第七章 ダーダンの手土産
田園に立ち並ぶオリーブの木々が朝日に照らされている風景を、エヴィスは道路を走る車の後部座席からぼんやりと眺めていた。
カーステレオからは、レッチェの路上で撃たれた男が病院で死んだというニュースが流れている。
「お前もだいぶ手慣れてきたな」
反対側の窓に寄りかかって頬杖をついていたベスニクが、ラジオのニュースを聞きながらそう口にした。
あれから1ヶ月経ち、今日エヴィスはまた人を殺した。
だがこの殺人も、やがて人々の記憶からは薄れていくに違いない。世間は今や数日前から始まったアフガニスタン空爆の話題で持ちきりになっている。
「ところで、お前にいい知らせがあるんだ」ベスニクは人差し指を立てて話を切り替える。「ルーレがイタリアに来るぞ」
「えっ?」
エヴィスは自分の耳を疑って伯父を振り返る。
相変わらず感情を推し量ることの難しい顔がそこにあったが、少なくともジョークを言っている顔には見えなかった。
「ダーダンがまたイタリアで仕事をするんだが、ついでに奴のかみさんと一緒にルーレを連れてくるそうだ。それで1週間、ルーレはこっちでお前と過ごさせようとな」
「待って、まさかルーレをあの船に乗せるつもりかい? そんなのダメだよ!」
思わず叫んでしまった。
「何故だ? お前はイタリアに来てからずっと、ルーレに会いたい、ルーレと話したいと言っていたじゃないか」
「ルーレに……」唇を噛んで俯く。「あの船だけは見せたくないよ。ぼくが人買いの仕事をしているなんて、妹に言える訳がないだろう?」
「そうか」
ベスニクは何かを考え込むように、目を細めた。
エヴィスにはそれが、どこか笑っているようにも見えた。
「そういうことならば
バーリはプーリアの州都で、対岸にはアルバニア中部の港町ドゥラスがあって航路が繋がっている。
海上に滞在する時間が若干長くなるが、故郷の山から来ることを考えたら移動時間はむしろ短くなるだろう。
それにヴロラとレッチェは今、サイミル一派と殺し合いの真っ最中だ。
「どうする? 今からバーリの港へ行って迎えるか」
「…………」
エヴィスは自分の右手を見つめた。
無言のまま親指の水掻きを左手の指で軽く挟んでほぐす。
「いや、先に村へ帰って待つことにするよ」
村に戻ったエヴィスは、夕暮れどきになってから伯父と共にパオロの家の前にある坂を見下ろす場所に立った。
しばらくすると大きく丸々と太った人影が、向こうから登ってくる様子をエヴィスの目が捉えた。
その後ろには他にも人影があったけれども、そちらはまだこの距離からではどんな人間か何人来ているのか判別がつかなかった。
「おーい!」
太った人影が手を振って声を張り上げる。ダーダンなのは遠くからでもわかった。
その後ろから付いてくるのは、大小2つの2人連れ。
最初は2人が誰だかわからなかったが、ダーダンよりだいぶ遅れてそれが彼の妻と、そして自分の妹であるルーレであることを認識した。
「エヴィス!」
ルーレがおばさんの手を放して駆け登って胸に飛びついてくる。
エヴィスは少しよろめいて、ぎこちない笑顔を作った。
「いい子にしてたかい?」
「うん! エヴィスは?」
「ぼくは……」
少し、口ごもった。
「ぼくはもう大人なんだ」
それからまた言い直す。
「ルーレや」2人のやり取りをそばで見ていたダーダンが、優しく語りかけた。「エヴィスの顔を見てみな、とても疲れてるみたいだぜ。積もる話は、ちゃんと座れる場所へ行ってからにしようや」
騒がしかったルーレがようやく寝静まったのは、もう11時を過ぎた頃だった。
夕食のときも風呂に入れるときも、ずっとルーレは喋っていた。よほど上の空で返答したのか、エヴィスはもう話の内容を覚えていなかった。
客間を出ると、窓から暗い廊下に注がれた月明かりが見慣れた長身と太っちょのシルエットを映し出している
「今から仕事の話をする」そう言ってベスニクは、親指を立てて己の背後を示した。「離れへ行くぞ」
アルバネーゼ家には、母屋と渡り廊下で繋がった小さな離れがある。ベスニクが親指を向けた先だ。
「あそこ、使ってたのかい?」
この家の間取りはあらかた教わっていたが、あの離れにだけは案内されなかった。だからエヴィスもあちらへは勝手に行かないことにしていた。
「あの離れはドン・パオロが増築したのさ。カミさんやお袋さんに仕事の話を聞かせないためにな」ダーダンが背を向けて歩き出す。小脇に何かを抱えているようだが、暗くて見えない。「俺が初めてこの家に来たときゃあ、まだなかったんだ」
エヴィスは歩いていく伯父たちの後ろについて渡り廊下を歩いた。
ダーダンがドアを開けると、部屋には既に明かりがついていた。
掃除の行き届いた部屋には真ん中に大きな灰皿が置かれた木のテーブルがあり、椅子もたくさん並べられている。
ダーダンがまずドアの近くにある椅子へ巨体を下ろし、ベスニクが向かい側の席に回って座った。
エヴィスはベスニクのそばに立つ。
「今日はいいもんを持ってきたんだ」
ダーダンが抱えていたものをテーブルの上に箱を置いた。
明るいところで見ると、それは艶のある木の箱だった。
蓋には何かのメーターが埋め込まれている。
「時計?」
「いや、こりゃ
ダーダンが笑いながら蓋を開くと、中には紙のリングが2本巻かれた太く長い葉巻がまばらに収められていた。
「こんなに大きな箱なのに、ちょっとしか入ってないんだね」
「ぎっちり詰めちゃよくねえのさ」箱の中を覗いて拍子抜けするエヴィスにそう答えると、ダーダンは1本取り出してベスニクに差し出す。「ダブルコロナだ、吸いごたえがあるぞ」
ベスニクが葉巻を受け取ると、今度は箱の下についた引き出しを開けるダーダン。
中には色んな形のシガーカッターがいくつも入っていた。
「こいつはなぁ、切り方次第でまた香りが全然別物になるのよ。さあ、お前はどれ使う?」
楽しそうに鼻唄を歌いながら、ダーダンはシガーカッターをテーブルの上に並べていく。
だがベスニクはそれらを
「ああっ!」ダーダンが
だが当のベスニクは気にも留めずに吸い口を噛みちぎると、器用に口で吹いて灰皿の中へと転がしてみせた。
「ああ、ああ、なんてことをしやがる」ダーダンはまるでこの世の終わりが訪れたかのような嘆息を漏らした。「お前とは何十年も友達だったが、今日までシガーカッターの使い方もわからん阿呆だとは知らなんだ!」
「切れたんだ、それでいいだろう」
ベスニクはポケットから出したZIPPOで火を点け、盛大に煙を吐きながら煩わしげに
その態度にいよいよ我慢ならなくなったのか、ダーダンが目を剥いて捲し立てた。「何もわかっちゃいねえ。いいか? 葉巻の良し悪しってなァ、葉っぱだけで決まる訳じゃねえ。巻き方が
「好きにやらせてくれ。お前はお前が旨いと思う吸い方をすればいいじゃないか」
「俺たちゃもう、煙草を覚えたてのガキとは違うんだぞ。若い奴等に手本を示さなきゃならねえ。最近おめえが抱え込んだコソボの連中を見てみろ。みんな腕は立つが、行儀もしつけもあったもんじゃねえ。おめえそっくりだぜ」
「それは違う」ベスニクは淡々とした声音で反論を述べた。「一度目の世界大戦が終わってコソボがユーゴに植民化され、俺たちが住んでいた1つの高地に国境線が引かれて2つに別たれた。特に狂えるエンヴェル・ホッジャがその国境線沿いへコンクリートの
「そうかい」
うんざりした顔のダーダンがこちらを向いた。「エヴィスや、煙草はもう
「……ううん。前に吸い方を教わったけど、試してみたらげほげほ言っちゃった。それからずっと吸ってない」
そしてその中には煙草の吸い方もあったが、結果は今ダーダンに話して聞かせた通りだ。
「そうか。まあ、お前さんにはまだ早ぇな」
笑いながらダーダンはもう1本出した葉巻の吸い口をカットし、長いシガーマッチを擦って先端を満遍なく炙る。
「そんなにすごい葉巻なの?」
「おうよ、ロメオ
「イタリアと言ってもここからヴェローナでは、ティラナとベオグラードよりも離れているがな」
ベスニクが煙にせせら笑いを混ぜて吐くと、ダーダンの目つきがまた険しくなる。
先程からそばで2人のやり取りを見ているエヴィスは気が気でなかった。
故郷でアリ先生の教えを受けていた頃、たくさんの殺人事件のあらましを聞かされた。
その中には乾杯を拒否したとか、自慢話に水を差したとか歌が下手だと笑ったとか、そんな理由で人を殺した例も少なくなかった。山人は誇り高いのだ。
かように名誉を重んずる社会にあって、伯父の振る舞いはエヴィスの目にいささか軽率にさえ映った。せっかくの上物の葉巻を台無しにされたダーダンがこれを侮辱と受け取って銃を抜いたと聞かされても、山人なら誰も驚かない。
「しかし、お前がシェイクスピアなんか観るとは思わなかった。俺には何が面白いのかさっぱりわからない」
「長く愛されてきた古典には、それだけの重みってもんがある。特に金のある奴を相手にビジネスをしたいなら、それ相応の教養も身につけにゃならん。今日お前と話したかったのも、それよ」
ダーダンが太った腹をテーブルに押しつけるようにして身を乗り出す。「明日、エヴィスを借りてえんだ」
「何をさせようと言うんだ?」
「簡単なツケの回収さ。銃を抜くことにはならねえだろうよ」
「それなら、お前のところで誰か手の空いている奴に回せばいいじゃないか」
「俺はエヴィスに
ふと、ダーダンが笑顔を消して神妙な顔を作った。「若い頃のお前は
「回り道をしてこそ、わかることもある。俺は自分の生き方が間違っていたとは思わない」
「そう思うんなら、エヴィスにも回り道をさせてやんな」
そう言ってダーダンはまた吸い口を唇に差し挟んだ。赤い火がじりじりと点いて、紫煙へと変わっていく。
「エヴィス」ベスニクが椅子を引いてエヴィスの方を振り返る。「この件は自分で決めさせてやる。お前、ダーダンの仕事に興味はあるか?」
急に尋ねられて、エヴィスは咄嗟にどう答えたらいいかわからずに当惑した。これまで自分で仕事を選んだことなどなかったからだ。
「やろうぜ、面白い仕事だぞ」
ダーダンは笑っている。
「ぼくは……」
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