第十五章 想いは雨に流された

 エヴィスがドア前の席を空けると、後から復讐者ジャクスの一団が続々と降りてくる。反対側のドアからも。


 一団は憎悪と殺気と、それにいくばくかの功名心に満ちた様子で宿屋へと駆け込んでいった。エヴィスは雨に打たれながら、少し嫌な顔で彼らの背中を見送った。


 そして後部座席にもう誰も残っていないのを確認してから、ドアを閉じる。アフメドも先に行っていて、エヴィスのそばに残っていたのはムスタファだけだった。


「置いてけぼりはいねえか?」

「うん」

 ムスタファがドアに鍵をかけると、2人で皆の後を追った。


 満室の札がかかった扉を開けて、中に入る。中は薄暗くて埃臭い。痩せこけた老人が煙草を吹かしているが、物々しい男たちに怯える様子はない。


 アフメドによれば、先程この老人が密告を寄こしてきたそうだ。

 ジェイク・ダニレフスキーは用心深く短期間で潜伏先を転々としていたようだが、ベスニクの腕の長さがそれを上回った。 


「奴はどこにいる?」

 尋ねながら、アフメドはゴム紐でまとめた札束を渡す。老人はそれを手に取って、パラパラとめくった。


 同時に復讐者ジャクスたちは上着の前を閉じていたボタンやファスナーを開くと、肩から脇へスリングで吊るしていたアグラム2000を腹の前に出して銃口にサイレンサーを捩じ込む。


 未来的なフォルムと町工場で作ったような雑さが同居する奇妙で半端な短機関銃サブマシンガンで、肩に当てるべき銃床ストックは存在せず、代わりにハンドガード下部に穴の空いたフォアグリップが着いていた。

 このクロアチア製の醜い銃を撃つときは引き金を引くのと反対の手の親指を穴に通して握り、銃口が上を向きすぎてしまわないように抑え込む。


 思えば皮肉な話だ。


 情報によれば、ジェイク・ダニレフスキーが使っている拳銃もまたクロアチア製の物である可能性が高いらしい。


 アルバニア人とアメリカ人がフランスで殺し合うときに、奇しくも双方クロアチア人が作った銃を手にするなんて話が他にあるだろうか。

 誰もが新たな何かを得ることはなく、ただ失った何かを取り戻すためだけに行われているこの争いで利を得た者がいるとすれば、それは銃を売ったクロアチア人ではなかろうか。


「こっちだよ」

 老人に金をポケットにしまうと、にやついた顔で皆をいざなった。


 階段を軋ませて2階へ昇る。エヴィスは最後尾をついていきながら、ホルスターからR61を抜いた。スライドを少しだけ引いて、薬室の中に弾が入っていることを確認する。


「他の客は?」

「いないいない。あいつが来てから他の客は泊めてねえ」


 老人はやがて角部屋のドアの前で立ち止まり、ノックをする。


 男たちは静かな足運びで1人が老人の背後に立ち、残りはドアの左右に張りついて、いつでも踏み込めるように控える。


「ルームサービスでごぜえます」

 老人は気持ち悪い猫撫で声を発した。中から返事はない。


「旦那ァ、ここを開けておくれ。うちは高級ホテルのようにゃあ行かねえが、美味しい酒が手に入ったんだ。一口やってみてくれよぉ」

 老人はもう一度声をかけるがやはり返事はなかった。その様子に苦笑をひとつ漏らしてから、老人はにやりと気持ち悪い笑いを見せて手に持っていたマスターキーを鍵穴に差し込む。


 カチリ、と回す音が廊下に響き渡る。そして老人が脇へ退くと、入れ違いに進み出た血気盛んな青年がドアを蹴破る。するといきなり外の風が廊下へ吹き込んでくるのを、そこにいた全員が頬で感じた。


 先陣を切る青年と、それに続く他の者たち。サイレンサーを通して抑制された中途半端な銃声が最後尾のエヴィスにも聞こえた。


 弾頭重量のおも亜音速サブソニック弾がシーツを引き裂いて、辺りに羽毛が舞い散った。二番手として踏み込んだ男がシャワールームに入っていく。


 窓が大きく開け放たれていた。


「そっちにはいるか?」

 アフメドがシャワールームの中に声をかける。


「いや、影も形もねえ」

「やはりここから逃げたか」

 アフメドが窓の外を見下ろす。

 

「畜生め!」

 ドアを蹴破った若者がアフメドの脇を抜けて窓の縁に足をかけ、またしても先陣を切って裏路地へ飛び降りた。


 それを見た他の者たちも次々と飛んでゆき、エヴィスも続こうと足をかける。


「待て」急にムスタファの大きな手に肩を掴まれて止められた。「お前はまだチビだから危険だ。階段から降りろ」


 そう言い残してムスタファも飛んだ。アフメドも続いて飛ぶ。

 1人残されたエヴィスは、言われた通りに階段へ戻っていった。






 雨音は更に激しさを増していた。


 ジェイクとミアは、煤けたビルの屋上で雨に濡れたコンクリートの端に身を寄せ合っていた。冷たい雨に打たれながら、ジェイクは自らのコートをミアに被せて雨から庇う。


 下からは響き渡ってくる、聞き慣れない言語の怒号。だがジェイクはコソボ平和維持軍K F O Rの一員としてかの地に駐留した経験からそれがアルバニア語で、しかもゲグ方言だと言うことまで知っていた。


 ジェイクはこの宿にチェックインしたその日に、エントランスに盗聴機を仕掛けておいた。

 そして常に片耳にイヤホンを着けて聞き続け、異変を察知するや、まず自分がフリークライミングで屋上に這い上がり、それから命綱を装置したミアを引き上げたのだった。


「ねえ、もし見つかったら、どうしよう…」不安が募るミアの声に、ジェイクは強く言った。「黙って、静かにしているんだ。俺がなんとかするから」


 何もかも不透明な状態の中で発せられた気休めに過ぎなかったが、ミアは少し勇気をもらった様子だった。


 それからしばらく、じっと息を潜めて様子を伺った。

 次第にアルバニア人たちの声が離れていくのを聴き取ったジェイクは、スプリングフィールドXDを握りしめながらドアを開いて階下を覗き、誰もいないのを確認した。


 背後のミアに向けて手を振ってこちらへ来るように促すと、気配が恐る恐るといった様子で階段のそばにいるジェイクへ近づいてくる。


「ゆっくりと、静かに息をするんだ」ジェイクは振り返り、妹の耳元で囁いた。「イメージは……自分の息で、周りの空気を押さないように気を付ける感じだ。出来るかい?」


 ミアは頷いた。


 ジェイクは再び意識を階下に戻し、銃口を巡らせてクリアリング。安全を確認してからまず自分が降り、ミアに続かせる。


 不意に気配を察したのは、2階への踊場に差しかかった頃だった。

 ジェイクは咄嗟に顔の横に握り締めた拳を掲げる、止まれを意味する米軍式の手信号ハンドシグナルを発する。


 しかしミアはそのまま歩みを止めることなくジェイクを追い越しかけたので、慌てて飛びつくように押し留める。物音を立てないように気を配る余裕はなかった。

 きぬれの音が立ったとき、ジェイクは己の血が逆流したかのような怖気を覚えた。慌てて階段の方を振り返り、下から一歩一歩階段を登ってくる足音に向かって銃口を向ける。


 引き金を絞り込んで絞り込んで、待ち構える。


「マシンガンをぶっぱなすなんて聞いてねえぜ」


 階段から姿を現したのは老人だった。

 彼は箒とチリトリを手にぶつぶつ言いながら、ジェイクたちに気づく様子もなく目の前を横切る。


 やがて老人が廊下の奥まで行って客室の中に消えると、ジェイクはようやく止めていた息を吐いた。


 危なかった。軍人ではないミアに手信号ハンドシグナルが通じるはずもなく、来いは直感的に理解出来ても止まれは難しかったようだ。もっと伝わりやすい身振り手振りを考えなければ。


 気を取り直して、また下を目指す。


 雷が鳴った。階段の小窓から白い光が差し込む。驚いたミアが声を出してしまわないか心配で振り返った。

 しかしミアは動じることなく階段を降りていた。思っていたよりも妹の腹が据わっていることに安堵したジェイクはまた歩みを再開し、1階へと降りる。


 エントランスには誰もいなかった。ジェイクはドアを開き、まず自分が外に出る。また激しい雨を浴びる。


 外に出てもアルバニア人たちの気配はなかった。どうやらこちらの狙い通りにみんな裏路地に向かったようだ。


 ジェイクは歓喜の声を上げそうになる感情を抑えながら、左手でミアの手を取って走り出した。


 もう今しかない。


 アルバニア人たちが戻ってくる前に。この強い雨が、こちらの足音を掻き消してくれるうちに。


 マルセイユを出たら、今度こそアメリカ大使館に駆け込もう。


 そうすればミアは自由になれる。それさえ叶えば、後はもう自分はどうなったっていい。






――視界の限界、端の端。斜め後ろで、何かが動いた。


 それを知覚したジェイクはスプリングフィールドXDの照準で追った。しかし不吉な小さな影もまた飛び退いてミアを間に挟むような位置へと滑り込むと、ジェイクは銃口からレーザー光線でも出ているかのようにミアを避けて天に銃を向けた。例え刹那の間であろうともミアを射線でなぞることをジェイクの本能が戦慄し拒絶した。


「伏せろ!」

 左手でミアを伏せさせながら、改めて構えようとするジェイク。

 だがそれよりも早く目の前の子供が構える小さな拳銃が火を噴き、その弾丸はまだ地面に伏す前のミアの頬を掠めるようにしてジェイクの身体へと吸い込まれ、熱に灼熱を覚える。


 2発、3発と撃ち込まれ灼熱の体積が増えていくにつれて呼吸が苦しくなり、ついに手から銃が滑り落ちた。膝から力も抜けてジェイクはその場に崩れ落ち前のめりに倒れ伏した。


 出来ることはミアに向かって逃げろと叫ぶだけだった。叫んだつもりだった。しかしもう脳が声帯にいくら命令を発しても言葉を発するに必要な酸素を肺が送り出してはくれなくなっていた。


 足音が近寄ってきた。口髭を生やした男が視界に入ってきて、泣き叫ぶミアの腕を捻りあげた。それでもミアが抗うと、口髭はミアを殴った。あのくそったれ、ミアに手を上げやがった! 殺してやる!


 届かない腕を伸ばすジェイクの耳朶を打ったのは、背後へ駆けつけてくる複数の足音だった。そしてアルバニア語の怒号と罵声が続き、最後に無数の鈍い銃声と共に重い弾の雨が降り注いだ。






 ジェイク・ダニレフスキーは身体中をズタズタにされ、巨人に踏み潰された犠牲者のように全身の血を大きく吹き出して死んだ。


 復讐者ジャクスの1人はそれでも怨みが晴れなかったのか、弾切れになったアグラム2000を携えたまま屍に駆け寄って足蹴にし、踏みにじった。


 山人同士の血讐ジャクマリャでは、いかに仇と言えどここまで死者を辱しめる者は滅多にいない。


 双方の面子を立てて和解する機会が遠のいて争いが長期化したり、殺人と侮辱両方の報復として命を2つ奪い返してきたりして必要以上の血を流すからだ。


 しかし今回は文化の違う異邦人が相手だから、遠慮がなくなっている。先程発砲するときも伝統的な礼法に則った口上は省かれ、汚い罵声がそれに代わっていた。


 何度も少女を殴ったアフメドは、やがて抵抗する様子がなくなると手際よく後ろ手に縛り、猿轡を噛ませて担ぎ上げた。


「俺は後ろで、女が逃げないか見張る。お前が助手席に乗れ」

 アフメドはエヴィスにそう言って、プレビアのハッチバックを開いて少女を放り込んだ。

 

 言われた通り、エヴィスは助手席に乗った。


 続いてムスタファが携帯電話で話しながら運転席のドアを開いて座った。後ろではアフメドに続いて復讐者ジャクスたちが続々と乗り込んでくる。


「ベスニクが、お前に変われってさ」

 エヴィスはムスタファが寄こしてきた携帯電話を受け取り、耳を近づけた。


「もしもし、伯父さん?」


『終わったようだな』

 

「うん」


『ムスタファから聞いたぞ。皆が奴の陽動に振り回されたとき、お前だけが見抜いたとか』


「たまたまだよ。伯父さんが来てくれれば、もっと危なげなく勝てた」


『お前も世辞せじを言うようになったか』電話越しにベスニクの笑う声がする。『俺もそちらの方が楽しそうだったが、残念ながら別の仕事をしなくてはならなくてな。イグナチェンコのボスと話がまとめていたんだ』


「あのロシア人たちが、今更なにをしてくれるというんだい?」


『ここまで騒ぎが大きくなってしまっては、あの小娘をもはやヨーロッパに置いておけない。この件はお巡りも血眼になってるんだ。だからロシア人に移送とアジアの組織との交渉役をやらせ、いつもと逆に西から東へ流すのさ。イグナチェンコがやらかした不義理のケジメだ』


「それで、一件落着か』

『どうだろうな』

 ジッポーのライターが開く音が聞こえた。煙草に火を点けているようだ。


『実は1人の下手人が4つの家から1人ずつ命を奪われた今回の件、カヌンに照らし合わせてどのように血を奪い返すかが村で討議になってな。それでアリ先生は四家が協力して仇を討ったならば、それで各々が血讐ジャクマリャを果たしたことになると仰られたんだ』


 ムスタファがエンジンをかけて車を走らせた。


 左右に動くワイパーを、エヴィスはぼうっと眺めながら電話に耳を傾ける。


『俺はおかしいんじゃないかと言ったんだがな。もう3人、アメリカにいる父親でもいとこでも何でもいいから殺してこそ完璧に全ての血が奪還されるのではないかと思うのだが……まあ、高地一番の注釈人として名高きアリ先生がそういう見解を示されたのであれば、俺の如き無学者は口を閉じるまでだ』

 ベスニクの声には、どこか皮肉めいた響きがあった。


『お前はもう休め。今回は俺もお前も、とんだ物好きに振り回されたものだ。淫売に身をやつした妹など、連れ戻したところで恥でしかないだろうに。価値観の違う相手がやることは読めない』


「……そうだね」 


『じゃあな、切るぞ』

 

 電話が切れる音を聞いてから、エヴィスも通話終了のボタンを押して携帯電話をムスタファに返した。「ありがとう」

 

「どうした、浮かない顔して。あの人はお前のこと褒めていただろう?」


「ああ、うん」


「話してみろ。楽になるかもしれないぞ」


「……あいつはぼくが勝てる相手じゃなかった。だからちょっと、卑怯なことをした」


 ミアを間に挟めば、ジェイクは恐らく引き金を引けないだろうとエヴィスにはわかっていた。


 わかっていて、敢えてそうなるような足運びで動いた。そうでなければ自分が死んでいただろう。


 いや、そもそもミアがおらずジェイク1人であったなら、彼の行動はもっと以前の段階から相当違ったものになっていたのではあるまいか。


「何だそんなことか。気にすることはねえ、しょせん命のやり取りなんだ。自分が死ななくてよかったと思うようにしようぜ」


「そうするよ」


 それきり会話は終わり、エヴィスはまた無言で窓の外に目をやる。


 ここ数日は慌ただしくて、シャワーを浴びるどころか着替える暇もなかった。ふと、ポケットに入れっぱなしだったルーレの手紙のことを思い出して取り出す。雨が染み込んで、紙がもうよれよれになっていた。


 ルーレ。


 ここにいない妹に向かって、エヴィスは意味もなく呼びかけた。

 

 ぼくは兄妹の愛を引き裂いてしまった。

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人殺しのエヴィス バカモン @bakamon

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