた。
イヤに芝居がかかった口調と動作でそいつは言った。
「だけど心配しなくったっていいさ、悪いことがあった後には必ずイイことが待っている――」
「――なんてはずナイだろ?」
そんなこと、今日のアタシは嫌というほど分かっていた。
「オマエらニンゲンはアタマの作りがヒジョーに都合よくできてる。自分らにとって、な。そんで、そのアタマに残るのはメチャクチャ良かったこと、悪かったことってパターンが多い。もっと細かい目で見ればアリンコみたいな幸せやその逆だってあるだろうになぁ」
「それがたまたま交互に起こってるように錯覚しているだけさ。いや、そう思ってくれた方が都合がいい誰かさんがいたのかもな!」
何がおかしいのか腹を抱えて笑っている。もうこの際見た目と口調のギャップは気にしないことにした。それに、こいつの言うことは別に理解不能なわけではない。ご高説の開陳だけで満足してくれればいいけれど。
「大体、良いこと、悪いことってぇ括りで見れば、大概の人間にとっちゃ悪いことの究極ってのは死だ。考えてみな? 大病を患ったり、交通事故にあったりってモンはソイツにとって結構悪いことだろ? ならその後良いことが起こらなきゃ割に合わないはずだ」
「にもかかわらず、そのままおっ死んじまうことだって全然あるわけだ。な? おかしいだろ?」
「はぁ……」
理解できないわけではないし、納得もできる。しかし、素直に頷きこいつを調子に乗らせるのもヤダなと思った上での反応である。
「オマエらの運命に平等なんてもんはねぇよ」
キッパリと、気持ちがいいくらいに言い切った。
「そんなモンは詭弁で、くだらない。大体、何が幸か不幸かなんて誰が決めるってんだ。立場によってそんなモンいくらでも変わってくるじゃねぇか、なあ?」
「それは……そうだと思います」
だろ? と返すこいつの話は、繰り返すが分からなくはない。ただキリがなさそうだ。このままでは日が沈んでしまい、諸々含めた大目玉をくらうことになる。
「あなたは何が言いたいんですか? アタシの不幸のことなら分かりました。……もう諦めもついています。ただこれ以上はあまり時間がないので帰りたいんですけど」
「励ましの言葉」
全然、これっぽっちも癒されてない。ただ事実をドンと並べられただけじゃないか。
「――帰ります」
「まぁ待ちなって」
今のところ時間を無駄に持っていかれただけである。
「暇つぶしなら他の人を当たって下さい。別にアタシ以外の人だっていいじゃないですか」
これは本心である。一階のゴミなどから、ここを訪れる物好きもゼロじゃないみたいだし。
「世間話ってやつさ。どうだ? 少しは様になってただろう? よくオマエらもやってるじゃあないか。ほら、『今日もいい天気ですねー』とか。そういうアレだよ」
よく分かんないし、それは大人たちの世界のことだ。あと世間話って、いきなり人のプライベート事情に踏み込むようなものじゃないはずだ。
そんなアタシの心情を読み取ったのか、こいつは半笑い気味の笑顔を少し引っ込め、ちょうど教壇であったであろう位置からこちらを見下ろしこう言った。
「悪かったよ。本題だ」
「……手短にお願いします」
「オマエ、オレのこと何だと思ってる」
「口の悪いおねーさん」
そう言われたそいつは、未だ舞っている埃の壁に孔を空けるように、乾いた笑いを一つ飛ばした。
「言うねぇ、でもソッチじゃあない」
「最初だよ最初。オレはどんな生きモンだって意味だ」
そう言われて一つの言葉を引っ張り出す。
「……死神?」
「そう、ソレ! 結構あの返しは決まってたって思うんだけど、どう?」
「どうもこうも、信じてませんけど……大体、死神とかいきなり言われても分かるわけないじゃないですか。お話の中でしか聞いたことないオバケみたいなものだし、格好とかもイメージと全然違うし……」
「――マジかよ、結構ショックだぜ……」
長座体前屈のようにうなだれる人は初めて見たかもしれない。
「じゃあ一個訂正。オレは死神じゃない」
そこは一番訂正しちゃいけない部分ではないのだろうか。
「正確に言えば『死神のようなモノ』だ。分かりやすいかなって思ってカッコつけたんだけど失敗したかー。まぁ次に活かせばいいか! ドンマイ、オレ」
だめだ。真面目に付き合っていては本当に日が沈んでしまう。ここは無理にでも――
「――だから待てって」
ここで折れたら負けだ。そう思ったアタシは言い返そうと言葉の手札を色々と用意していたが、それらは一瞬にして放棄せざるを得なかった。
――鎌が、アタシの喉元に突きつけられていた。
鎌という表現は……多分正しくない。目の前のこいつの人差し指から爪が異常に伸び、膨らみ、弧を描き、白く怪しい輝きを孕んでアタシの肩に置かれているのだ。
何を言おうとしてたかなんて忘れてしまった。こいつは普通じゃない――人間じゃない。――怖い、怖い、怖い!
「とりあえず座れって、な? 別にオマエをどうこうしようなんて思っちゃいないさ」
そんなこと信じられるもんか! と言いたかったが恐怖でまだ声は出ない。きっと顔も青ざめているだろう。背中には嫌な汗が一滴と言わず背中を濡らしている。
「ヨシ! 座ったな」
そうするしかアタシに選択肢はなかったからだ。
「『死神ようなモノ』ってのはそう言う他ねぇからだ。オマエらニンゲンは、アタマで――理屈で理解できないようなモノに出くわした時、とりあえず『名前を付ける』クセがある。名前という枠に無理矢理押し込んで、とりあえず理解した気になりたいからな。オレはそん中の一個、今ある言葉を使えば『死神』が一番近くてイメージしやすそうだったから使ったまでだ。『オレ』という存在に名前はまだ無いんだよ、オマエらはオレって存在を認識するレベルまでまだ来てないってことだな」
話が難しいのと……何よりさっきの出来事に対する恐怖からアタシはまだ抜け出しておらず、言葉を発することはできなかった。
「――で、だ。オレの役割はオマエを喰うことなのさ」
その言葉を理解するのにかかった時間は、現実において数秒未満だったんだろうけれど、アタシにはその倍以上に感じられた。意味の理解を脳が拒み、視界がぐにゃりと歪んで見える。
「アタシを……殺すって、ことですか……?」
かろうじて発することができた声は多分震えていたと思う。なんだ、こいつの言う通りじゃないか。悪いことの後に良いことが起きるなんて嘘八百。今日のアタシはえらく角度がついたすべり台に身を任せ、その着地点には足を着けることなく底のない落とし穴が掘られていたのだった。……そのトドメにきたのがそれを言ったこいつなのはなんだかなぁと思うけれど。
「オイオイ、何だその諦観っぷりは。言ったろ? 今ここでオマエをどうこうするつもりはないって。そりゃその素っ首刎ねることだって簡単にできるが、それはオレっていう存在意義に反するし、何より――契約違反だ」
「意味が、分からない、です……だって食うって、殺すってことと、同じじゃないですか……」
恐怖と混乱でもうよく分からなくなっていたけれど、かろうじて口は、喉は動いた。
「それも言ったはずだ。オレはまだオマエらニンゲンの認識の外にいる。オレが言った『喰う』って意味は、ニンゲンで言う咀嚼と嚥下じゃあないんだよ」
「そしゃく……? えんげ……?」
「噛むこと。飲み込むこと」
なら一体どういう意味なんだろう。
「オマエらは生命活動を終えた時――死んだ時にそれまでに溜め込んできた『思い出』を吐き出すんだよ。それは放っておけばすぐに消えて無くなるモンなんだが、オレらにとっちゃごちそうでね。それを喰ってる存在ってのがオレってわけさ」
「それが死神……?」
「『みたいなモン』って言ったろ。オマエらのイメージでいけば死神ってのはおおよそマイナス印象しかないはずだ。いやそりゃいるよ? ニンゲンに取り憑いて積極的に死を選ばせようとするヤツとか。でもオレとは存在自体が根っこから違うね」
「オレはニンゲンの死に直接関わらない。早死にしようが長生きしようがソイツの勝手、運もあるだろうが興味は一切無い。『思い出』さえ喰えりゃそれでいいのさ。ただ――」
初めてこいつのわざとらしくない笑顔を見た。恍惚というのだろうか。頬に両手を当ててうっとりとしている。
「――美味いんだ」
「酸いも甘いも経験してきた『思い出』ってのは、まさに極上の絶品。何物にも代え難い味がする。だから必然的に長生きしてるヤツらの方がオレにとって美味しい存在ってなワケだ」
未だ心ここに在らずといった表情だ。こいつが心というものを持っているかどうかは知らないけど。
「……あなたの言うこと、よくは分かりませんけど分かりました。分かったことにしました。けどアタシを食べるってどういうことなんですか? あなたの言ってることとの繋がりがよく分かりません……」
「ん? あぁ、つまりだ。将来的にオレはオマエの『思い出』を喰うつもりで目を付けている、ってとこだな。オマエは今『アタシってば世界で一番不幸!』とか思ってるだろうけど、そんな感情も含めて良い味に育っていくと思うぜ? オレは」
何だそれは。すごく身勝手な考えじゃないか。アタシの意思なんてこれっぽっちも入っていない。
「……アタシが早く死んじゃったら?」
多分効果は無いことは分かっていたけれど、それでも少しは言い返したかった。抵抗したかったのだ、アタシは。
「そんときゃそん時、ちゃんと喰ってやるよ。どんなに不味かろうとな」
……どうやらアタシは逃げられないらしい。こいつが人間でないのは明らかだ。そうだとすれば、こいつの言うようにすれば、今ここで短い生涯を終えずに済むだけマシだろう。……ただ死ぬまで生き続けなければならない、それだけのことだ。
アタシも含め、どうせ人間いつかは死ぬ運命だ。小さい頃、死を初めて意識した時はお母さんに泣きついたものだったけれど、いつの間にか平気になっていた。多分、常に意識なんてしてるとアタシが保たないからだろう。全く、目の前のこいつの言うように、人間って本当に都合よくできているじゃないか。
「だから足掻け」
金色の瞳がアタシを射抜くように見つめている。不思議と視線を逸らす気にはならなかった。
「足掻いて足掻いてオマエが心底『あぁ良かった』って思えることの一つでも拾ってみせろ。いや、もっと欲張ったっていい」
「いいか、繰り返すがオマエらニンゲンの運命なんて平等に作られてねぇ。良いことづくめのヤツもいれば、それを感じられずに死んじまうヤツだってザラにいる。良いことってのはあくまでオマエの主観で、だ。他のヤツらがどう思ってようがどうだっていいんだよ、オマエが良いならな」
ニヤリと笑うその表情は崩れない。
「もちろん、悪いことだってその辺にゴロゴロ転がってるに決まってる。言っとくが今日のオマエが思う不幸が底だなんて思うなよ? 大体そういうもんは二重に作られてるからな。明日はもっっっと悪い日かもな」
ふぅと一息吐く。本当に嫌味なやつだと思う。だけど、もうそれだけだ。さっきのような怖さはない。こいつはただの口と性格が捻じ曲がった死神モドキで、確かにアタシに言いたいことはあったのだ
「……次に会うのは、アタシが死んだ時?」
「正しくは、死ぬ間際だな。オレらの世界にも色々決まり事があるんだよ」
面倒臭い事にな、と側頭部をポリポリと掻いている。その動作に合わせて長髪もわずかに揺れている。
「『契約』ってのがある」
うっすらと聞き覚えがある言葉だった。恐らく今日、この場で。ただアタシは今初めて冷静な考えを取り戻したと言える状態で、申し訳ないがやりとりの半分以上が曖昧だ。
「オマエらが死ぬ間際、その『思い出』をオレが食べるかどうかは実は一方的な意思で決めれない。互いの合意が必要なんだよ。――オマエらは『思い出』をオレに差し出す。――オレは死の間際にソイツの願いを一つ聞いてやる。そういう決まりになっている。意地が悪いだろ? まだ人生が残ってるならまだしも、この世からオサラバの瞬間に願いが叶うんだからな。富とか名声とか権力だとか愛だとか――そういう生きてる内に欲しいモンはゴミ同然になっちまうのさ。あ、若返るとか延命とかってのは無理な。あくまで死を迎えた上で『思い出』をさしだすことが契約条件だ」
「――だから決めとけよ、願い。枕元とは言わず、本当に昇天の寸前にオレは来るからな。喰えなくなるのは最悪だ」
待たせに待たせて、その上でのお預けでも面白いかもしれない。それはきっと、アタシがこいつに一矢報いる最期の手段だ。だけど――
「今すぐに決めろって言われても無理かな。だってアタシは長生きしなきゃいけないんでしょ? そしたらやりたいこと、したいことなんて多分コロコロ変わると思うよ。その時その時で考え方なんて変わるよ――今みたいに」
「分かってんじゃねぇか」
ニヤリと笑う、ここに来て見慣れた表情だ。
「せめて忘れないようにしときな、メモなんか取っててもいいかもな」
「それは嫌。変な人扱いされちゃうから」
会話が途切れ、ひと時の間が訪れる。それは決して張り詰めたものでなく、むしろいつまでも浸っていたいと感じさせてくれるようなものだった。
「……じゃあな」
「うん」
もう引き止められることはない。
「……今日の悪いことポイント、また増えるな」
「――へ?」
「――時間。走って帰っても色々間に合わねぇだろ」
外を見た。綺麗な満月が空へと登り、それを歓迎するかように様々な虫の声が響き渡り、少し肌寒い空気はどこまでも澄んでいる。差し込む月の光は、綺麗にアタシとこいつの姿を照らし出していた。
後ろからヒヒヒ、と笑い声が聞こえてくる。
「捜索願、出されてないとイイな」
塾用のカバンだけ引っ掴み、アタシは教室を飛び出した。天候が幸いし、校舎に差し込む光は夕陽から月光に変わったけれども足元はまだ見える。今はオバケなんかより怒られる事の方がよっぽどマズい。というかオバケよりも変なものに出会ったばっかりだ。
廃校舎の入口を走り抜けて草むらへと走るアタシの顔には何故か笑みが浮かんでいた。この後雷が落ちることは決まっているのに。制服も……あいつのせいで汚れちゃったっけ。これも怒られるだろうな。
それでも笑顔のアタシは完全に開き直っていた。不幸でも何でも来るなら来い! カヤで切れる脚も気にしない。途中で出くわしたモップも無視する。「恐怖! 廃校後を笑いながら走る女!」なんて都市伝説化しちゃっても面白いかもしれない。全部全部ぜーんぶ、ひっくるめてあいつに叩きつけてやるんだ!
そうしてたどり着いた我が家では、予想の範囲内の出来事が待っていた。それはそれは今まで経験したことがないくらいに怒られたし、長時間の正座も中々にこたえたけれど、それでもよかった。
それだけ怒られるほどにアタシは心配されていた。大切に思われていたのだ。帳消しにはならないけれど、今日の良いことポイント、プラス一に数えよう。
こうしてアタシにとっての長い長い一日が終わった。
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