Vol.2
2001.09-2001.10
第五章 9月11日
エヴィスは窓から射し込む日光に起こされて瞼を開いた。ベッドから立ち上がり、窓の外の深緑を眺める。
この家は漁師の親方であるパオロ・アルバネーゼの邸宅だった。漁村は海岸沿いに家が建ち並び、陸は森に囲まれている。
身支度を済ませて廊下へ出ると、目の前をちょうど車椅子の老婆が横切るところだった。90歳になるパオロの老母だ。
エヴィスは駆け寄って車椅子の手押しハンドルを握る。「連れていってあげる」
「ありがとね」
そのままテーブルのある部屋まで車椅子を押し、椅子のない席の前に老婆を着かせてから、自分もいつもの指定席に座る。
食卓には既にパオロがいた。60代後半の、アラブ人と見紛うくらい色黒でがっしりとしている男だ。いかにも漁師と言った風貌で、同じ老人でもアリ先生とはだいぶ印象が異なる。
朝食をいただく。ここに来てからの食事はいつも美味しかった。彼の太った妻はとても料理上手で、どれもこれも初めて食べるエヴィスにはとんでもないご馳走のように感じられた。
アルバレシュの先祖である中世アルバニア人の伝統料理と、カラブリア風のイタリア料理が混淆しているらしい。
昼下がりに、エヴィスはパオロと共に家を出た。
ベスニクは今日この村へ来ることになっていて、先程村の真ん中にあるアルバニアの大英雄スカンデルベグの胸像を飾っている広場に車を停めたと電話があったそうだ。
「ドン・パオロ。伯父さんの迎えなら、ぼくだけで大丈夫ですよ」
「道に迷ったりしないか心配でな。わしにはベスニクからお前さんを預かった責任がある」
「ありがとうございます。でも皆さんがぼくのために無理をしているのではないか心配です」
一家は元々、雨の日以外バルコニーで海を見ながら食事をしていた。だが海を見たくなかったエヴィスが自室で1人食べたいと申し出ると、その日から一家は天気にかかわりなく全員屋内で食事をするようになった。
「気にすることはないさ。わしこそ、お前さんが上手く話を合わせてくれて感謝している。女房とお袋にはあの
パオロは妻と母に、エヴィスは渡航するときに船が揺れて海に落ちたのがトラウマなんだと説明していた。
彼女たちはパオロが漁師の仕事だけをしている訳ではないと知っているが、人身売買に関与していることだけは教えられていない。
「穢らわしい、とまで言うなら」エヴィスは言いかけてから、これは非礼ではないかと言葉を詰まらせた。
しかし少し考えて、一度言いかけたことは最後まで言おうと思い直して続ける。「何故あの仕事を続けているのですか?」
「最初はお前さんたちから密造煙草を買い取り、またお前さんたちにレコードや映画のフィルムを売ってやるだけだった。それとたまに、共産主義にうんざりした亡命者を乗せてやったこともあったな。その船賃でわしは子供たちを大学にやって、あの家は年寄りばかりとなってしまったと言う訳さ」
パオロは懐かしげに青い海へ目をやった。
この村はカラブリア州でも南東部の海岸線、長靴の靴底にある「土踏まず」に位置し、アドリア海の南にあるイオニア海に面している。
彼が冷戦時代からこの2つの海で密貿易を仕切っていて、
「だが、それで稼げる時代はもう遠くなってしまった。今はより金になる積み荷を引き受けなければ、船を動かすオイル代にもならんのだ」
「しかしもうご子息方が独立して職を得ておられるなら、これからは無理をしてお金を求めずともよろしいのではないですか」
「わしはそれでもいい。だが村にはまだ育ち盛りの子供を抱えている漁師がたくさんいる。何より彼等は贅沢を覚えてしまったんだ。もう魚を捕るだけの生活に戻ることは出来ないさ」
パオロは力なく笑い、それからまた無言で歩いた。
広場に辿り着くと、エヴィスは辺りを見回した。胸像を中心にいくつかの露店が開かれた市場になっていて、そこから少し距離を取った片隅のところにメルセデス・ベンツのセダンが停車しているのを見つける。
運転席のアフメドが、こちらに気づくと降りて後部座席のドアを開ける。
サングラスをかけたベスニクがゆっくりと降り立った。灰色の背広を着ているがネクタイは締めていない。
「久しぶりだ、ドン・パオロ。またあんたの顔を見れて嬉しいよ」
「お前さんは前に会ったときより、随分と髪が白くなったな」
「俺も50を過ぎてしまった。エヴィスはどうだ、そちらに迷惑をかけていないか?」
「真面目に家の手伝いをしてくれるいい子さ。わしの息子たちよりもずっとな」
「それはよかった」ベスニクはエヴィスの方を向いた。「元気そうだな」
「……うん、ぼくはとても元気さ」
エヴィスは眩しげに太陽を見上げながら言った。
「ルーレは元気にしてるかい?」
「ああ。元気すぎて近所の奥さん方には手を焼かせっぱなしさ」
ようやくルーレの状況を知ることが出来てエヴィスは安堵した。こちらに着いてからずっとルーレに電話をしたいと願っていたが、イタリアから自宅に電話をするのは危険だと言われて諦めていた。
西側の捜査機関に通話記録を目ざとく見つけられたら、故郷にもパオロたちにも迷惑がかかる。
皆でパオロの家に戻ると、女たちはリビングでテレビにかぶりついていた。パオロの妻がこちらに気づくと「あら、ごめんなさいね」と言って台所に立つ。
ブラウン管の中に映っていたのは、アルバニアの都会と呼ばれるどんな街よりもずっと高いビルが建ち並ぶ大都市だった。
その中でもひときわ高さを誇る、鏡写しのようにそっくりな双子の摩天楼の片方から
「火事ですか?」
エヴィスは老婆に尋ねる。
「ただの火事じゃないよ。ニューヨークにある一番大きなビルにね、飛行機がぶつかったのさ」
そんな大事故があったのかと驚きながら、テレビに視線を戻す。
画面の端に何かが映った。
エヴィスがその何かを飛行機だと認識する頃には、幻のように現れた機影は無傷だったもう片方のタワーの中腹へと吸い込まれてオレンジ色の爆発を引き起こす。
しかしそれもまた刹那のことで、すぐに灰色が炎を下から上に染め上げて、隣のビルと同じように煙を吐くようになった。
「ああ、何てことだい……」
老婆は嘆きの声を上げ、しわしわの手で正教式の十字を
テレビの中ではイタリアのニュースキャスターが狼狽えを隠せない声音で捲し立てている。早口で必死に状況説明をしているようだ。
「事故ではなさそうだな」
ベスニクは少し考え込むような仕草を見せると、ポケットから携帯電話を抜いて外に出た。
エヴィスはテレビの前から動けなかった。恐らく見ていても絶望しかないだろうとわかっていても、目が釘付けになって離れなかった。
天を突くほどの高層ビルにまで水を届かせるポンプなどあるはずもなく、火災が消される様子は一向になかった。
煙が酷すぎてヘリコプターで接近することさえかなわず、時折人の形をした小さな影がビルから落ちていくのを見送ることしか出来ない。
いつまでも状況が好転することのないまま、更にこの2軒のビルとは別の建物にも飛行機が突っ込んだという報道も挟まれた。
そしてイタリアの空が赤く染まった頃、ニューヨークの青空に死の
全てが悪夢を見ているかのようだった。故郷の高地も死がありふれていたが、何百人か何千人かの命が2時間にも満たないうちに奪われるそれは全く異質なものだ。
エヴィスはその場に呆然と立ち尽くしていた。しかし不意に肩に手を乗せられて我に返る。
振り返るまでもなく、それが自らの伯父の手であることはわかった。
「出る支度をしろ。仕事だ」
その言葉と共に遠いニューヨークの惨状へと連れてかれていた魂が引き戻され、代わりに左脇の下に吊られた卑近な死が重みを持つ。灰色の瞳が微かに憂いを帯びたが、背後の伯父に見咎められることはなかった。
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