第十章 あなたがいなくなった日

 バーリの旧市街、聖サビヌス大聖堂。


 柔らかなベージュの壁面にバラ窓、そして3つの木の扉がある大きな建物だ。


 エヴィスとルーレは、中央の扉の前に立っていた。


「開いてないね」

 今日はいよいよルーレがアルバニアに帰る日だったのだが、フェリーの出港までまだ時間があった。


『バーリへ来たんなら、あの大聖堂は見ておいた方がいいぜ。特にあそこの地下は金ピカで、そりゃあもう綺麗なんだ!』

 ダーダンがあまりに熱弁を振るうものだから来てみたのだが、残念ながら今は拝観が許されている時間ではないようだった。


 仕方なく2人で手を繋いで旧市街を歩いた。


 この街は、さながら白壁の迷宮だ。


 見上げると青い空があるけれど、左右を建物に遮られて太陽は見えない。


 だから昼間なのに薄暗く、道端で椅子に腰かけて酒をかっくらう飲んだくれがそこかしこにいた。


 美しい街だが、ルーレを連れてくるのには相応しくなかったかもしれない。


「寄っていかないかい?」

 小さなカフェの看板を見かけたので、ルーレに尋ねてみる。


「いらない」

 ルーレはどこかふてくされているようだった。


「どうしてそんな顔をしているんだい?」


「だって」ルーレの声ははっきりしていた。「エヴィスはどうして、わたしと一緒に帰らないの?」


「まだ仕事があるんだ」

 

「村にだって、仕事はあるわ」


「ここで伯父さんの手伝いをした方が、村の人たちよりずっとお金が稼げるんだよ」


「わたし……伯父さん、きらい!」


「きみは何てことを言うんだ。家が焼けてしまったぼくたちに住むところがあるのは、伯父さんのおかげじゃないか」

 世話になっている人に対して言うことではない。そう思ったエヴィスはルーレを叱りつける。


 だが一方で、それが無駄なことであることも、無理からぬことであるのもわかっていた。


 思えばルーレは、ずっとベスニクを嫌っていた。


 初めて彼に会ったのは、まだ両親が生きていた頃だ。客人としてやってきた伯父にエヴィスはきちんと挨拶をしたが、ルーレは酷く怯えて声が出ない様子だったのを覚えている。


「あっちへ行こう」

 ようやく人の活気を感じられる通りを見つけ、そこに出る。


 路地の左右に所狭しと露店が並ぶ場所だった。観光客が多いらしく、色んな人種の人々がごった返していて、辺りにはエヴィスの知らない言語があふれている。


 自分たちも露店を冷やかしてみることにした。


 菓子やおもちゃを売っているのを見つけてはルーレに話しかけてみるが、相変わらず興味を示す様子はない。


 古道具を売っている店の前に来たとき、ふと壁掛け鏡が目に留まった。


 そこには不自然な笑顔を作り、必死に妹の機嫌を取ろうと明け透けな媚びと怯えに満ちた自分の顔が写っている。


「……そろそろ港に戻ろうか」

 古道具屋の前を足早に通りすぎ、ルーレにそう語りかけた。


 喧騒の中に混じった、背後で鳴った金属音が耳朶じだに絡みつく。


 ルーレを抱き締め、脇の露店へ倒れ込む。棚が崩れ、売られていた手作りのマカロニがぱらぱらと石畳にぶちまけられる。


 銃声。悲鳴が上がる。店の主だったふくよかな主婦が倒れる。エヴィスは振り向きざまにR61を引き抜いて銃声が聞こえた方へ向けた。


 人影を撃った。弾丸は男の喉仏を潰し、男は今まさに2発目を撃とうとしていた拳銃を取り落とし、喉を押さえて苦しみながら崩れ落ちる。


 あの金属音が、自動拳銃の安全装置をいじる音だと気づいていなければ死んでいた。


 路地は大混乱に陥っていた。売っていた人間も買っていた人間も今はみんな皆この狭い路地を少しでも早く去ろうとひしめき合い、売り物を蹴飛ばしながら人々を掻き分けようとしていた。


 エヴィスもまたルーレの腕を引き、身を低くして人の流れに飛び込む。様々な言語の叫びに混ざって、南方言のアルバニア語で「殺せ、殺せ」と言う声が聞こえた気がした。他にもまだ刺客がいる。


「おばさんが、おばさんが!」

 背後からはまだ流れ弾に撃たれた主婦の、イタリア語で助けを求める声が聞こえていた。ルーレはそちらを気にかけていたが、エヴィスは構わず腕を引き続けた。人の流れから取り残される訳にはいかなかった。 






「奴等にエヴィスのことがバレたんだ」


 家に戻るとベスニクはすぐにダーダン、パオロと共に離れで会合を開き、エヴィスもその場に呼ばれた。


「俺たちがサイミルを始末したときに撃ち漏らした奴が覚えていたんだろう。あの夜、襲ってきた集団の中にチビが1人混ざっていたのをな。そこから辿られて尻尾を掴まれたに違いない」


 話し合いは随分と長引いた。


 今後の方針が固まってお開きとなった頃にはもう窓の外は暗くなり、夜の静寂が家を包み込んでいた。


 離れを出ると、まずはエヴィスはベスニクと一緒にルーレのいる部屋に向かう。


 扉を開けてベスニクがまず先に入る。そしてすぐに横へ逸れると、傍らの壁に背を預けた。

 

「……ルーレ」

 窓際に立っていたルーレに声をかける。


 ルーレがこちらを振り返る。エヴィスと同じ色の黒髪に月明かりを浴びて、頭に天使の輪が輝いていた。


「もう大丈夫かい?」


「うん」


「何を見ていたんだい?」


「あの人たちが来ないか、見張ってるの」


「そうか……ありがとう」


 ルーレに少しぎこちない微笑みを向けながら、一瞬だけ伯父の方を見た。


 ベスニクは腕を組んだまま何も言わない。これから話すことは、あくまでエヴィスから伝えるべきことと考えているようだ。


「あのね、ルーレ……その、さっき伯父さんたちと、今後のことを話していたんだけどね」


 なるべく落ち着いて話そうとするが、少し言い淀む。

 

「きみを、養女に出すことに決めたよ」


 ルーレの瞳が、銀灰色の瞳が、エヴィスと同じ色をした瞳が、大きく揺らいだ。


 驚きと悲しみが交錯して、しばらく言葉が見つからない様子だった。


「……なんで?」しばしの沈黙の後、ルーレが口を開く。「どうしてそんなことを言うの?」


「わかるだろう? 今日ルーレがあんな危ない目に遭ったのは、ぼくと一緒にいるからなんだよ。今日はとうとう奴等に、きみのことまで知られてしまった。こうなってしまってはもうアルバニアに帰すことも出来ない」


「いやだ、わたしエヴィスと家族じゃなくなるなんて絶対にいや」


「家長はぼくだ。きみをどうするかは、ぼくが決める。それでもきみがぼくに従えないと言うのなら、きみを家から追い出すまでだ」 


「……わたし、追い出されるようなことをした? エヴィスはわたしが嫌いだった? エヴィスはわたしと離れ離れになって、平気なの!」

 ルーレの小さな手が、エヴィスの手を取る。


「ぼくは……」

 少し口ごもった。


 しかしやがてまた、言葉を紡ぐ。


「疲れたんだ、きみの世話をすることに!」


 語気を強めて言い放ち、手を振り払う。


 ルーレは呆然とした表情で立ち竦んでいた。エヴィスは背を向け、逃げるように部屋を出る。


 ベスニクも後に続いて出てくるが特に声をかけられることはなく、エヴィスを追い越すと廊下の角へ姿を消していく。


 独りになったエヴィスは、これでいいんだ、と誰に語るでもなく言い聞かせた。

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