第六章 ある売人の死

 車が目的地に着いた頃には、日付は既に12日を回っていた。


 移動に使ったのは昼間のメルセデス・ベンツではなく古ぼけたフィアットのバンで、車内にはベスニクとアフメド、他はエヴィスの知らない男たちが詰めている。


「段取りを確認するぞ。殺すのはこいつだ」

 ベスニクが全員に写真を見せる。写っていたのは都会にはいくらでもいる若者風の身なりをした男だった。


「サイミルか」

 年回りは40ほどの、頭を丸々と剃り上げてスキンヘッドにした男がコソボ訛りのある言葉で尋ねた。


「そうだ。あいつも今イタリアに来ている」


「俺はかねがね、あんたがそう命じてくれる日をずっと心待ちにしていた。今日やっとあの生意気なガキをバラせると思うと胸が躍る思いだ。なあ、お前たちもそうだろう?」

 スキンヘッドが仲間を見回すと、男たちが揃って獰猛な笑顔を見せる。どうやらエヴィス以外は皆このサイミルとやらを知っているようで、これから行う殺人に喜びいさんでいるようだった。


「これを着けろ」

 各自に皮手袋とスキーマスクが渡され、最後に受け取ったエヴィスも身につける。ナイロンのごわごわした感触が顔の肌に合わなくて少し不快に感じたが、必要なのだから仕方がない。


 男たちが車をぞろぞろと降りていく。


 エヴィスも後に続こうとした。


「待て、お前には別の役割がある」


 ベスニクがそう呼び止めると、空になった運転席のドアを開けた。


「トラクターの運転は教わっていただろう?」


「うん」村では農作業の手伝いをしながら日給を頂いていた。子供に教えながらやるよりも自分だけでやった方が早く出来ただろうが、村人たちはエヴィスに仕事を頼んでくれた。「でも車は別物だよ」


「道路を走れと言う訳じゃない。ただ俺が言う通りに少し動かせばいいだけだ」

 ベスニクはシートを目一杯まで前に出すと、強引にエヴィスの手を取って運転席に押し込めた。


 そしてリアウィンドウの手動式開閉ハンドルをぐるぐると回して窓を全開にするとドアを閉じ、身を乗り出しながら指示を出す。


「ゆっくり出せ。ゆっくりだぞ」


 言われるがままに、バンを細い路地の中で進ませる。覆面の男たちが周りを囲んで行進する。


「そうだ、それでいい。上手いぞ……よし、一旦停まれ」

 エヴィスは指示通りに車を停めた。路地の向こうからは激しいヒップホップが流れ聞こえていた。それに若い青年の声も混じっている。


「この路地を抜けた先に空き地があるんだ。そこでサイミルとその仲間が乱痴気騒ぎをやっている」ベスニクが音楽の聞こえる方を指差す。「俺が合図をしたら、空き地に真っ直ぐ突っ込んでなるべく1人でも多く轢け。混乱に乗じて俺たちも続き、奴等を片っ端から撃ち殺す」


 エヴィスはハンドルに目をやり、また伯父へ視線を戻す。「ぼくが一番最初に突っ込むのかい?」


「そうだ。車に気づいたら奴等が撃ってくるだろうから、頭を下げろ。エンジンブロックが弾を止めてくれる。この役は身体が小さいお前が一番適任だ」話しているうちに、覆面にくり貫かれた双眸そうぼうが見る見る厳しいものへと変わっていく。


 自分がそうさせていると気づいたエヴィスがドアミラーを見ると、同じ黒い覆面の中で、灰色の瞳が明らかに泳いでいるのがわかった。


「怖じ気づいているのか? 崖のような坂を馬で駆け下っていた、勇気の塊だったお前はどこへ行ったんだ」


「そうじゃない、そうじゃないよ」うわずった声で否定する。「でも、そんなに上手く出来るかなって」


「出来るさ。運転と言うのは、人を殺さないように走らせるから難しいんだ」


 ベスニクが車体を叩いた。「これは盗んだ車だから心配はするな。どうせ事が終われば燃やす。後のことは考えず、気持ちよく轢き殺してこい」 


 何を言おうと、もう無駄だった。


 エヴィスは息を整え、前を向く。ペダルに足をかけ直す。


 車を走らせる。路地を抜けた先には空き地があり、ドラム缶で火が炊かれ、ラジカセを担いだ男を中心に若者たちが歌い踊っていた。


 だが男たちは猛スピードで突っ込んでくるバンを見るや否や、素早くラジカセや酒瓶を放り出して銃を抜いた。

 咄嗟に身を低くする。直後に銃声が鳴ってフロントガラスがひび割れ、穴が空き襟首に破片が刺さってきた。車体が何かに次々ぶつかって揺れる。ガランガランとドラム缶の転がる音。やがてひときわ大きな衝撃が車内に広がった瞬間にエヴィスはハンドルから剥がされ、座席に転がった。


 頭がくらくらする。


 遠のいていく意識を辛うじて留めているのは猛烈な首の痛みだった。なおも周囲で銃声が続いている。


 弾がドアを貫通してエヴィスの眼前がんぜんを掠めた。腹の底から叫び声を上げ恐怖で小さく、小さく身を縮める。


 やがて銃声が止み、静かになった。そう時間がかかるものではなかった。勝ち負けはわからない。


 エヴィスはホルスターからR61を抜き、まだ首が痛むのを懸命に身を起こしてドアを開けた。


 銃を握り締めながらよろよろと車外に出ると、辺りはまるで野焼きをしているみたいに煙が立ち込めていた。ドラム缶の火が雑草に燃え移ったせいだ。咳き込んでしまい、首の痛みに響く。


 足下では血のついたラジカセが変わらずヒップホップを流していた。周囲からはまだ息がある者の苦しげな呻きと、それを容赦なく断ち切る銃声。


「よくやった」

 ベスニクが労いの声をかけながら近づいてくる。だが彼の目はエヴィスではなく、車の方へ注がれている。

 視線を追うと、鼻の短いボンネットに血まみれの顔をしたサイミルが血まみれの顔で突っ伏していた。車は空き地を真っ直ぐに走り抜け、向かいの建物の壁にサイミルの腹を挟み込んでいた。


「や、やりやがったな、ベスニク」サイミルは首を横に傾け、憎しみのこもった目で睨みながら血の混じった呪詛を絞り出す。覆面をしていても目の前の大男が誰だかわかったようだ。「やりやがったな!」


 ベスニクは意に返すことなく、無言で拳銃をサイミルに向ける。エヴィスが伯父の使っている銃をはっきりとの当たりにするのは、これが初めてだった。他に誰も使っているのを見たことがない銃だ。スライドの形がロシアのトカレフに少し似ているが、こちらの方が角ばっているように見える


 雷鳴じみた大きな銃声と発火炎マズルフラッシュ。サイミルの額に大きな赤いクレーターが穿たれ後頭部が火山噴火を起こし、壁とガラスに中身がぶちまけられる。この拳銃が桁外れに強力な弾丸を使っているのは明白だった。


 降りたエヴィスと入れ違いに元々運転手をしていた男が運転席に乗り込み、手際よく車をバックさせた。バンパーに潰されていたサイミルの腹は脳ミソよりも直視に絶えない状態になっていた。


 男はフロントガラスに飛び散ったが気になったのか、ワイパーを動かした。しかしこれは彼のミスで、汚れが余計に広がってしまうばかりだった。


「馬鹿、めろ!」

 ベスニクはワイパーを止めさせると、自ら手でガラスについた汚れを掻き落として地面に捨てた。そうして視界がよくなると、運転を引き受けた男は車をUターンさせて表の道路側に鼻先を向ける。


「引き上げるぞ」

 全員で車内へ飛び込む。まだ首が痛いエヴィスは重い足取りで何とか追いつき、一番最後に乗り込んだ。

 車が発進する。終わってみればそう長い時間ではなかったが、エヴィスは何時間も走らされたように息切れしていた。それに首が痛い。


 これからまた車を処分して乗り換え、交通の便が悪いアルバレシュの村へ戻るのに何時間もかかるだろう。首が痛いのを村の医者に診てもらうまで、まだまだ何時間も我慢しなくてはいけない。






 白い砂浜に並べられた空き瓶が大きな銃声と共に割れて、太陽の光に照らされながら砕け散っていく。


 ひとのない海岸に場違いなジャケットを着用したベスニクが半身で立ち、拳銃を撃っていた。


 首に頸椎けいついカラーを巻いたエヴィスは、そばに座り込んで伯父の射撃を眺めていた。


 あれから1週間。むち打ち症はまだ治らず、日課にしていた射撃の練習は反動が首に響いて出来ない。だから今はこうして手本を見せてもらっている。


 8発で8本の瓶が割れた。ベスニクが新しいマガジンに交換しているが、もう的になる瓶がない。


「村に戻ってもらってくるよ」


「いらん」

 ベスニクはまた銃を握る右手を伸ばして撃った。すると既に腹を割られ、折れて砂浜に転がっていた瓶の首が更に細かく砕かれる。


 尋常ではない射撃の腕だった。ベスニクの拳銃はとてつもない威力で、発砲するたびに轟音が鳴り響いた。

 だからこそ反動もまた強烈であることは想像に難くなく、なのにこれだけの射撃をしてみせるとは。


「伯父さんの拳銃ピストレータ、珍しいよね。他の人が使ってるのを見たことないよ」


 あの夜以来、気になっていたことを尋ねてみた。


「これか」

 ベスニクは銃を下ろし、スライドの左側に彫られたZASTAVAという文字をとんとんと叩いてみせる。


 そして次に、その下に刻まれたMADE IN YUGOSLAVIAと言う文字へと指をずらした。「ザスタバはユーゴスラビアの会社だ。銃も車も、何でも作っている。セルビア人は嫌いだが、残念ながら向こうの工業が俺たちの国より進んでるのは認めるしかない」


 ベスニクは手首を返し、今度は右側面にある10 AUTOの文字を指し示す。「こいつの口径は10ミリだ。手を出してみろ」


 エヴィスが言われた通りに手を差し出すと、ベスニクはマガジンを抜いて掌の上に弾を親指で押し出して落とした。


「お前の銃に使う弾と比べてどうだ?」

「全然違う」

 単に弾頭が大きく重いだけではない。薬莢も長く、火薬がたっぷりと詰まってそうだ。あの破壊力もこの銃声も全てに落ちる。


「持ってみろ」

 ザスタバの10mmオートマチックを渡されたエヴィスはグリップを握り、誰もいない方へと向けて構えてみた。


 しかしほどなく眉をひそめ、伯父に差し戻してしまった。「残念だけど、ぼくには分厚くて握りにくい。ずっと持ってたら手が痛くなりそう」


「グリップパネルを厚く作った特注品に張り替えたから、お前には少し辛いかもしれない」銃を受け取ったベスニクが用心鉄トリガーガードを指差す。「ここも窮屈だったから広くしてある。全て俺の手に合わせたんだ」


 確かに、よく見ると用心鉄トリガーガードの色が銃のフレームと微妙に違っていた。元々あったのを切り落とし、より大きな物を溶接し直したのだ。


 宣誓処女ブルネシャになった日から男に混ざって力仕事をする機会が増えたエヴィスは、大男で腕力もあるベスニクを羨ましく思っていた。

 だがここまでの偉丈夫ともなると、常人にはわからない不都合もあるのだろう。


「ありがとう、伯父さん」

 エヴィスが手の中にあった弾を返すとベスニクは弾をマガジンに戻してグリップに差し込み、銃を1度戻してからまた半分だけ起こした状態ハーフコックにしてホルスターにしまう。


 伯父の所作をエヴィスは少し不安げな面持ちで見つめる。口に出さなかったが、見学している間に1つだけこの銃のある特徴を捉えていた。トカレフと同じで、安全装置が一切ないことだ。


 そしてベスニクは普段から薬室に弾を入れたまま、ハーフコックで懐に呑んでいる。これは気休め程度の安全対策でしかなく、少なくともエヴィスには真似をする勇気はなかった。


 自分は寸分の過ちもなく機械のような身のこなしが出来るという自信があるのか、あるいは死を恐れてはいないのか――いかなる存念でこんな危なっかしいことをしているのかは、自分の伯父ながらその横顔から伺い知ることは出来なかった。


「少し休むか」

 ベスニクに促され、休憩用に設置した大きなパラソルの陰にある2つのビーチチェアにそれぞれ横たわった。


 傍らにはラジオが置かれ、先程からニュースをずっと流している。

 エヴィスはこちらに来てから、暇があればラジオを聴くか新聞を読むかするようにしていた。イタリア語を覚えるためだ。


「相変わらずテロのことばかり言ってるね」


「あれほどの事件だからな」


「ぼくたちが殺した連中のことは、地元の新聞に小さく書かれているだけだったよ」


「密入国者の与太者が殺されるなど、南イタリアでは珍しいことじゃない。俺たちも返り討ちにされていたら、そうなっていただろう」


「……なら」エヴィスは身を起こして伯父を見る。「サイミルを殺した理由、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか? あの夜にぼくも命を賭けた1人なんだ。せめてその理由を知りたいよ」


「そうだな」

 ベスニクがラジオを手に取ってダイヤルを回すと、ニュースは雑音の彼方に消えていく。


「あの日、あの時点ではまだ公式な発表はなされていなかったが、テロの黒幕がウサマ・ビン・ラディンであることは既に漏れ聞こえていた。これは何もスパイの世界の話をしている訳ではない。学者でもブン屋でも、中東事情に少し詳しい人間なら誰もが事件直後から奴の名前を上げていた」


 やがてラジオが陽気なカラブリア民謡を歌い出すと、ベスニクは傍らに置いて煙草に火を点けた。


「奴が匿われているアフガニスタンは少し前まで世界最大のケシの生産地でもあった。イスラム聖戦士ムジャヒディンはケシを育て、アヘンと物々交換して得た武器で戦争の支度をする。そして売られたアヘンはまず一旦トルコに集まる」


「どうしてトルコに?」


「トルコもかつてはアヘンの一大生産地だったからだ。今ではケシの栽培が厳しく取り締まられるようになってしまって久しいが、アヘンをヘロインに精製する職人の技術はまだ生きている」


「ヘロイン……」

 エヴィスはかすかな声で呟いて、眼差しを遠い水平線へと投げかけた。


「精製されたヘロインはトルコからバルカン半島に持ち込まれ、そこから西を目指して運ばれる。この事業ではかつてセルビア人の組織が一番強かった。奴等の手で大量のヘロインがユーゴスラビアを通過してオーストリアに行き、それを西側各国の組織が買いつけて、最後は誰かの血管に辿り着くと言う訳さ」


「でもユーゴスラビアは」エヴィスは視線を海から伯父に戻して言った。「もうオーストリアに繋がってないよ」


「賢いな。お前の言う通り、かの人工国家は傲慢なセルビア人ミロシェビッチの不徳からバラバラに分裂し、戦火に見舞われた。おかげでアルバニアから海路でイタリアに持ち込むルートが代わりに注目を浴びるようになり、俺たちはセルビア人からヘロイン市場のシェアを大いに奪ってやったんだ」

 ベスニクはさながら大きなビジネスを成功させた実業家のような口振りで言った。


「しかしここで、別の問題が発生した。アフガニスタンを平定したタリバンは人民に凧揚げさえも許さない禁欲主義者で、去年いきなりケシの栽培を禁じてしまったんだ。奴等もかつてはケシで武器を買っていたと言うのにな」


 そこまで話してから、ベスニクは不意に煙草の煙と共に皮肉めいた笑いを漏らす。「まあ、これは建前だ。実際は当のタリバンと、少しでも事情を知っていた人間はみな乾燥させたアヘンを貯め込んでいた。市場に出る量が少なくなれば相場も上がるからな」


「伯父さんも知っていたの?」


「今年は高く売れたよ」


 知っていたかどうかの問いにベスニクは答えず、ただ結果だけを言った。


「だが今度の戦争でタリバンがアメリカに粉砕されたら、それも終わりだ。タリバンがいなくなれば、またアフガン人は自由にケシを育てられるようになる。いやタリバンでさえ、アメリカ相手にゲリラ戦を続けるつもりならケシ畑を再開するしかない。あの国にはアヘンしか売れるものがないんだ」


 とん、とベスニクが口から離した煙草を指で叩いて灰を落とす。


「そうなると俺たちがやるべきことは2つ。1つは値崩れが起きる前になるべく多く売り上げることと、きたる薄利多売の時代に合わせて、より太いルートを築くことだ。ここでようやくサイミルの話に入れるな」


「あいつは結局、何者だったんだい?」


「あのチンピラは4年前の大暴動のときに出来たヴロラの愚連隊のリーダーで、奴もアドリア海を跨ぐヘロインの密輸を仕切っていた。時間が経ちテロの裏側が知れ渡れば、サイミルも俺たちが互いに同じ宝の山を奪い合う仲だと気づいただろう。そうなれば奴も警戒するし、あるいは向こうから先に仕掛けて来たかもしれない」

 ベスニクがじっと目を覗き込んでくる。「だからあの夜のうちに集められる銃と人手だけで、殺すことにした」


 全てを話し終えたベスニクは、無言で海の方を向いた。後は陽気なイタリア男が歌う民謡と、波の音だけがずっと聞こえていた。

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