第十三章 小さな綻び

 エヴィスたちが呼びつけられたのは、ベスニクが大っぴらに取引できない貨物を隠すのに使う倉庫だった。


 中に入ると、広くがらんとした倉庫の中央でナイキのジャージを着たいかにも不良ゴプニクといった身なりの若いロシア人が椅子に縛りつけられ、殺気だった大人数の男たちに囲まれているのが見えた。

 ゴプニクは酷く殴られて顔が腫れていて、怯えている。


 囲んでいる男たちはアルバニア人だ。エヴィスは彼らと面識はなかったが、彼らがどういう人間なのかは知っていた。


 売春宿襲撃で死んだ4人の親族が、第一報が届くや否や血讐ジャクマリャを果たさんと真っ先に向かっていったのは聞かされていたからだ。


「来たか」

 男たちの群れから少し離れた場所に立っていたベスニクの大きな影が、こちらを振り向く。掌の上で複数の小石のような何かを弄び、それらがぶつかったり擦れたりして音を立てていた。



 電話で聞いていたところによると、あの娼婦はロシア人のセルゲイ・イグナチェンコという仲介人から買い取ったそうだ。


 しかしイグナチェンコとは連絡が取れなくなっており、それで腰巾着だった三下を捕まえたらしい。


「こいつはたったいま事情を全て話してくれたよ。イグナチェンコが売り込んだ、あの小娘の素性をな」


「何か問題でもあったの?」


「あいつは東から仕入れた女ではなかったんだ。イグナチェンコは2回結婚していた。最初の女房とはロシアで、2度目はフランス人とだ。その2番目の女房の方にも離婚歴があり、連れ子が1人いた。そうだな?」

 ベスニクがゴプニクの方を向いて尋ねた。


「ああ……それでセルゲイの女房がコカイン中毒で死んじまってから、タダメシ食いを飼うのがもったいねえって客を取らせたのが始まりだ。だけどあいつ急にまとまった金が必要になったらしくて、よその組織がやってる店へガキを売りつけることにしたって」


「地元で調達した女は厄介の種だから、俺のところでは買い取らないと言っておいたはずだ。それなのに何故信義に背く真似をした?」


「俺は反対したんだよ! でもセルゲイが、こいつはスラブの顔つきだから東から連れて来たと言っても通じるって聞かなかったんだ!」

 若いゴプニクは脂汗を流しながら、必死で自分に非がないことを訴える。


「それならイグナチェンコがいそうな場所を教えろ。知っているな?」


「わからねえよ、俺たちだってセルゲイが急にいなくなって困ってる!」


「あいつの家は確認したのか?」


「もちろん最初に行ったさ。けどいくらノックしても反応がなかったんだ!」


「その程度で確認したと言えるのか」ベスニクは呆れ返った様子でゴプニクに近づいていく。


 周囲を囲んでいた男たちが、さりげなく左右に散って道を開けた。


「家の中を改めなかったのか。お前だってコソ泥の1つや2つくらいやったことあるだろう?」

 目の前に立ちはだかって見下ろしながら、なおも問うベスニク。


「そりゃ、あるけどよ……」若干気圧された様子のゴプニクは、震える声で答えた。「鍵を壊したり窓を割ったりして勝手に入って、それでたまたま連絡つかなかっただけで全然大したことじゃなかったなんてことになった日にはセルゲイに殺されちまう」


「なら案内しろ。俺たちでやってやる」


「ダメだ。そんなことしたら俺は裏切り者扱いだ!」

 ゴプニクが叫んだ。

 その口にベスニクはいきなり手で叩きつけるように今まで手で弄んでいた物を放り込み、押さえつけて吐き出せないようにした。


 目を見開いてもがき苦しむゴプニク。


 しばらくしてベスニクが手を離すと、ゴプニクは血の混じる唾液と共にそれらを己の膝の上に吐き出した。


 エヴィスはようやくそれが人間の生爪であることに気づいた。同時に視線を落とすとゴプニクは右足だけが素足で、彼の足の指にあるべきものがなく血まみれであることも知って戦慄した。


 そして何よりも恐ろしいと思ったのは、伯父がペンチの類を一切持っていないことだった。


「てめえの臭い足の爪を食って、少しは目が覚めたか? それとも左足でもう1回、右手と左手で2回、最初からやらなきゃ素直になれないか」


 ベスニクが指を目の前に近づけて摘まむようなジェスチャーをしてみせると、哀れなゴプニクはあっさりと降参した。「わかった! 案内するよ! 案内すりゃあいいんだろう!?」






 ベスニク一行はゴプニクを無理矢理引っ立てて、イグナチェンコが隠れ家にしているというパリ郊外のボロ家までやってきた。エヴィスは一団の最後尾で、様子を見守る。


 ベスニクが一応ノックしてみるが、反応はない。


 当然予想していたことで、ベスニクが脇へ退くと男たちの中から空き巣をシノギにしていた者が代わりに進み出てピッキングツールを鍵穴に差し込む。


「彼の仕事をよく見ておくんだ」ベスニクはエヴィスを手招きにして寄らせると、鍵穴を指差して言った。「どんなところにもお前が学ぶべきことはある」


 ややあって鍵は開き、皆で中へ踏み込む。


 家の中は散らかっていた。だが荒らされている訳ではなく、単にここの主がだらしない人間であっただけのように見える。


 奥に踏み込んで、シャワールームやベッドのある小部屋も確認されたがやはり誰もいない。


「やっぱり誰もいないね」

 エヴィスはキッチンにいた自分の伯父に話しかけた。彼は無言でゴミ箱の蓋を開けて、中を覗いている。


「どうしたの?」

「見てみろ」

 促されてエヴィスもゴミ箱を覗き込む。


 たくさんの食品、食材が捨てられていた。調理もされず口もつけられず、あるいは封さえ切られずに。


「……傷んでいたのかな?」

「だとしたら変だ」

 ベスニクは生ゴミの端にあるプラスチックの板を引っ張り出してみせた。「いくら食い物が悪くなったからって、冷蔵庫の中板ごと捨てる奴はいない」


 中板を戻してゴミ箱の蓋を閉じると、ベスニクは笑いながら冷蔵庫の方へずかずかと歩いていく。

「俺が思うに、そいつは冷蔵庫に何かでかい物を入れたかったんだ」

 そして取っ手を握り、躊躇なく開け放った。


 すると途端にこの世のものとは思えないような異臭が漏れ出して家中に立ち込め、吐き気を覚えたエヴィスは咄嗟に鼻と口を押さえて顔を背けた。周囲の屈強な男たちさえ同様だった。


 エヴィスが何とか冷蔵庫に視線を戻すと、ただ1人ベスニクだけが顔色も変えずに中を覗き、あまつさえそこに収まっていたものをまさぐっている。

 よく見ると皮がずる剥けになって肉を削ぎ落とされてところどころ骨が露出した男の手が、開かれた扉の下からだらりと垂れていた。


「酷いもんだ。余程恨みがあったのか、あるいは痛めつけてでも聞き出したい情報があったのか」

 ベスニクは冷蔵庫から離れ、ゴプニクの襟首を掴んだ。


「顔もぐちゃぐちゃで誰だかわからないが、身体の刺青は辛うじて残っている部分もない訳ではない。お前が見てイグナチェンコかどうか確かめろ」

 そう言いながら嫌がるゴプニクを冷蔵庫の前まで引きずっていく。


「やめてくれ! そんなことをされても、きっと俺にはわからねえって!」

「わかるさ。お前たちロシア人はみんな馬鹿みたいにサウナへ行くじゃないか」

 抵抗虚しくゴプニクは顔を強引に冷蔵庫の中へ突っ込まれた。


 悲鳴が上がる。だがすぐにえずく声と、びちゃびちゃと水気のある何かが零れ落ちる音へと変わっていく。


「おやおや、お前は何と酷い奴なんだ。兄貴分かもしれない亡骸に向かって吐くなんて」

 ベスニクはわざとらしく揶揄やゆしながら手を離した。冷蔵庫から飛び退いた若いゴプニクは、もうすすり泣いていた。


「仕方ない、イグナチェンコの更に上の奴等へ話を通して協力を得る。そいつらがこの馬鹿よりもう少し根性がある奴なのを祈ろう」

 ベスニクはムスタファの方に向き直って言った。


「しかし上手くいくだろうか? あんたの方針に逆らうつもりはないが、ロシア人どもが大人しくこちらの話に聞いてくれる気がしない」

 ムスタファが疑念を差し挟むが、ベスニクはせせら笑う。


「聞かないなら、俺が連中の耳穴をナイフでほじくって広げるまでだ。今回の騒動はもとを正せば嘘つきのセルゲイ・イグナチェンコに、恐らくはそこで死んでいるゲロまみれの奴に責任があるんだからな。ああ、それからもう1つ」そして思い出したように付け加えた。「イグナチェンコの死んだ女房周りも入念に洗え」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る