第十四章 どこにも行けない雨の中

 窓の外では雨が降りしきり、部屋の中は薄暗い。


 左耳にイヤホンをはめたジェイク・ダニレフスキーは、テーブルの上で拳銃を丁寧に分解し、パーツを並べていった。そしてパーツを卓上ランプの明かりに照らしながら、サングラスを外した青い目でじっと見つめて確認しオイルの染み込んだ綿棒でひとつひとつ丁寧に火薬のカスを落とす。


 ジェイクの思いは複雑だった。

 

 スプリングフィールドXD――クロアチアの小さな銃器メーカーが作ったHS2000という拳銃の販売をスプリングフィールド・アーモリーが引き受け、アメリカではそういう商品名で売られている――これはジェイクが私物として購入したものだ。


 複列弾倉ダブルカラムマガジンを用いる多弾装オートの火力は上着の内側に隠し持てる武器として破格のものではあるが、自分が敵に回した強大な組織のことを考えたら頼りない武器だった。


 少なくとも機関銃マシンガン突撃銃アサルトライフルが持つ圧倒的な力とは比べ物にならない。


 ましてやアメリカでは2003年現在、あの馬鹿げたアサルトウェポン規制法のせいで輸入されるスプリングフィールドXDのマガジンは10発装填の物しかないのだ。


 本当はヨーロッパに来てからクロアチアで使われている15発マガジンを入手してから行動を起こすつもりであったが、いざとなると焦りがまさってしまった。


 そうした数々の不満を抱えながらも、この銃でどうにかする以外の選択肢はなかった。軍用の銃火器を基地から持ち出し、あまつさえ街中で持ち歩くのは現実的ではない。


 何とも言えない気持ちを抑え込んで、ジェイクは作業に没頭した。


 ただ暗い部屋の中で、密やかな作業の音と雨がガラスを打つ音が交錯する。


 その静寂を、ふいに背後から上がった悲鳴が破った。


 ジェイクは作業を中断して振り返った。


 妹のミアが、息荒く震えながらソファーの端に縮こまっていた。


 瞳には恐怖と不安が映し出されている。ジェイクは妹が怯えている原因を把握しようとそばに寄り、その眼差しを追う。


 暗い部屋の中で光を放っているブラウン管に目をやったとき、ジェイクの胸にも動揺が走った。


 映し出されている顔写真は、ジェイクも知っている男だった。ロシア人犯罪組織のメンバーと見られるセルゲイ・イグナチェンコが死体で発見されたと、フランスのニュースキャスターが報じている。


 ジェイクが殺した男だった。死んで当然の男だった。愚かで男好きな母が、父と離婚した後にのめり込んだクソ野郎。


 あいつがミアに売春をさせて金を儲け、そして更なる大金を求めてアルバニア人の人身売買組織に売ったのだ。


 いや。


 今ミアが怯えているのは、もっと直接的な恐怖に見えた。


 ジェイクは敢えて聞こうとしなかったが――恐らく一番最初にミアへ欲望を吐き出したのは、他でもないあの男自身だったのだろう。


「大丈夫だ」ジェイクは静かに近づいて、震えるミアを子供の頃のように優しく抱きしめた。「あいつはもう死んだんだ。二度とミアの前には現れない」


 必要なことだけを言って、後は手を握り締めて温もりだけを伝える。


 そうしてどれだけの間、黙っていたのか。


 やがてジェイクは決心し、いつかはそうしなければならないであろうと考えていたことを口にした。「……アメリカ大使館に行こう。保護してもらうんだ」

 

「でもそうしたら、ジェイクは捕まっちゃう」 


「それでいいんだよ。どんな理由があっても、俺が殺人犯であることに変わりはない。堂々と裁判を受けるさ。俺は犯罪者だけど、恥じるところなど何もないんだ」


「でもあんなに何人も殺してしまったから、もう出られないかもしれないよ!」


「それでも構わないさ。なあ聞いてくれ。ヨーロッパにいる限り、いや例えアメリカに戻ることが出来たって、アルバニアンマフィアはどこにでもいる。司法当局の保護なしにいつまでも逃げ切れる訳がない。今だって遅すぎるくらいなんだ。俺がほんの一時いっときでも、このまま家族でまた一緒に暮らせるなんて夢を見たのが間違いだった」


「奴等がどこにでもいるなら、きっと囚人たちの中にだって仲間がいっぱい居るに決まってる! だってあんな悪いことしてる奴等なんだもの。刑務所に入ったりしたら、その日のうちに殺されちゃうよ!」


 ミアが泣いた。


 ジェイクの心は葛藤で揺らいだ。


 今の自分は空中ブランコを掴みながら、思い切りが悪く前へ手を伸ばす機会を見失ってしまう下手くそな軽業師のようだった。このまま逡巡しゅんじゅんするばかりではやがて空中ブランコは勢いを失い、前にも後ろにも動くことのない宙ぶらりんとなるだろう。


 雨足が強まっていく。窓枠が風に揺れて、遠くから雷鳴が聞こえる。






 雨のマルセイユを、大きな卵のようなトヨタ・エスティマプレビアが走っていた。


 その後部座席から、エヴィスはぼうっと外を眺めていた。


 あれから全てがわかった。


 ミア・ダニレフスキー。それがエレナと呼ばれた少女の本名だ。

 ロシアの女ならダニレフスカヤと名乗るだろうが、彼女はロシアに生まれたロシア人ではなかった。


 イグナチェンコのフランス人の妻は、かつてアメリカ国籍の男と結婚してニューヨークに住んでいたことがある。そのアメリカ人の家はかつてロシア革命で亡命した白系ロシア人の系譜だったのだ。


 だが夫婦は離婚し、まだ幼い妹のミアは母親に引き取られてフランスに渡った。

 そして母親はロシア系の顔つきが好みだったのか、再婚相手もロシア人だった。それがセルゲイ・イグナチェンコだ。


 一方で既に自分の生き方を自分で決められる歳だった兄のジェイクは、父親と共にアメリカへ残った。


 彼の夢は軍人として、祖国に忠誠を尽くすことだったからだ。


 しかし夢を叶えてアメリカ軍人となったジェイクは

、先月駐留していたドイツの基地から謎の脱走を遂げた。

 更にぐん郵袋ゆうたいで私物の拳銃をアメリカから密輸した形跡もあり、犯罪を起こす危険性もあるとしてMPは血眼になって彼を捜索しているようだ。


 恐らく奴はセルゲイ・イグナチェンコの居場所を突き止め、凄惨な拷問でミアの行方を吐かせてから殺し、売春宿を襲撃した――そう考えれば全てが繋がる。


 考えても仕方のない思案を立ち切り、エヴィスはプレビアの車内を見回した。


 8人乗りの車に10人で乗り合わせたせいで狭く、息苦しい。


 エヴィスは羨ましげに運転席の方に目をやった。


 運転手のムスタファが指の足りない手をハンドルに押し付けて器用に回し、アフメドは助手席で煙草を吹かしている。


 前にダーダンがイギリスと日本の車はハンドルは右についていると教えてくれたけれども、この車は左ハンドルだ。最初から欧州こちらへ輸出するために作られたのだろう。


 これはムスタファの車ではなく、大人数で移動するためにわざわざ調された物だった。


 事が終われば、いつぞやエヴィスがサイミル一派を轢き殺すのに使ったフィアットのバン同様、処分される。


 今日の主役はエヴィスではなく、ムスタファでもアフメドでもなければ、ここにいないベスニクでもない。


 後部座席にひしめき合っている男たち。ジェイク・ダニレフスキーに殺されたから4人の親類たちだ。

 カヌンが定めし流された血を奪い返す義務は彼らにあり、エヴィスと、コソボ生まれの兄弟はあくまで万が一の後詰めとして同行することになっている。


 やがてプレビアは、マルセイユの中でも特に治安の良くない区画に停車した。


 端の席に座っていたエヴィスは、必然的に先陣を切る形でドアを開けて降り立つ。


 窮屈な車から解放されたが、代わりに激しい雨と強風が襲ってきた。目に雨が入ってくる。手で拭いながら何とか目蓋を開いて古ぼけた安宿を見上げた。黒い髪は濡れて白い肌は飛沫しぶきに打たれ、灰色の瞳は窓から漏れる灯りを映す。

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人殺しのエヴィス バカモン @bakamon

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