Vol.3

2003.02-

第十一章 価値なき戦い

――1950年代初頭の、ある冬の夜。


 大きな翼に4つのプロペラを備えたヘイスティングスが、アルバニアの夜空を切り裂いていた。


 本来イギリス空軍の輸送機が、この時代にこの場所を飛ぶことなどあり得ないはずだった。地を這うようにギリギリの高度を保っているのは、レーダーを回避するためだ。






 スケンデルは機内で他の男たちとひしめき合いながら、時折落ち着かない様子で窓の外に広がる夜空に眼差しを投げていた。


 この輸送機の中にいるのは、パイロットを除く全員がイギリス人ではない。


 彼らは第二次世界大戦の後、エンヴェル・ホッジャ率いる共産主義政権によって祖国を追われた亡命者だった。


 そして今回イギリスのMI6とアメリカのまだ発足して間もないCIAの支援を受け、反共クーデターを起こすために彼らは祖国へ舞い戻るのだ。


 スケンデルは気分があまりよくなかった。機内は狭く、うるさく、ガソリン臭い。


 そもそもスケンデルは、本来こういうことに向いていない。父は息子がスカンデルベグスケンデルベウのように勇敢な男に育つことを願ってその名を頂いたが、当の息子は本を読み学問を修めることの方がずっと好きだった。


 スケンデルの父は自由アルバニア全国委員会、通称NCFAと呼ばれる亡命者団体の重鎮で、共産主義の悪口なら何時間でも話し続けられる男だ。


 そんな父はこの作戦が始動するや否や、老いた自分の代わりに誰が見ても貧弱で臆病な息子をマルタにあるイギリス軍の極秘訓練所に放り込んだのだった。


 スケンデルは隣に座っていたマルクに目をやった。彼は2歳年長の親友で、妹の夫でもあった。


 父は自分の息子だけに飽き足らず、娘婿まで強引に勧誘し巻き込んでしまったのだ。


 彼とは今回の作戦について随分と話し合った。腹を括るまで相当時間はかかったが、最後は互いに祖国のため全ての苦しみを受け入れようと誓い合った。


「よし、準備しろ!」

 リーダーが号令をかけると、スケンデルたちは立ち上がった。


 背嚢はいのうが重い。首脳陣の顔写真つき紹介文と反共のメッセージが書かれた大量のビラ、それにステンガンのせいだ。


 ステンガンはまるで水道管を切って繋いだように醜悪な短機関銃サブマシンガンで、弾詰まりも多かった。

 だがそれを補って余りある長所もある。今スケンデルがやっているように本体と銃床ストックを分解すれば、隠し持つことが容易であるという点だ。


 例えば――誰でも持ってるような鞄に詰めてティラナに潜入し、独裁者を乗せた専用車を待ち伏せて蜂の巣にするといったような使い方も出来るだろう。


「クリップを留めろ」

 指示通り展開紐スタティックラインの先に付いたクリップを、機内に張られたアンカーケーブルに留める。

 その反対側はパラシュートの開き綱リップコードと繋がっており、後はドアから飛び出せばぴんと伸びて引っ張られ、自動的に開傘されるだろう。


 リーダーが扉を開けると、高地の霧と冷風が機内に流れ込んできた。


 今回の降下地点であるトロポヤのジャコバ高地は、アルバニアの最北端に位置する。


 これまでの先発隊による空挺作戦は、中部のマトに降下することが多かった。マトは前国王ゾクー1世の地元であり、共産主義を打倒してかつての君主が復位することを望む者が多いと見られたからだ。


 もっともそれは、国家保安総局シグリミの連中からしても織り込み済みであるようだった。

 先発隊の多くは壊滅させられ、一定の成果を上げられた者はごく僅かに過ぎなかった。だから今回はアプローチを変えてより辺境の地が選ばれたのだ。


 そしてもうひとつ、アルバニア独自の事情もある。アルバニアはアルバニアという国家が誕生する前から、南では氏族ファラ、北では部族フィーシィと呼ばれる土着の共同体が存在した。


 しかし新たにアルバニアの支配者となったホッジャはこうした共同体の存続を認めず、徹底的に弾圧、解体してしまった。


 今やけんしゅんな山岳地帯の勢力だけが、風前の灯火ではあるものの、まだ抗っている状態だった。先に潜入した連絡員によると、これから向かうことになる地域の部族はこの作戦にとても乗り気であるようだ。


「飛べ!」

 リーダーが号令を発した。


 戦士たちが次々と輸送機のドアを飛び出していく。


 やがてスケンデルの番が来て、飛んだ。


 広い。


 広い。


 広い。


 冷たい風。


 騒がしい音。


 重力。


 恐怖があった、後悔があった。


 しかしそれでも、スケンデルにはやらなければならないことがあった。





 

 視界いっぱいに広がっていた夜の闇が、不意に消えた。


 代わりに白い壁がそこにある。


 頭の理解が追いつかない。


 前に向けて両手を伸ばす。枯れ木のような手が宙を切った。


 ようやく目の前にあるのが壁ではなく天井で、自分がベッドに横たわっていることに気づけたスケンデルはサイドテーブルに手を伸ばし、デジタル時計を掴んで顔の前へ持ってくる。


 2003年2月15日 午前6時53分。


 スケンデルはしばらく固まった。しかしやがて正常な思考を取り戻すと、安堵の溜め息をついて時計を戻した。


「また、あの夢か」

 

 1940年代後半から50年代前半にかけて行われた西側諸国の諜報機関によるアルバニア転覆計画「ヴァリュアブル作戦」は、価値あるヴァリュアブル作戦という名に反してその多大な犠牲に見合う成果を得られなかった。


 作戦失敗の原因はMI6ワシントン支局駐在員だったキム・フィルビーが、ソ連に情報をリークしたことによると言われている。


 フィルビーはまだケンブリッジ大学の学生だった頃からソ連の情報機関に囲い込まれており、卒業後に正体を隠してMI6に入局した。


 そして英米両国の連絡係を勤めていた立場を利用して得た情報がソ連に流され、やがてソ連から警告を受けたシグリミが潜入を試みた部隊を効果的に待ち伏せしたのだった。

 後に全てが発覚するとフィルビーはソ連に亡命し、罪の報いを受けることなく1988年に76歳で没した。


 スケンデルはゆっくりと、ベッドから身体を起こした。


 スケンデルは昨日アメリカからローマにやってきて、今はホテルに泊まっている。


 妹のディアナが先週、この世を去った。スケンデルがイタリアに来たのは遺品を引き取り、墓参りをするためだ。


 老眼鏡をかけ、窓の方に歩いていく。背嚢を背負っていた50年前よりもずっと足取りが重い。


 カーテンを開いて朝日を浴びた。


 街を見下ろすと、大通りは群衆に埋め尽くされている。昨今アメリカによるイラクへの武力行使が日に日に現実味を帯びている中、戦争回避を訴えるデモだ。


 今日のデモは15日の土曜日から16日の日曜日にかけて、日付変更線を越えた地域から順に全世界での決行が呼びかけられているそうだ。


 特に教皇のお膝元であるここローマには、イタリアだけでなく世界中から人が集まっているそうだ。昨日のテレビニュースには、主催者がチャーターしたバスや臨時列車に乗り込む様子が映し出されていた。






 スケンデルは身支度を整えると、ビュッフェで朝食を済ませてから街へ出た。

 向かう先はディアナのつい住処すみかとなった養老院だ。


 横断幕、プラカード、風船、人、人、人――辺りは喧騒に包まれている。出る前にホテルマンから聞いたところによると、本来デモ行進の終着点になるはずだった集会場はとうに満杯で、入れなかった参加者が路上に溢れているようだ。


 あちらこちらで高らかに楽器を鳴らし、歌い、ダンスを踊る若者たち。そんな彼らに周りから拍手や歓声が送られる。このデモをお祭り騒ぎとして楽しんでいる者も、かなりいるようだ。


 たくさんの旗が振られている。あれらの旗がどんな党派性を帯びているのかは、政治からも学問からも離れて久しいスケンデルにはわからない。


 あの夜に降下した部隊は壊滅し、僅かな生き残りは陸路で国境を越えてアルバニアを抜け出した。

 そのうちの1人であったスケンデルがNCFAの本部があるニューヨークに戻った後、事態は思わぬ方向に変化があった。


 ソ連でスターリンが死にフルシチョフが権力を掌握すると、ホッジャは思想の違いなどからソ連との関係を絶ったのだ。


 西側陣営がアルバニアを警戒していた最大の理由は、ドゥラスの軍港に駐留し地中海に睨みを効かせるソ連海軍だった。


 しかし彼らが共産主義者同士の内輪揉めでソ連に追い返されたことで英米側もこんな小国への関心は薄れ、60年代以降に同様の作戦が立案されることはなかった。


 NCFAも年々活動を縮小し、幸運な生き残りの1人であったスケンデルは民間企業に勤め、自分の生活だけを考えて生きてきた。全ては泡沫うたかたのものとなったのだ。






 スケンデルはやっとのことで養老院に辿り着いた頃には、随分と疲れてしまっていた。人混みは老いた身体には堪えるものだ。


「ディアナ・クカさんのご主人かしら?」


「いえ、兄です。彼女の夫は10年前に亡くなりました」


「それは存じませんでしたわ。ディアナさんはここに来られたときには既に症状がだいぶ進行なさっていて、お話をすることは叶わなかったので」


「ディアナの夫とは親友でした。最後に彼と電話で話したときにはもう、ディアナの痴呆がかなり酷くなっていると聞いていましたね。そのとき私は養老院に預けるよう勧めたのですが、彼は自分に出来る限りの間は一緒にいたいと」


 養老院の職員と話しながら、妹が最期を迎えた部屋へと案内される。


「こちらになります」

 部屋はよく片付られていて、スケンデルの作業は捨てる物と持ち帰る物を簡単に仕分けをするだけで済んだ。


 てきぱきと鞄に物を詰めていくスケンデル。だがふと写真立てを掴んだときに、手が止まった。

  

 若い頃のディアナとマルクが仲睦まじく写った、モノクロの写真。


 忘れもしない、これのシャッターを切ったのは自分だ。






 遺品の仕分けが終わると、スケンデルは養老院で教えられた墓地へと向かった。


 途中で警官とデモ隊が衝突している場所があり、通れなかった。スケンデルは仕方なく、本当はあまり行きたくなかった道を選んだ。


 見知ったアパートメントの前を通る。ここにも反戦を訴える垂れ幕が吊り下がっていた。


 4階のベランダを見つめていると、身を乗り出していた若い娘が陽気な投げキッスをしてくれた。スケンデルは苦笑しながら脱帽し、また被り直して通りすぎる。


 彼女はきっと何も知らないで暮らしているのだろう、あの部屋で人が殺されたことを。


 1993年じゅうねんまえ、マルクはあのアパートメントで殺された。32口径の拳銃によって眉間を1発で撃ち抜かれ、あろうことか遺体の口がこじ開けられ舌を刃物で切り取られていたのだ。


 同じアパートメントの住民は、誰も銃声を聞いたと者がいなかった。警察はこれがマフィア関係の事件で後難こうなんを恐れて口をつぐんでいるのではないかと疑ったが、結局証言をひるがえす者はいなかった。


 唯一の目撃者はディアナだった。彼女は目の前で全てを目撃していたはずだが何故か殺されなかった。


 痴呆で何もわからなくなっていた老婆を見て、どうせ証言は出来ないとたかを括ったのだろうか。それとも他に何か考えがあったのか。それはわからない。


 ただひとつ言えるのは、ディアナはある意味で幸運だったということだ。


 命拾いをしたからではない。


 ディアナはマルクを深く愛していたのだ。もしも彼女の意識がまだはっきりしている時期にマルクがあのような殺され方をするさまを見せつけられていたら、どんな拷問よりも痛みと悲しみと絶望をもたらしたに違いない。






 墓地に着いたのは、夕暮れどきだった。


 目の前にはディアナの墓が、隣にはマルクの墓がある。

 スケンデルは十字を切って祈りを捧げた。この祈りが終わったら、スケンデルは生涯欧州へ来るつもりはなかった。


 どれくらいの間、祈りを捧げていただろう。


 ふと背後から土を踏む音がして、スケンデルは閉じていた瞼を開いて振り返った。


 年頃は12か13の、美しい子供が夕陽を浴びて立っていた。


 黒く艶やかな髪は短く切られているが、顔だちは柔らかい。少年にも少女にも見える不思議な容貌だった。野暮ったい服とズボンに身を包んではいるのに、どこか神々しさも感じる。


 老いたアルバニア人のスケンデルには、その正体がすぐにわかった。


宣誓処女ブルネシャ……君は山人か」

 とうに廃れた風習だと思っていた。まさかこんな幼い宣誓処女ブルネシャがいるとは。


 彼女は返答は代わりに、肩かけ鞄からウェルロッド消音拳銃を取り出してスケンデルに向けた。

 長いまつげの奥にある、綺麗な銀灰色シルバーグレーの瞳が簡素な照準越しにこちらをじっと狙っている。


 スケンデルは最初から、あの事件にウェルロッドが使われたのだと勘づいていた。あの作戦に参加したとき、自分もこの銃をステンガンと一緒に持っていたのだから。


「その若さなら、マルクを殺した犯人ではないようだね」


「はい」宣誓処女ブルネシャが初めて口をきく。凛とした声だった。「でも同じことです。我々は10年前に彼を罰し、そして今あなたを罰する」


 ヴァリュアブル作戦の失敗は、キム・フィルビーが情報をリークしたことに端を発する。


 だがフィルビー1人の裏切りで、全てが決した訳ではない。シグリミがああも完璧に待ち伏せ、一網打尽に出来たのは他ならぬアルバニア人の中にも大勢のスパイがいたからだ。


「元凶であるエンヴェル・ホッジャもキム・フィルビーも、我々の手によって復讐を果たす悲願はついぞ叶いませんでした。しかし直接我々に仇なした裏切り者だけでも、報いを受けさせる」

「それは違う。先に裏切ったのは私ではなく、君たちだ」

 スケンデルは老いて動きの鈍くなった身体をゆっくりと立ち上がらせ、ウェルロッドを構える宣誓処女ブルネシャと向き直る。


「1939年にイタリアのファシストどもがアルバニアを攻めたとき、君たちはあっけなく侵略者に迎合した。43年にイタリアが降伏すると、今度はドイツがへ鞍替えした。そしてコソボとの国境をまたぐ地域を根城にしていた君たちの部族は……」

 あの浅ましい光景は、口に出すのも汚らわしかった。


 そう思ったスケンデルは一瞬言い淀みながらも、話を続ける。


「コソボでは家財の略奪目当てにユダヤ人を捕まえては強制収容所に移送する列車へ押し込め、自分たちの地元では既得権益を脅かす共産主義者をドイツ製の銃で殺戮しパルチザンからの恨みを大いに買った。このとき既に枢軸陣営は沈みかけた船であったと言うのにな」


「そんなの……裏切り者呼ばわりされるいわれはありません」

 少し狼狽えた様子の宣誓処女ブルネシャが口を挟む。「戦争のときはまずゾクー1世が先に国を捨てて、ギリシャに亡命したと聞いています。ぼくたちは十分に義理を果たしたんだ」


「そう、まさに君たちにとって国家とは、国王と自分たちとの封建的な主従契約で結びつく集団でしかなかった。国民国家の概念を理解することが出来なかったんだ。そして同様に列強諸国のことも遠方からやってきた強大な部族のように、素朴な見解で認識していた。君たちのそうした近視眼的なところが、アルバニアに独裁者の圧政よりも酷い厄災を招こうとしていた」


 太陽はもうほとんど沈みかけていた。


 スケンデルは脂汗を流しながら、なおも熱弁を振るう。「君は朝鮮戦争を知っているか? ここから遠く離れたアジアの半島国家で、あの作戦が行われていたのと同じ頃に、南北で別れて戦争をしていたんだ。国土は焼け果て、何百万もの命が奪われた。自由のための戦いなどと美辞麗句を並べたところで、大国の代理戦争の舞台になるというのはつまるところ、こういうことなんだ!」


 呼吸が苦しくなり、スケンデルは胸を掻きむしった。


 それでも息を整え、また訴え続ける。


「でも君たち山人はきっと、朝鮮という地名さえ知らなかっただろう。君たちはただ自分の面子と権益を取り戻すためだけに、無邪気にも内戦を望んでいた。だから私はマルクを説得したんだ! そして私と彼は、真の愛国者として、愛国者として……!」


「黙れっ!」

 宣誓処女ブルネシャが叫ぶ。


「ぼくたちアルバニア人は40年間、ホッジャの下で貧しく希望のない暮らしを余儀なくされ、神への信仰さえも奪われていた。それなのにアメリカでのうのうと暮らしていた貴様が、愛国者を気取るのか!?」


 今度はスケンデルが気圧される番だった。


 先程まで口角泡を飛ばし、真っ赤になっていた顔が見る見るうちに青ざめていく。


「この銃の最初の持ち主は殺され、その男を客人として迎えた家も一族ことごとく殺された。かの家の血は絶え、今はただこの銃と復讐を果たすという誓約ベーサのみが引き継がれてあんたの前にやってきた! それでもなお己を恥じないと言うのなら、薄汚い弁解を吐いてみるがいい!」

 ひとしきり叫び終えた宣誓処女ブルネシャは息を弾ませながらスケンデルをめつける。ウェルロッドを握る手が怒りに震えていた。


 だがそれは、自分が立っている側の大義を揺さぶられ、必死で正当性を訴えているようにも見えた。スケンデルと同じように。


「……その通りだ」

 胸のうちにある欺瞞と虚栄を砕かれたスケンデルは、偽りで気力を保っていた膝から力が抜け崩れ落ちていった。


 地面に座り込み、弱々しく項垂れる。


「今、話したことは全て、私が50年かけて考えた言い訳だ」

 目から涙が流れてきた。老眼鏡を外し、手で拭う。


 しかしいつまで経っても、涙は乾くことがなかった。


 あの頃、本当はどんな気持ちでシグリミに内通したのかは覚えていない。


 何となく嫌いな父親への反発があった気もするが、あまりにも長く自分に嘘をつきすぎて、その感情を取り戻せなくなってしまっていた。


「私は、私の罪を償うことにするよ」

 力なく微笑んだスケンデルは、それだけ言い残して瞼を閉じる。


 指でも鳴らしたような小さい破裂声を、最期に聞いたような気がした。






 夜になっても、ローマのデモは賑わい続けていた。


 エヴィスは人混みの中を歩きながら、ふと空を見上げてみた。


 丸い月が輝いている。


 誰かが打ち上げたロケット花火が、その前を横切った。


「終わったか?」

 背後から声をかけられて振り返る。


 ベスニクはプラカードを肩に担いで立っていた。


 今日はこのようにデモ参加者に扮した部族フィーシィの人間が、ローマの至るところに張っていた。スケンデルはデモの日に合わせて行動すれば人混みに紛れ込めると考えたのかもしれないが、それはこちらからしても同じだった。


「お前もやってみるか?」

 ベスニクがプラカードを突き出してきた。


 白地に赤いペンキで『NON UCCIDERE殺すな!』という文言が書き殴られている。


「ぼくはいいよ」

 エヴィスはやんわりと押し返して断った。


「腹から声を出すのは、気持ちがいいぞ」

 ベスニクが笑う。


 そんな話をしながら街を歩き、路上に停めたバンに乗り込む。後部座席の窓には内側からジョージ・W・ブッシュを揶揄するポスターが貼ってあり、ここなら外から中は見えない。


 席に座ると、ベスニクはプラカードを足下に放って片手を差し出す。エヴィスはポケットから出した紙の包みを、その掌に乗せる。


 ベスニクが包みを開き、中身を確認した。


「上手く切れているぞ」

「伯父さんが教えてくれたからね」 

「これであのおしゃべりは、余計なことを言えなくなったな」

 ベスニクは満足げに包みを閉じ直し、ポケットにしまう。


「それから銃もだ。処分しておく」 


「捨ててしまうのかい? こんなに静かなら、使い道は色々ありそうだけど」


「いや、10年前に俺が撃ったときはもっと静かだったんだ。このまえお前に試し撃ちをさせたときの銃声を聴いてわかったよ、そいつはもはや完璧な状態ではないとな」


 ベスニクはエヴィスの肩から鞄を外し、中からウェルロッドを掴みだして銃身内蔵型のサイレンサーを指でなぞる。


「ここにはゴム製のワッシャーが何重にも入っているが、撃つたびに穴が広がって次第にその意味を成さなくなってくる。10発か15発も撃ったらもうダメさ」


 ベスニクはウェルロッドを鞄にしまって、脇にやる。「こいつは50年前に与えられた役目を今日果たし終えた。だから後はつぶしてやることだけが弔いになるんだ」


 運転手がエンジンをかけてバンを発進させる。


 ベスニクが携帯電話をかけ、別の場所にいるアフメドたちにも引き揚げるよう指示を出す。やることがなくなったエヴィスは、ぼんやりと喧騒に耳を傾けていた。






 2003年2月15日の反戦デモは世界60ヶ国以上、1000万人とも3000万人とも言われる人々が参加し「人類史上最大の抗議運動」と評された。

 しかしこうした運動が情勢を変えることはなく、同年3月20日にアメリカを中心とする多国籍軍がイラクに侵攻した。


 また、デモの日にローマ郊外の墓地で起きた殺人事件については、一部の報道機関が僅かに報じたのみで大きく取り上げられることはなかった。

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