第八章 つまらないコメディのように

 クロトーネの山合を縫うように敷かれた、まだアスファルトの新しい小道を純白のロールスロイス“シルバースパー・ターボ”が走り抜けていく。


 ボンネットの先端に立つローブを翼のように羽ばたかせた女のエンブレムが風を切り、その銀色の肢体にイタリアの太陽を浴びて輝いている。


「ハンドルが右についている車なんて、初めて見た」

 助手席に座っていたエヴィスは、艶やかなウッドトリムを施された車内を見回しながら間の抜けた感想を口にした。


「イギリスと日本ヤポニアの車は、みんなそうさ」

 その右隣では太った身体をダブルのスーツに包み、洒落たチェックのネクタイを締めたダーダンがハンドルを握っている。


「30年前に初めてイタリアに渡ったとき、ミニって言うイギリス車を買ったんだ。アルバニアに帰るとき、持ってこれねえから売っちまったけどな。これが名前通りの小さな車で、味のあるデザインなんだ。あの頃はイタリアのどこへ行くにも乗り回してたよ」


 ダーダンが楽しそうに思い出話を語り出した。そのミニと言う車を相当気に入っていたようだ。


「そんであるとき、俺を殺そうとした奴に待ち伏せをされたことがあった。だがその馬鹿はつい普通の車を狙うときのように左を撃っちまって、俺は助かったんだ。以来、俺は右ハンドルの車が大好きって訳さ」

 ダーダンのわっはっはという豪快に笑いにつられて、エヴィスも笑った。


 だがしばらくして、あることに気がついたエヴィスの顔がこわばる。


「……左って、今ぼくが座ってるこの席じゃないか」

「細けぇことは気にすんな!」

 なおもダーダンは笑い続けているが、エヴィスは苦いものでも口にしたような渋い表情になっていった。


「だが、この図体じゃもうミニは厳しい。だからでかい車にしたのさ」

 ダーダンは大きく迫り出した自身の腹をさすりながら物憂げに目を細めた。


「どうでもいいことを喋りすぎたな。仕事の話をしよう」ダーダンはだぶついた顎をしゃくった。「そこにある雑誌を読んでみろ」


 顎で示された方を見ると、ダッシュボードの上にダーダンのカンカン帽と一緒に雑誌が並んで置いてある。


 手に取って開いてみたが、エヴィスには読めなかった。


「英語は習ってねえか」

「うん」

 正直に答えた。


「これもイギリスの雑誌なのかい?」


「いいや、それはアメリカのだ。まあ字が読めなくても別に関係ねえ。付箋をっ付けておいたから、そこを見な」


 確かめてみると、折れ曲がってわかりにくかったが確かに黄色い付箋の付いたページがあった。


 そのページを開いてみると逞しく自信に満ち溢れたアメリカ男が写っていて、顔が蛍光ペンで丸く囲まれている。


「そいつはハリウッドの大スターで、この近くの少し人里離れた場所に秘密の別荘を持っててな。俺はバカンスの間、奴に頼まれて色々と手配してやったんだ。暇潰しになるものを色々と、な」


 贅肉のついたダーダンの分厚い手が、ハンドルを軽く叩いた。


「だが、最近どうもアメリカに帰る支度を始めてやがるようだ。そりゃ別にいいんだが、不思議なことに俺への連絡がねえ。帰るんだったらきっちりツケを払ってもらわにゃならん」


「なるほど、状況はわかったよ。でもさ」エヴィスは空っぽの後部座席を振り返る。「そんな仕事ならダーダンがわざわざ自分で来なくても、任せられる人はたくさんいたんじゃないの?」


「気づいたか」


 大きな声で笑うダーダン。「いやぁ、着くまで少し時間があるからよ、少しばかりお前さんと喋りたかったのさ。他に誰かいちゃあ、腹を割った話は出来ねえだろうと思ってな」


 ダーダンはふいに片眉をひょいと上げた。「お前さん、せっかくルーレと会えたのにちっとも嬉しそうじゃねえな?」


「……たった2ヶ月だったのに、喋り方がもうわからなくなってしまった。もっとたくさん話したいのに、もう何も話すことが思いつかないんだ」


「俺たちも2月ふたつきばかり口をきいちゃいねえが、今こうして喋れてるじゃねえか」


「そうだけど……」


 エヴィスが言い淀むのを見たダーダンは済まなさそうに笑う。「今のはちょいと意地悪だったかな。いやわかるよ、お前さんの気持ちは」


 そう言って一拍置いてから、笑うのを止めて少し落とした声色でまた尋ねてくる。


「船の上で、友達でも出来たか?」


 まるで見てきたかのように正鵠を射た問いに、エヴィスは返答に窮した。


「図星か」

 押し黙るエヴィスを見たダーダンは得心がいった様子だ。


「誰にも言わないさ。誓約ベーサを立てる」


「……伯父さんは怒るかなって」


「そうだな、きっとあいつはじゃくと咎めるだろう。でもお前さんが別に情けない訳じゃあない。あいつが少し特別なんだ」


 ダーダンはポケットから出した煙草入れシガレットケースを座席の中間にあるパワーウィンドウのスイッチ近くに置き、器用に片手で開いて1本くわえる。


 昨晩燻らせていたような立派な葉巻ではなく、手軽なシガリロだ。


「ガキの頃、うちの親父からヤギの世話を任されたことがあった」

 続いてシャンパンゴールドのガスライターをあてがい、横のローラーを回して火を点けながら昔話を始めた。


「ヤギってのはかわいいもんでよ、いつも餌をくれる奴の顔をちゃんと覚えられるんだ。あのヤギは俺が顔を見せると、犬みてえにしっぽ振って近づいてきた。だんだん俺はこいつを潰して食うのが辛くなったよ」


 シガリロをゆっくりと優しく吹かしながらの語り口には、独特の響きがあった。声音に哀愁が乗り、聴く者の胸を打つ響きだ。


「そしていよいよ明日がその日っていう、前夜のことさ。俺はヤギを連れて家出した。北に草のいっぺえ生えてる穴場があって、そこでならヤギを生かし続けられると思ったんだ。ところが真夜中だったもんだから道に迷っちまって、全然知らねえところに着いちまった。朝方になって村の人間に見つかって連れ戻されたが、親父にこっぴどく殴られたよ」


「ヤギはどうなったの?」

 気になって聞いてみる。


 だがダーダンはそれに答えてはくれず、少し悲しげな苦笑いだけを返された。


「それからしばらく経って、共同農場の畜舎が建った。ほれ、今じゃ廃墟になってるあれよ。あそこに今度からは村中のヤギを全部集め、皆で育てて肉もチーズも平等に分けるってことになったんだ。俺はアカにゃあんましいい思い出はねえが、あれだけは上手いやり方だったと思う」


 カーブに差しかかり、ダーダンは緩やかにハンドルを切った。「やがて社会主義の世の中が終わって、俺たちはまたてめえの家でヤギを育て、てめえで潰して肉を食わなきゃならないようになった。だがその頃にゃ俺はもう大人になっていて、人とヤギの距離感をガキどもに教える立場になっていた」


「どんなことを教えたの?」


「別にそんな難しいことじゃねえ。ヤギに名前は付けるなとか、話しかけたりするなとか、まあそう言うことさ。うちの馬鹿息子たちにも教えたし、ベスニクんとこの倅も悩んでいたから俺がこっそり教えたよ」


「伯父さんの息子は、伯父さんに教わったんじゃないんだ」


「ベスニクは自分の息子が何で苦しんでいるのか、理解してやれなかったんだ。あいつの目にはヤギなんて、脚の生えた肉がめえめえ音を出して歩き回ってるようにしか映らねえのさ。俺と同じくらいの頃にベスニクもてめえんちのヤギを任されたが、ぞんざいなもんだった」


「伯父さん、ぼくにはいつも馬の世話をさぼるなって言ってるけど……」


「そうかそうか! あいつもきちんと大事に世話した馬の方が走ると学習したんだな」 

 ダーダンは一瞬わざとらしく驚いてみせてから相好を崩す。

 

「俺が知る限り、あいつがヤギに意識を向けるのは、このヤギをいつ食えるのかって考えるときだけだった。そして向こうの家でヤギを殺す日の朝には、父さん父さん、早くヤギを食べようよ! と親父さんを起こす声が俺の家にまで聞こえてきたもんさ」

 太った身体を揺らし、大袈裟に子供っぽい口真似をしてダーダンはおどけた。


 エヴィスには、あのベスニクにそんな騒がしい少年時代があったとはどうも想像つかなかった。


 だが話に出てくる少年の、薄ら寒くなるような冷酷さを聞くと間違いなくそれが自分の伯父だと理解できてしまった。


「奴は生まれながらにして、ヤギは食うものと割り切れる強さを備えていた。あるいは余計なもんを、端っから削ぎ落とされて生まれてきたと言うべきなのか……てえした男だよ。だがその分、人の機微にはちょいと疎いところがある」


 ダーダンはシガリロを唇から離し、口の中に溜めていた煙を辺りに漂わせる。


「お前は、その、なんだ……他の小僧どもより少しナメられやすい運命を背負って生まれた」

 宣誓処女ブルネシャの真の性別を口にすることは禁じられており、慎重に言葉を選んでいるようだった。


「だがベスニクのやり方を学び尽くし、残らず己の物とすれば、お前さんは生涯誰にも侮られるこたぁねえ。そんであいつに教えられねえところは俺が補うさ」


「……うん、ありがとう」


「さて、と」ダーダンは速度を落としていく。「着いたぞ」


 ダーダンはガレージ前の車用出入口を塞ぐようにしてロールスロイスを停めた。


「念のために、な」と言ってウインクをしたダーダンは、ダッシュボードの上に置いていたカンカン帽を自らの禿頭に乗せて降りた。


 エヴィスも車外へ出て家を見る。


 ハリウッドスターの別荘はまだ建てられたばかりと見える白く綺麗な邸宅で、左右にはガレージとテニスコートがそれぞれ隣接されていた。


「ぼくは何をすればいい?」


「特に何も。話は俺がつけるし、やっこさんが強情を張ったら俺がどやしつける。お前さんはただそこで見ていればいい」


 最後にダーダンは満面の笑顔を見せて「今日ぐれえは綺麗な手で妹の頬を撫でてやんな」と話を結んだ。

 そして白い漆喰の塗られた正面玄関の前へと歩み進むと、洒落たドアノッカーを握って叩く。


「俺だ。話がある!」

 ダーダンは胴間声で張り上げたが、返事はない。


「聞こえてないのかな?」


「金を回収するときは、そういうお人好しな考え方じゃいかん。まずは居留守を疑うこった。俺はここで待ってるから、お前さんは裏を見てきてくれねえか」

 ダーダンが指差したのは、家の壁とテニスコートのフェンスの間にある通路だった。


 エヴィスは言われた通りに足を進める。


 歩きながらぼんやりとした目でテニスコートを見た。エヴィスはテニスをしたことがないし、ルールさえ知らない。


 通路を抜けると綺麗な芝生のある裏庭があり、ガウンを着た初老の男が水を撒いていた。


 男はあのハリウッドスターの顔にそのままシワを入れて老け込ませたような面立ちで、両側のこめかみの生え際が上がって真ん中だけ鶏のトサカのように髪が残っている。ダーダンとはまた違う禿げ方だ。


 ハリウッドスターの父親だろうか。耳が遠くなるには少し早い気もするが、エヴィスは実際その歳になったことはないのでわからない。


「こんにちは」

 エヴィスはとりあえずこの男に声をかけ、あのハリウッドスターを呼んできてもらおうと思った。


「誰だ? 人の家へ勝手に入ってくるんじゃない、出ていけ!」

 男はエヴィスを見咎めると、強く怒りを露にする。


「だからイタリア人は嫌いなんだ、どいつもこいつも無神経でいい加減な奴ばかり! アメリカじゃお前のような不法侵入者は撃ち殺される、こんな風にな!」

 いきなりホースを向けられて水を浴びせかけられ、エヴィスはわあっと悲鳴を上げた。その口にも容赦なく水が入ってくる。


「ぼくはイタリア人じゃない!」濡れ鼠になったエヴィスは顔を背け、目に入った水をぬぐい口に入った水を吐きながらも何とか言い返す。「出ていくつもりもない! ぼくはここに住んでいる映画俳優に用があるんだ、それが済むまでは帰らない!」


「……誰からそんなことを聞いた?」


 背中になおも浴びせかけられていた水の勢いが弱くなったのを感じて、エヴィスは男の方を向き直る。


 見ると男は水撒き器のノズルを締めていたが警戒を解いた訳でもなく、むしろ目つきはより鋭さを増していた。


「ここに住んでいる映画俳優がある人へのツケをだいぶ溜めているので、今日は払ってもらいに来ました。あなたは彼のお父さんですか?」


「……ああ、そうだ」

 少し考える仕草をしていた男は、ややあってようやく事情が飲み込めたらしく怒りを納めて笑顔を作った。


「水をかけたりしてすまなかったね。来たのは君だけか?」


「いえ、息子さんがツケ払いをした相手が玄関で待っています」


「そうか。少し待っててくれ、出迎えるよ」

 それだけ言い残すと男はホースを置に、邸宅の中へ引っ込む。


 エヴィスもテニスコート脇の通路を引き返して玄関に戻る。


 ダーダンは相変わらずそこに立っていた。まだ開けてもらえてないらしい。


「おう、どうだった? って何だお前、ずぶ濡れじゃねえか」


「勝手に入ってくるなって、あの俳優のお父さんに水をかけられちゃった。でもこっちの用事を話したらわかってくれて、息子を呼んでくるってさ」


「あいつの親父がイタリアに来ているなんて、初めて聞いたぞ。いってえどんな奴なんだ?」


「顔は息子によく似てたけど、禿げたおじさんだったよ」

「馬鹿っ、あいつはカツラなんだ!」

 ダーダンがそう叫ぶのと同時に、突如として背後のガレージからディーゼルエンジンのけたたましい音がすると共にシャッターが開き始める。


 慌ててガレージへ向かうダーダン。だが半開きになったところで待つ時間さえ惜しんでシャッターを自ら突き破ったキャンピングカーの鼻先が飛び出してきた。


「停めろ、停めねえと殺すぞ!」

 前進するキャンピングカーはダーダンが車体をだんだん叩いて怒鳴っても勢いが落ちることはなく、出入口を塞ぐロールスロイスにぶつかり重量に任せて強引に押し退ける。

 そして敷地外に出ると太っちょの足には追いつけないほどの速度を帯びてゆき軽油を燃やした黒い排気ガスだけを残して走り去った。

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