1.

 擦り寄る唇を遠ざけ、無言でその手を引いた。虹階も、抵抗せず無言で続いた。車で待機していた同僚には「栄養失調により保護観察対象にする」と体よく濁し、「対象」には大人しく後部座席に座ってもらった。


 オフィスに戻り、明るい面談室に二人きり。事務手続き上必要なカルテを作成することにした。対面して座すその表情に、不安や疑念、期待はない様子。胸ポケットからボールペンを取り出し日付と保護地を書いていると、虹階は言った。

「僕は細身なだけで、ちゃんと栄養は足りてるよ。基底保護制度、知ってるでしょう」

「ああ。嘘ついてすまなかった」


 ベースの人々は定職に就かないケースがほとんど。そこに起因する不具合を抑えるため、食事や宿泊地、治療施設などを提供し、安定的な生命維持活動を促すのが基底保護制度だった。


「君が思うより優しいんだよ。この国は」

「それは皮肉か?」

「好きに受け取って」

 水分を補給し一息ついて、カルテの作成を進める。

「名前は?」

「LLC31582-SA、通称エル。前はニカイだったらしいけど」

「それは忘れてもらって構わない。宿泊地番号は?」

「そこには行ってない。誰かの家に泊めてもらうか、秘密の屋上で寝てる」

「なるほど。普段は何を?」

「わんこ」

「……説明をもらっても?」

「誰かに寄り添って生きる人だよ。別に誰でもいいんだけど、今はロイ君」

「そうか」

「他にご質問は?」

 この先の空欄を埋めることに意味はない。これまでの経験から、それがわかった。自由が味方する者に、根掘り葉掘り質問をぶつけるのは野暮というものだろう。もし、最後に聞くとしたら。

「どうして、ここに?」

「君が連れてきたから」

「失礼、質問を変えよう。何故、あのエリアに?」

 虹階は笑って言った。

「難しい質問をするね。思い出したら教えてあげる」

 それは予想通りの回答で、同時に、予想通りに私の期待を打ち砕いた。


 一般的なベースに対する印象は「逃げ道」。私に言わせれば、ときに救いになり得る道。命を諦めずに保護するための一つの選択肢だ。

 ベース、それは過去の記憶と、寿命の一部を引き換えに開かれる新しい人生。自らの階級を最下層へと下げながらも、いつかの後悔や手酷い失敗、悪夢のような失望から一切縁を切ることができる。引き抜かれた記憶は国が保管するが、返却と再装填には相当な費用が掛かるため、元の居場所に戻った人を見たことはない。

 記憶を担保にするさまは非人道的と批判されることも多いが、思い出を失っても、知識記憶の一部は引き継がれるため社会生活に何ら支障はないというのが国の見解だ。社会の通念、常識、社会性や道徳など、「良き人」として生きる最低限の機能を残すあたりが、虹階のいう「優しい」部分なのかもしれない。


「僕は誰のことも覚えてないし、過去にはもう帰れない。もし失望させたならごめんね」

 鎖骨まで伸びる長い髪を耳にかけ、微笑みという強さを見せつける君。

「ところで相談なんだけどね、護英ごえいくん」

「どうしてその名を」

 指先で名札を撫でつけ、こちらの言葉を遮った。

「僕を飼ってよ」

「どういう意味だ」

「そのままの意味。僕は君と違って誰でもない。何にもなれない。だから、何者かである君が僕を飼ってよ」

甘い瞳がこちらを捉える。机の上に身を乗り出し、優しく頬を撫でた。

「僕の命をつかってよ。そうやって、僕をいかしてよ。君のために、そして社会のために」

「何を言って」

「ねえ、お願い」

「…………無論却下だ」

「うん。そう言うと思った」


 そのまま、虹階をオフィスの宿泊室に泊めた。翌朝起きると、そこに姿はなかった。

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