第十二章 その男は夜にやってきた

 黄金色こがねいろにライトアップされたエッフェル塔が、夜空にそびえている。


 王も皇帝も既にいなくなったパリの主として、その姿を誇示していた。


 けれども夜のパリが生み出す幻想的な光のアートは、何もこの鉄塔1つのみに支えられているものではない。


 レストランは暖かなあかりを、キャバレーはあやしい輝きを。


 色とりどりの光が、各々おのおののあるべきところを照らしている。

 人々はそれぞれの求める光を目指してパリの街をすれ違い、しかし彼らの人生が交わることはない。






 その男は、何の光も目指していなかった。


 ただ暗い路地に停められたフォルクスワーゲン・ゴルフの運転席から、道路を挟んだ反対側にある何の看板も掲げていない古ぼけた小さなビルを見つめていた。


 栗毛をクルーカットにした白人で、大きなサングラスをかけ、唇をきゅっと結んで動かさない。他人が表情から彼の感情を窺い知るのは困難だろう。


 男は外から見えないように、膝の間でクロアチア製の自動拳銃を握り締めていた。


 スライドを引き、薬室に弾を送り込む。そしてホルスターに納めようとして――手が止まる。


 マガジンキャッチボタンを押して複列弾倉ダブルカラムマガジンを抜き、車のダッシュボードを開いた。


 9mmパラベラムの紙箱を取り出して助手席のシートに起き、蓋を開けて弾を1発摘まみ上げてマガジンに詰め、またグリップに差し込んだ。


 もしこの銃を使うような状況になったのなら、そのときは1発でも多い方がいい。


 男は今度こそ銃をしまい、上から灰色のジャケットに袖を通して隠し、車から降り立った。


 道路を渡ってビルへ近づく。出入り口のインターホンを押すと、スピーカーから声が発せられる。「どちら様で?」


わしの子らに永遠の栄えあれ」

 男がそう呟くと扉が開き、中から柄の悪いチンピラが笑顔で出迎えてくれた。


 にはおよそ似つかわしくない大層な文言に思えるが、ここを仕切っているアルバニア人たちにとって鷲は国旗にも描いてあるほど重要なアイデンティティーであるらしい。


「いらっしゃい」中へ促されてサングラスの男が足を踏み入れると、アルバニア人のチンピラはドアを閉めながら尋ねた。「あんた、誰の紹介でここへ来たんだ? ああいや合言葉を知ってるなら、ちゃんとしかるべきところからだってのは疑ってないよ。ただ一応聞いておきたくてね」


 男は自分にこの店のことと合言葉を教えた人物のことを話した。するとチンピラの反応がより一層明るくなる。「あー、彼から聞いたのか。よろしく伝えておいてくれ。……じゃあ本題だけど、あんたはどんな子が好みなんだい?」


「俺は6号室のエレナに会うため、ここへ来た」


「まあ、あの人から紹介されたんだもんな。でも残念ながら今はちょっと無理だから、今日のところは他の女にしないか?」


「いや、エレナに会わせてくれ」


「エレナはまた今度でいいじゃねえか。大丈夫、うちの店にハズレはいない」


「エレナでなければ意味がないんだ」


「……そうかい。あんた、あの人によっぽどエレナの良さを吹き込まれたんだね」


 チンピラは少しうんざりした様子を見せながらも、すぐに下卑た愛想笑いへと切り替える。

「そんなら、ちょっと待ってもらうことになるよ。今はまだ先客の時間だし、その後でシャワーを浴びさせる時間も取らなくちゃ。前の奴が終わったばかりですぐじゃ、あんたも、その……嫌だろ?」


 サングラスの男は、チンピラの問いに答えなかった。


 ただ無言でチンピラの脇を通り抜け、奥に見える2階への階段にまっすぐに向かおうとする。


「わかんねえ奴だな!」

 チンピラはとうとう怒りを露にして、不躾な珍客の前へ回り込んで立ちはだかった。


「エレナの股ぐらはまだ前の客がモノ突っ込んでる真っ最中で、あんたのまで入れる余裕はねえんだよ! 大人しく待てねえなら他の女にするか、とっとと帰って1人でシゴい」銃声2発、マズルフラッシュも2回。チンピラは甲高い絶叫を上げながら、血の滲む脇腹を抑えて膝を折る。

 男は抜きざまに腰だめで撃った銃を、素早く目線の高さへ構えながら両手で握り直して目の前の相手の頭にもう1発入れて殺した。


 銃声を聞いた別のチンピラが階段の上に姿を現して銃を抜く。しかし相手が撃つよりも速く男がチンピラの胴体の中心に2発撃ち込むと、体勢を崩してそのまま転げ落ちてきた。


 男は死体を跨いで細く狭い階段を駆け上がる。あちこちから悲鳴と怒号が響いている。

 男が2階廊下に出ると、何事かと様子を伺っていた娼婦や客がパニックになって部屋に引っ込んだ。代わりに突き当りのドアが開きアルバニアの破落戸ごろつきどもがまた3人勢いよく飛び出す。男は銃口で弧を描くように3人の胴体に1発ずつ発砲、動きを止めたところへ逆回しでもう1発ずつ撃ち込み、銃がホールドオープン。手際よくマガジンを交換し、スライドストップを押し下げて再装填する。


 周囲を警戒しながら男は6号室のドアへ近づき、蹴破る。


「わーっ、撃つな! 撃たないでくれ!」

 客とおぼしき全裸の男が、諸手を上げて飛び上がる。


「財布ならそこにある! 金が欲しいなら持っていってくれ!」

 客は脱ぎ捨てられた自分の服を指差した。


 サングラスの男はそちらに関心を向けず、銃口を客に向けたまま無言で反対側に目をやった。


 悪趣味なピンクのライトで照らされたベッドの上で、派手な化粧をした痩身の少女が裸身をシーツでくるまって震えていた。


 引き金を引いた。客は悲鳴を上げてたおれ、亡骸は部屋角の闇に隠される。


 男はゆっくりと銃を下ろし、少女に近づいた。






 朝日を浴びながら高速道路を走り抜ける黒塗りのベンツ。車内のカーステレオからは、バグダッドに米軍が攻勢をかけていることを報じるニュースが流れている。


 だが車に乗り合わせている者たちは、また別のことを話し合っていた。


「何としても、そいつを官憲の手に落ちるより先に始末して女を奪い返せ」後部座席のベスニクが煙草を吹かしながら言った。「俺たちがどこからどうやって女を仕入れているのかめくれては面倒だし、何よりこうもナメた真似をされて復讐をしないのは面子が立たない」


 彼らの議題は、昨晩パリで起きた売春宿襲撃事件についてどう対応するかだった。


「店の女にマジになっちまう馬鹿は珍しくない。そういう奴の仕業では?」

 運転席でハンドルを握る男が何気なく思いついた口ぶりで言った。


「先に現地へ飛んだアフメドが店にいた全員に話を聞いて回ったが、誰も見たことのない男だったと言っているようだ」

 

「連れ去られた娘はあの店で一番の稼ぎ頭だった。よその組織が、てめえんとこの店で働かせようって魂胆でやったのかもしれない」

 今度は助手席に座っていた男が意見を発する。


「可能性はあるが、ならば店の売上金をついでにっていかなかったのが引っかかる。ある店で一番売れている女が別の店にでも売れ続けるかは結局のところ賭けだが、現金は確実だからな」

 ベスニクはいずれの考えも腑に落ちない様子だった。


「あの……」

 皆の話し合いを黙って聞いていたエヴィスが、おずおずとした様子で声を発した。


 すると男たちの険しい視線がエヴィスに集まり、すっかり委縮して続きが喉から出なかった。


「言うだけ言ってみろ」

 ベスニクが促す。


「ううん、やっぱりやめとくよ。ぼくは馬鹿だから、迂闊なことを言って間違った方針になってしまったらまずいし……」

「言うんだ」


 伯父の目が鋭くなったのを見て、エヴィスは観念して話すことにした。


「……彼女の故郷の家族とか、恋人とかって線はないかな」

 そう言いながら、エヴィスは手に握った写真に目を落とす。


 皆に1枚ずつ配られた、問題の娼婦の写真だった。スラブ系の顔立ちをした十代半ばほどの少女が写っている。美しいが、死体のように生気がない。


「なるほど、面白い考えだ」

 ベスニクは少し関心した様子だった。


 でもその後に、にべもない否定を理路整然と付け加える。「だが現実的ではないな。国境を越えるたびに所有者が変わり、そのたびに違う名を与えられ時には髪の色さえ変えさせている女の流れを、何のコネも伝手つてもない奴が辿るのは不可能だ」


「……そうだよね」

 全くその通りだった。


「とにかく今は手分けして片っ端からやるしかなさそうだな」


 ベスニクは話を締めくくった後、「ああ、そうだ」と思い出したように懐から封筒を取り出してエヴィスに差し出す。「ルーレから手紙だ。昨夜からそれどころじゃなくて、渡すのを忘れていたよ」






 エヴィスは疑わしい客を探るチームに振り分けられた。アフメドの兄で、ベスニクからの信頼も厚いムスタファという男と一緒に、襲撃犯と特徴が似通っているという人物を調べることになったのだ。


「手紙はもう読んだのか?」

 裏路地に隠れながら通りを見張っているとき、ふとムスタファがそんなことを尋ねてきた。


「まだだよ」

「なら俺が見張っててやるから、いま読むといい」

 ムスタファはサイミル襲撃に加わっていたあのスキンヘッドの中年男だった。肩幅が広く筋肉質で堂々としたたいを持ち、とにかく残忍で人殺しが大好きな男と言うのがあの夜の第一印象だった。


 それ自体は誤解でも何でもなかったが、いざ組んで一緒に仕事をする機会が多くなると粗暴なところもあるが人柄のさっぱりした好漢で、エヴィスは彼が嫌いではなかった。少なくとも弟のアフメドよりは話しやすい。


「ありがとう」

 エヴィスは路地の奥に引っ込んで封を切り、便箋をつまみ出して開いた。


 ルーレが書いたつたない文字をゆっくりと読んでいく。


 初めてもらった手紙では、読み書きを知らないルーレはアメリカ人の養親に代筆してもらっていた。


 けど今は、少しずつ自分で字を書けるようになっている。


 エヴィスの顔が自然と綻んでいくのを見たムスタファが「何て書いてあるんだ?」と聞いてきた。


「だめだよ、手紙の内容は伯父さんにさえ教えてないんだ」

 エヴィスが上機嫌な様子で手紙を胸に当てて隠すと、ムスタファはそうかそうかと豪快に笑った。


「おっと、来たぞ」

 エヴィスは手紙をしまい、ムスタファと一緒に通りを見た。


 栗毛をクルーカットにしたサングラスの男が、こちらへ近づいてくる。


「あいつはエレナにご執心で、少し前までかなり足繁あししげく通っていたらしい」


「……とてもあんなことをやらかすようには見えないけど」


「とは言え栗毛のクルーカットとなると、特徴に一番合うのはあいつだ。格好つけてサングラスをいつもかけてるみたいだしな」


 問題の男が待ち伏せ場所を通りかかった。その瞬間、ムスタファは左腕を伸ばして襟首を掴んで男を引きずり込み、路地の壁に叩きつける。


「何なんだっ、あんたは」

 クルーカットが悲鳴を上げそうになると、ムスタファは右の掌底で顎を突き上げて黙らせた。


 ムスタファの右手はコソボの戦争で人差し指と中指を失っており、握り拳を作れない。それでも異常に喧嘩が強いのはこれがあるからだ。


「聞かれたことにだけ答えろ」目を回してその場に崩れ落ちたクルーカットの前にしゃがみこんだムスタファは、胸倉を掴んで睨み据えた。「お前が入り浸っていた店で殺人事件があった、わかるな?」


「あ、ああ……ニュースで観たよ。でも俺には関係ない」


「犯人はエレナを連れていった。そう、お前のお気に入りのエレナだよ。随分通い詰めてくれたらしいじゃねえか。そうしてるうちにあの娘っ子を独り占めしたくなって、店を襲ったんじゃねえのか? どうなんだ」


「違うよ! このまえ勉強をサボって遊んでいるのがパパンとママンにバレて、非合法なところへ行くのだけは止めないともう小遣いをやらないって言われたんだ。それから店には行ってない。本当だ、信じてくれよ!」

 ふくよかな顔にサングラスを若干めり込むようにかけたクルーカットのデブは、とうとう涙と鼻水と小便を垂れ流しながら地べたに座り込んでしまった。


 男のあんまりな様子を見ていたエヴィスとムスタファは、互いに何とも言えぬ表情で目を見合わせる。


 この大学生は官僚のドラ息子で、悪い遊びを覚えて親の金を湯水のように使っていただけのぼんぼんに過ぎない。彼があんな大それた真似をしたと言うのは、仮定からして無理があったのだ。


 そのときムスタファの懐で携帯電話が鳴った。エヴィスが見張りを引き受け、ムスタファは離れた場所で電話に出る。


 そして、しばらくするとムスタファは戻ってきて「あの人がお前とも話したいらしい」と言って差し出してきた。


 ベスニクのことだと察したエヴィスは電話を受け取り、デブから離れた場所で話す。「どうしたの?」


『もしかしたら今回はお前の勘が当たったかもしれないぞ』電話口のベスニクは皮肉めいた笑いを交えながら言った。『あの小娘の仕入れ元と連絡がつかない』


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