2.
「あれえ。よくここがわかったね」
街中のカフェ、窓際のソファ席。四人がけの席を独り占めして、優雅にパンケーキを嗜む虹階。
「君も食べる?」
「いや、いい。それよりどうして勝手に離れたんだ」
「それよりどうしてここがわかったの」
「右足のアンクレットの機能、聞いてるはずだが」
パンケーキを切り分ける手が、一瞬止まった。
「ああ。そう言うこと」
細身のシルバーチェーンはただの装飾品にあらず。GPS機能を搭載した高機能アンクレットは、活動範囲を限定されたベースの必需品で、常時装着が義務付けられている代物だ。そこへ割り込む第三者の声。
「なになに〜珍しいじゃん。エルたんがお友達連れて来るなんて、もしや明日は暴風積雪あめあらし?」
胸元が大きく開いたメイド姿の女性が近づいてきて、メガネを直しつつぐいっと顔を覗き込んでくる。
「近いです」
「イケメン発見っ」
「護英くん、『お友達』は否定しなくていいの?」
「へええ護英くんっていうんだあ。わたしのん子。よろしくねっ」
収拾がつかず上手くかわす言葉が続かなかった。代わりに先を続けるのん子さん。
「よおしっ! 特別にモーニングパンケーキのん子スペシャル作ってくるから、逃げちゃダメだぞ護英たんっ」
「たん?」
呆気に取られ、スキップでキッチンへと戻るご機嫌な背中を見つめることしかできなかった。
「ハハハッ。よかったねえ護英たん。安心して待ってるといい。味は保証する」
「いや、重要なのはそこじゃない」
「じゃあ奇抜なメイド服?」
「そこでもない。最初に聞いただろ」
「そうだったね。ベッドを提供してくれたのに、お礼もせず勝手に離れたのは良くなかったかもしれない」
静かに置かれるナイフとフォーク。こちらを見つめる瞳には、何の感情も見られない。
「君はどうして、僕からの『おはよう』を当然のように期待したのかな。僕には脚がある。見えるでしょう。僕はわんこだけど首輪はない。わかるでしょう」
再び動き出すフォーク。
「それとも、僕を飼う気になってくれたのかな」
「そう言うわけでは」
「そっか。その気になったらいつでも言って。どこにいるか、いつでもわかるでしょ」
「すまない。にか……エル」
「どうして謝るのさ。それに呼び名は何でもいいよ。中身のない僕にとって、名前なんてただのシンボルだからね」
「お待たせしましたあー! 君専用のパンケーキだよおっ。護英たんとの出会いにかんぱ〜い!」
そして目の前に置かれる、パンケーキが隠れるほどクリーム大盛りの一皿。
「護英たん、お代はチュウでいいからね」
「あの、現金でお願いします」
「んもうっ照れ屋さんっ」
「ハハハッ。こんなに賑やかな朝は久しぶりだよ護英たん」
***
あの頃の虹階は、いつも窓際を選んで座る物静かな学生だった。
「虹階。ごめん、哲学概論のノート見せて」
「もしやまた寝坊したな」
「うーん。バイトの掛け持ちやめようかな」
ノートと共に一口チョコを手渡す君。
「無理はおすすめしないよ」
最初はノートを借りるだけの仲だった。それは誰でもよかったし、たまたま隣に座り話しかけやすい雰囲気だった虹階に声を掛けたまで。講義内容のまとめ方が上手で、手書き文字も読みやすかった。それが二回目に借りた理由。奨学金を受け一人暮らしをしていた私は、少しでも足しになればとバイトを掛け持ち、一時限目の授業は遅刻がほとんどだった。
あるとき静かな図書室で休憩するべく空席を探していると、書棚の前に見覚えのある横顔を発見。芸術分野の書架に挟まれ、画集を広げている。何気なく近づき画集を覗くと、淡い色味が印象的な、全体的にふんわりとした絵画だった。いかにも虹階が好みそうな雰囲気だった。
「あ、護英くん。お疲れさま」
「こういう絵が好きなの?」
「うん。光の捉え方が綺麗で、つい見入っちゃう」
「へえ。自分でも描いたりする?」
一瞬の逡巡に、その先の答えを見た。
「うん、まあ、趣味にすぎないけど」
「いいじゃん。虹階の絵って優しそう。今度見せてよ」
俯いて沈黙する様子から、絵に対して「優しい」という表現が不適切だったことに気づく。謝罪が口をつく瞬前、おずおずと振り向く虹階。
「うん」
淡く紅潮し喜びに溶ける頬。
以降芸術に触れる度、思い出す風景。
今となっては私の中にしかない、ひとりきりの思い出。
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