第九章 喜劇の幕が降りるとき

「なんてことをしやがる!」

 無惨な姿にされた愛車へと駆け寄ったダーダンは、今にも泣き出しそうな顔でポケットからエンジンスターターのリモコンを掴み出す。


「まだ動くかな?」

「動いてもらわにゃ困る!」

 憎々しげにスイッチを押すとロールスロイスのエンジンが音を立て、怒りの声は歓喜に変わった。「よしっ、目にもの見せてやる!」


 へこんだドアに鍵を差して開き、シートの破片を払うとダーダンはどすんと尻を落とした。


 エヴィスも続いて助手席に乗り込む。幸いにもこちら側のリアウィンドウは割れていなかった。「ごめんよダーダン。でもあいつ、髪の毛があるかないかの問題じゃないくらい別人だったぞ!」


「ハリウッドの連中は、人前へ出るときゃみんな女みてえにメーキャップを塗りやがるのさ!」

 アクセルを吹かして急発進、キャンピングカーが逃げた方へ。


「追いつけるかな」

「追いつけるさ。こいつはターボなんだ」

 吠えるような排気音エキゾースト・ノートに包まれスピードが乗っていくにつれて歪んで半開きになった右のドアから車外の風が吹き込む。


 言葉の通りロールスロイスはほどなく遥か遠くを走っていた鈍重なキャンピングカーの姿を捉え速度を上げて距離を縮め追いすがる。


「停まれ!」

 並走しながらダーダンは窓から怒鳴ったがキャンピングカーは停まらない。


 前方に見える二又路。キャンピングカー側には舗装された広い道、ロールスロイスの側には舗装されていない狭い道。

 キャンピングカーがこちらへ車体を振ってきた。大きな音がして身体が揺さぶられた。更にがんがんとぶつけ擦り付けてきたキャンピングカーは強引に小道側へ進路を取って抜けダーダンもそちらにロールスロイスのハンドルを切る。ザラザラとタイヤが土を切りつける音が耳をつんざく。


 しかし四輪駆動4WDのキャンピングカーが軽快に走り続けるのに対し後輪駆動FRのロールスロイスはやはり慎重にならざるを得ないのか次第にまた向こうがリードを取っていく。

 

「エヴィス! 奴を撃て!」ダーダンが巧みにハンドルを操作しながら片手でパワーウィンドウを操作し、吹き込んだ風がエヴィスの短い黒髪を撫でる。「撃ち殺しちまえ!」


 猛り狂ったダーダンは、もう自分が綺麗な手でどうたらと言っていたことも忘れてしまっている。


 エヴィスが助手席の窓から身を乗り出すと、容赦のない風を顔に浴びて目を開けられなかった。高速で走る自動車は、馬と勝手が違いすぎた。


 右斜め前方を走るキャンピングカーの運転席に向けてR61を構える。車が揺れると伸ばした腕が慣性でふらふらとして狙いが定まらない。出来ることは安全装置を解除して撃鉄を起こし、ギリギリまで引き金を引き絞ってすぼめた目に飛び込む狭くぼやけた視覚の中で全ての神経を手繰り寄せることだけ。


 やがて照門フロントサイト照星リアサイト標的まとが一本道になる刹那の間に引き金にかけた人差し指が最後の付加を加え、掌に鋭い反動が返ってくる。


 何も見えない中、ほとんど勘所で放った1発だった。


 だからキャンピングカーのリアウィンドウに、白い弾痕が穿たれるところを自分の目で見ることは出来なかった。


 ただカーブを外れ、土手を転げ落ちる大きな音だけが聞こえた。


 ロールスロイスが速度を落とし、エヴィスはようやく瞼をしっかりと開けることが出来るようになった。


 窓枠から体を抜いて席に戻り、ロールスロイスが停車してダーダンが降りるとその後に続く。


 キャンピングカーは土手の下で煙を噴いていた。窓という窓が割れ、あちこち塗装は剥がれている。


 エヴィスは結局、殺してしまったかと思った。


 しかしほどなくして運転席のドアが開き、ハリウッドスターは血が吹き出る左腕を抑えながら命からがらに転がり出てきた。


 腕を撃たれてハンドル操作を誤ったが、命に別状はないようだ。


「なんでえ、殺さなかったのか」


「ああ、いや……殺してしまったら、ツケを回収出来ないかなって」


「それもそうだな。俺としたことがついカーッとなっちまって恥ずかしい!」

 ちっとも恥じる様子もなく、ダーダンは笑って自分の太鼓腹を叩いた。


「逃げないように見張っとけ!」

 そう言いつけると、ダーダンは小走りで車の後ろに回ってトランクを開く。

 ロールスロイスはガラスが割れドアがへこんだ上に、純白の車体が目も当てられないほどに泥だらけになっていた。


 エヴィスは坂を滑るように下り、R61の銃口をハリウッドスターに向ける。「動くな!」


「待て、待て、撃つな!」

 ハリウッドスターは銃口に怯えて顔を背ける。


「じゃあ、ツケをきちんと払うかい?」


「払う、払うとも。ただその前に医者へ連れていってくれ。痛むんだ、このままでは死んでしまう!」


「ダメだな、まず金の話が先だ」

 背後からダーダンの声がしたかと思うと、巨体がのしのしと熊のような足取りでエヴィスを追い越していってハリウッドスターに歩み寄っていった。


 そして手に握り締めていたタイヤレンチで左腕の銃創を叩くと、ハリウッドスターは「あーっ!」と叫ぶ。

 

「俺の車にあんな真似をしやがって! もうツケだけの話じゃ済まねえぞ。わかってんだろうな!?」


「もちろん修理代も出す! だから暴力はやめてくれ!」


「気軽に言ってくれるが、その金はどうするんだよ。金がないから逃げたんじゃねえのかい? 払うつもりがあるってんなら、そこんとこどうするつもりなのか聞かせてもらおうじゃねえか」


「現物払いだ、現物払いで払うよ! 文句はないだろう?」


「文句があるかどうかは、何を出すかによるさ。言っとくが、もうてめえがブロマイドにサインしたぐれえでどうにかなる額じゃねえぞ」

 ハリウッドスターは無傷の右腕を伸ばし、キャンピングカーを指差した。


 たちまちタイヤレンチがその右手をはたき落とすように振り下ろされ、骨を砕かれたハリウッドスターはさっきより一層大きな悲鳴を上げてのたうち回る。


「ナメてるのか! どっからどう見ても廃車だろうが!」


「そうじゃない! 中だ、中にある!」

 両腕を潰されたハリウッドスターは首を振り足をバタバタさせながら必死で訴えた。


「おいエヴィス、ちょいと中を改めてこい」

 まだ半信半疑な様子のダーダンが、タイヤレンチの先でキャンピングカーを指した。


 エヴィスはキャンピングカーの後部ドアを開き、タラップに足をかけて車内へ踏み込む。


 居住空間キャビンの中は小洒落た内装があしらわれていたが、今はめちゃくちゃに物が散らかっていた。この中から金目のしなを見つけるのは大変だろう。


「何か金になりそうなもんはあるか?」


「大きなテレビがあるよ」エヴィスはまず目についた物を口にした。「けどブラウン管が割れてる」

 鈍器で人を殴る音がして、ハリウッドスターがまた情けない声を上げた。


 エヴィスは備えつけの引き出しを片っ端から引いてみたが、調味料だとか石鹸だとかばかりで大したものは入っていない。


 備えつけの小さな冷蔵庫も開いてみたが、途端にせ返るような酒の匂いが漏れ出てきた。


 中を改めようと全開にすると混ざった酒があふれ流れてくるほど溜まっており、瓶は全部割れてただのガラス片になっていた。


「なんだか高そうな酒があったけど、これも割れてる」

 そう言うとまた殴る音がして、さっきより高い叫喚が響き渡った。


 次第にあのハリウッドスターが哀れに思えてきたエヴィスは、どうにかダーダンが納得するような物はないかと周囲を見回す。


 すると黒い筒状のケースが目に留まり、ファスナーを開いてみると釣竿の先端が出てきた。どうやらこれは釣竿を入れるロッドケースらしい。


「ねえダーダン、高そうな釣竿があったよ!」

 エヴィスは釣竿を握り、引っ張り出してみることにした。


 だが真ん中辺りまで出してみたところで釣竿は折れていた。


「……これもダメだ」

 とうとう人間の身体が出してはいけないような音が鳴った。エヴィスは車外に顔を出してそちらに目をやる。


 すねの骨を折られたハリウッドスターが痛みに悶え号泣していた。しかしダーダンはなおも慈悲をかけてやることはなく、自分が打ち据えた箇所を足で踏みつけていたぶっている。


「いい加減にしろ! さっきからロクなもんがねえじゃねえか! いってえこれでどう落とし前をつけようってんだ!?」


「違う違う違う、助手席だあっ!」

 ハリウッドスターは必死の形相で訴えた。 


 するとダーダンは怪訝な顔をしながらも、踏みつける足をゆっくりと退かした。「何でそれを先に言わねえんだよ」


「あんたがひっきりなしに殴るから話せなかったんだ!」

 ハリウッドスターは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で抗議する。


 それを見たエヴィスは、つくづくあの雑誌に載っていた男は虚像だったのだと思った。


「わかったよ、取り敢えずはてめえを信じてやる。けどな」

 憤怒の表情を吹き消したダーダンはタイヤレンチを地面に放ると、ベストの内側に呑んだチェストホルスターから黒く美しいスライドにポーランドの国章が刻まれたラドムVISを抜いて見せつける。


「もしまた大したもんが出なかったら、次はこれを使う。いいな?」

 ダーダンはどろりとした目で俳優を見下ろしながら、親指でラドムの撃鉄を起こした。


 エヴィスはこのひょうきんな男が時に残忍な激情と嗜虐性を見せるのを知っていたが、こんな底冷えのする目をしたところは今まで見たことがなかった。


 そんな胸中の戸惑いを抑えながらキャビンを通り、前方の運転席へ繋がるドアを開ける。


 中を見たエヴィスは、息を呑んだ。


 助手席では若い女が耳から血を流し、ぐったりしていた。

 咄嗟に女の首に手を当てて脈を取ってみたが、それは意味のないことだった。


「ダーダン、女の人が死んでる!」

 エヴィスが叫ぶと、車の脇を駆けて開きっぱなしになっていた運転席のドアから中を覗いた。


 そして血まみれの女を見たダーダンは、ハリウッドスターの方に向く。「おい、この女もハリウッドの有名な女優なのか?」 


「そんな訳があるものか! 女優に憧れて故郷を出てきた、ただの田舎娘だよ!」

 今まで泣きわめいていたハリウッドスターが、急に耳障りな高笑いを上げる。


「役を得るよりも先に贅沢を覚えさせたら、オーディションも受けず稽古もさぼるようになってしまった売女ばいただった! だがその女にくれてやったアクセサリーは、どれも確かな値打ち物ばかりだ……」


 聞かれてもいないことまでべらべらと喋りだして、死んだ女を嘲笑していた。痛みでとうとう頭がおかしくなってしまったのかもしれない。


「そうかい」

 ダーダンは溜め息をつきながらカンカン帽を脱ぎ、瞼を閉じて女に短い黙祷を捧げる。


 だがその面持ちには、後始末がそう面倒でない女の素性を知った安堵も混ざっていることにエヴィスは気づいた。






 ロールスロイスが漁村に戻った頃にはもう、既に夕暮れ時になっていた。


 あの後ダーダンが自分の若い衆を呼んで事故車は回収、ハリウッドスターは口の堅い医者に診せる運びとなった。

 女の死体はアクセサリーを剥ぎ取った後、車と一緒に処分するらしい。


 帰りの車内では、互いに何も話さなかった。


「あっ」


 ようやく声を発したのは、もうパオロの家がある丘が見えてきた頃だった。


「伯父さんだ」


 向こうに、夕陽を背にした大男の影が立っているのを見つけたからだった。


「先に降りてな」

 ダーダンはそう言ってブレーキをかけてエヴィスを降ろした後、ロールスロイスをガレージの方へ走らせていった。


 1人残されたエヴィスは、ベスニクの方へ歩いていく。


「ただいま、伯父さん」


「今日の仕事で、お前は何か学びを得ることは出来たか?」


「……うん」


「ならいい」


 それきり深く尋ねることなく、ベスニクは先に家の中に戻っていった。


 エヴィスも家に入ると、今度はルーレが待っていた。


「おかえり!」


「ああ……ただいま、ルーレ」


「遊ぼう」


「ごめんよ、今は疲れてるんだ」

 笑顔を作る気力もなく、ルーレをいなして部屋に戻ろうとした。


「待って!」服の裾を掴まれて立ち止まる。「ここ、汚れてるよ?」


 ルーレが指差していたのは右手の袖に目をやった。


 その小さな手が指差す染みが、疲れてぼうっとした頭には何なのか最初はわからなかった。


「触るな!」しかしすぐにそれが何なのかに気づくと、反射的にルーレの手を叩いて振り払っていた。途端にルーレは泣き出してしまい、騒ぎを聞きつけたおばさんたちがどうしたのと近づいてくる。


「ごめんなさい、ルーレの面倒頼みます。ぼくはちょっと疲れてて」


 後を頼んで、エヴィスは自分の部屋に戻った。


 背中でドアを閉じて、その場にうずくまる。そしてルーレの泣き声が聞こえないように両手で耳を塞いで、顔を膝にうずめた。

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