第四章 月下の舟

 エヴィスは湿っぽくうっとうしい海風に黒髪を撫でられながら、真夜中の小さな桟橋の上に佇んでいた。


 生まれて初めて見る海は、陽の射し込まぬ黒い海水がどこまでも広がっていた。


 油のように黒い波が寄せては返し、意志を持って自分を引きずり込もうとしている死霊のようにも見えて妙な不安を掻き立てられる。


 桟橋の先には極秘裏に渡航してきた漁船が既に停泊していて、アルバニア語には違いないのだろうが、エヴィスたち山人の方言とも、南の方言ともまた少し違った言葉で何かを喋っているのが聞こえてくる。あれがアルバレシュ語だろうか。


 ベスニクが言うところによると、この船で白い肉を密輸するらしく、エヴィスは同乗して仕事を手伝いながらイタリアに渡ることになっている。


 このヴロラという港町から対岸、長靴型の半島のかかと部分にあるプーリア州南部のレッチェを目指すのがイタリア行きの最短コースらしい。


「まだ浮かない顔をしているな」

 隣にやってきたベスニクが長身を折り曲げて、顔を覗き込みながら言った。


「ルーレには話したんだろう?」


「うん」


「あいつは泣いていたか? それとも怒っていたか?」


 エヴィスはそれに答えようとしたが、口を開けただけで声が出ない。

 昨夜のやり取りを思い出すとまた涙が溢れそうで、顔を伏せて耐える。


「そうか」

 ベスニクはそれ以上、何も聞いてこなかった。


 ヘッドライトから光を放つ車が港に入ってきた。ベスニクの下で働いているコソボ生まれのアフメドと言う男が駆け寄り、手を振って桟橋の前に誘導する。


 肉を運ぶならてっきり冷凍車に乗ってくるかと思っていたが、それはただのバンだった。


 バンを停めて降りてきた運転手は、後部座席のスライドドアを開いて「降りろ!」と車内に向かって怒鳴り、腕を突っ込んで引きずり出す。


 若い女だ。


 アルバニア人とは少し顔つきの違う、明るい髪色で肌の白い女たち。腕を引っ張られながら痛みを訴えているように見えるが、その言葉はエヴィスの知らない言語だった。


 運転手はその女を突き飛ばすように船乗りたちの方へ押しやり、また別の女を次々と車から降ろしていく。


 明らかに定員オーバーで、余程ぎゅうぎゅうに詰めて乗せられていたのであろう女たちは例外なく顔色が悪い。

 だが運転手も船乗りたちも気に留めず、乱暴な声音で女たちを急かすばかりだ。


「どえらい数だな。これで全部かい?」

 船長らしき中年の男が、漁船から降りてきてベスニクに話しかける。


「いや、まだまだ来る。今夜はゴムボートで運びきれないから、お前たちを呼んだんだ」


「そうかい。しかしよ……本当に今からイタリアへ引き返せってのかい? こんな満月の夜じゃ危なっかしいぜ」


「そのことはもう何度も話し合ったはずだ。今夜は雲が厚い、何とかなる」


「だといいがな」

 船長は気が進まない様子で船に戻っていった。


 その頃合いを見計らって、エヴィスは「ねえ、伯父さん」と声をかける。


「あの女の人たちは誰なの?」


「ずっとずっと北東、かつてソビエト連邦と呼ばれた地の国々から集めてきた女どもだ」


「今回の仕事は、肉を運ぶことだって言ってたけど……」


「白い肉と言ったろう? お前が言っているのは赤い肉だ」


 喋っているうちに2台目の車がやってきて、ベスニクは一度言葉を切った。


 アフメドが新たな車に駆け寄って誘導する。ベスニクは何を考えているのか伺わせない虚無の瞳でそれを見届けてから、また話を続ける。


「だが、本質は赤い肉と変わらない。食いやすく加工して、客の前に出すのは同じこと。それを得意としている奴が俺の下にも、ダーダンの下にも他の組織にもいて、そいつらの間で互いに女を売り買いしているんだ」


「……何だかよくわからないけど、かわいそう」


「そうだな。だが俺たちは岩山の上に作物を植えなければ生きていけないんだ。わかるな?」


「……うん」


「なら、お前はもう船に乗れ。向こうに着いたらアフメドの指示に従って、“肉”を指定の場所まで運ぶのを手伝え。奴は有能な男だ」


「わかった」

 エヴィスは伯父に背を向けて、漁船の方へ歩いていく。


「それからもうひとつ」背後から声をかけられる。「アルバレシュの村に着いたら、まず海に目をやるといい。とても海が美しい場所なんだ。きっとお前も気に入るさ」


「そうするよ、ありがとう」

 タラップに足を乗せる。振り返りはしなかった。





 

 甲板の上で女たちが所狭しとひしめき合う小さな漁船が出港し、いくらかの時間が経った。ヴロラのあかりはもう既に遠い。


「もう少し速くならないのか」

 エヴィスと共に船に乗ったアフメドは、船脚に不満があるようだった。


「あんたのボスが欲張ったせいで、船が重てえ。これ以上は無理だね!」

 かじを取る船長は、せせら笑いで応じた。


 初めて海に出るエヴィスには、これが遅いのかどうかもわからない。


「ねえ」


 不意に隣の女がアルバニア語、それもエヴィスにとって馴染み深い北の方言で声をかけてきた。


「アルバニア人でしょ、あなた。それも北の人。あたしもアルバニア人だからすぐにわかった。話し相手になってくれない? 他の子は外国人だから、言葉が通じなくて」


「きみも、北部の生まれなのかい?」

 そう聞き返してみた。北の方言を話してはいるが、山の育ちではなさそうだと思った。山人なら宣誓処女ブルネシャを知らないはずがない。


「ううん、あたしはティラナ生まれよ。でも恋人が北部人で、そっちの言葉を教えてもらったの。あいつのことはもう嫌いだけど、この言葉は好き。歌ってるみたいな発音が本当に素敵だもの」


 月を隠していた雲が風に流れされて、光が女の微笑みと亜麻色の髪を照らし出した。


 歳は18か19といった頃合いで、血色は悪く少しやつれているように見えたが、目は星を宿したような輝きを放っていた。


「あら、あなた男の格好をさせられてるの?」月光はエヴィスの姿もまたあらわにする。「それともあいつら、男の子にも客を取らせてるってわけ?」


 エヴィスは言っていることの意味をよく理解できずに口ごもってた。

 すると女は沈黙の意味するところを誤解したのか、「ごめん、どっちにしてもそんなこと話したくないよね。嫌なこと聞いちゃった」と謝って話題を変えた。


「あたしの名前はマルセラ。あなたの名前は?」


「エヴィス」

 素直に名乗ってしまってから口を手で押さえたが、もう遅かった。


 村でははっきりと己の身分姓名を名乗りなさいとしつけられてきたが、都会に来てからベスニクによく知らない相手には迂闊に本名を教えるなと言いつけられた。だが一度身につけたことを後から変えるには時間がかかる。


「へえ、エヴィスか……うん、いい名前じゃない」

 マルセラは少しだけ肩透かしを食らったような表情を見せたが、すぐに笑って誉めてくれた。


 彼女はもしかしたら名前を聞けば性別がわかるかもしれないと思ったのかもしれない。しかし残念ながらEVISエヴィスはアルバニア人には数少ない両性名だった。


「エヴィスはどこから来たの? シュコドラならあたしも行ったことあるわ」

 アルバニアでも有数の、そして北部ではほぼ唯一と言える都市の名前が挙がる。しかしエヴィスは行ったことがない。


「……いや、もっと北だよ。山しかないところさ」

 少しためらったが、今更黙っていても仕方がないと思って答えた。


 それからもマルセラは好きな食べ物の話とか、いくつかの話を振ってくれた。

 だがエヴィスはどうにも口下手で会話を膨らませるのが得意ではなく、どれもこれも一言二言返しただけであっと言う間に話が終わってしまう。


 やがて話題が尽きてくると、会話の合間合間の沈黙が次第に長くなっていく。エヴィスは自分からも何か話してみようと思ったがすぐには思い浮かばず、これまでのマルセラの言葉をひとつひとつ噛み砕きながら思案を巡らせる。


 そしてその中から何となく疑問に思ったことを拾い上げて口にした。


「どうして自分の恋人が嫌いなの?」

「つまんない話よ」

 マルセラは少しふてくされたような表情になったのを見て、聞いてはいけないことを聞いてしまったと気づく。


「ごめん、不愉快にするつもりはなかった」


「なら何故、そんなことを聞いたの?」


「だって、恋人って大切な人のことだから。それなのに嫌いなのはどうしてかなって」


「そう……あなたは恋を、本当に何も知らないうちから奴等の手に落ちてしまったのね」

 マルセラは何かを理解したようだった。


 その理解にはどこか齟齬そごが生じているのをエヴィスは感じ取ったが、同時に芯の部分にある本質は不思議とそう大きくずれてはいないような気もした。


「いいわ、話してあげる。でも本当に面白いことなんか何ひとつないのよ」

 息を軽く吸い込んだマルセラが、意を決して語り出す。


「あいつとは8年生のときに知り合って付き合い始めたの。あたしより2つ年上の、歌もダンスも上手くて、いつもアメリカのラッパーみたいな服を着てる男よ。それに、右手に彫ってたタイムマシーンの刺青タトゥーがとてもセクシーだったわ」


「タイムマシーン?」

 

「知らないかしら。電線が繋がれた、機械の椅子でね。あたしも最初はわからなかったから聞いてみたら、これは座った人を未来へ連れてってくれるタイムマシーンだって教えてくれたの」


 マルセラは指で手の甲をなぞりながら、彼女が見たという絵をどうにか説明しようとしてくれた。


 だがやはり言葉だけでは、それを伝えるのは難しいようだった。


「まあ今にして思えばどこにでもいるチンピラだったけど、あの頃のあたしにはとても垢抜けて見えたのよ。タトゥーなんか初めて見たしね」

 マルセラは苦笑しながら、脱線した話題を元へと戻す。


「あいつはこんな、どいつもこいつも辛気臭い顔をした国が嫌いだって打ち明けてくれた。そしてあたしが8年生を修めたら、一緒にギリシャへ駆け落ちしようって約束をしたの」

 話を聞きながら、エヴィスは亡き両親のまだ村の学校が機能していた時代の思い出話から得た知識を反芻はんすうする。


 8年生までがアルバニアの義務教育で、それから大半の子供たちは働き始め、高等教育に進むほんの一握りの子たちと道を別つのが大人への第一歩だったそうだ。


「でもギリシャに来たらあっさりと裏切られた。あいつに新居だと言って連れていかれたアテネの古いアパートメントで、あいつの知り合いだって言う男たちにいきなり服を脱がされて、犯された」


 エヴィスの胸に慟哭どうこくが走った。


 強姦はとても卑劣で残酷で冒涜的な罪であると、アリ先生は伝え方を苦慮されながらも教えてくださった。コソボの地で起きた戦争で、それがたくさん行われたという話と共に。


「あたしはあいつ以外とそんなことをするなんて嫌だったから必死に抵抗した。でも、あいつはそんなあたしを見下ろしながら……笑っていたのよ」

 マルセラが視線を上げ、恨みがましい眼差しを遠くに向けて投げる。


 彼女の目には、ここにはいない自分を裏切った恋人が見えているのかもしれない。


「それからはヘロインを打たれて閉じ込められ、毎日犯されて殴られながら娼婦になれと言われ続けた。最初は言いなりになんてなるもんかって意地張ったけど、禁断症状が出ると耐えられなくなった」

 顔色がますます悪くなっていったマルセラは、とうとう手で両目を覆い隠して俯いた。


「道に立たされたり客のいるホテルに出向かされたりしているとき、いつも逃げてしまおうか迷ってた。でもパスポートはあいつに騙し取られてしまったし、奴等はあたしたちが警察に駆け込んだら、見せしめに故郷の家族を殺すと言っていたから行動に移せなかった」


 そこまで話したところで、唇を自嘲の微笑みで歪ませる。「いいえ、そんなのは言い訳ね。逃げ出せなかった一番の理由はヘロインが切れたときのあの地獄みたいな苦しみを味わって、立ち向かう覚悟がすっかりなくなってしまったのよ。あたしって本当にダメ」

 拭うように手から顔をゆっくりと上げたマルセラは笑っていた。


「状況が変わったのは昨日のことよ。いきなり部屋から連れ出されて、知らない女の子たちと一緒に車へ乗せられた。お前たちはパリやロンドンでもっと金のある客を相手するんだ、光栄に思えって恩着せがましく言ってきたわ」


 マルセラは心底馬鹿馬鹿しいと言った様子で吐き捨てる。「だから何だってのさ。金はどうせ全部ポン引きの懐に入って、あたしたちは何も変わらない。今まで通り家畜のような暮らしをさせられるって言うのに」


 そうしているうちにマルセラはまた何かを思い出して身を震わせ、目に怒りと憎悪の炎を灯す。

 

「あたしと一番仲のよかった子は、客からもらったチップでこっそり買い食いをしていたの。ポン引きどもは口癖のように太るな、客がつかなくなると言って酷く粗末な食事しか出さなかった。彼女はそれが耐えられなかったのよ。でもある日、チップを正直に差し出してなかったことがバレて……」彼女はこれまで自分がされてきた、どんな酷い仕打ちを語るときよりも強く怒っていた。「腕を切り落とされたの」


 懸命に耳を傾けていたエヴィスは、ついに耐えられなくなって涙を流した。


 数々のグロテスクな行為は、これが地獄の底かと思ったらまだその下に続いていて、どこまでも救いがたい。

 ベスニクが言ったということの意味を、ようやく理解してしまった。


 知らなければよかった。知りたくもなかった。

  

「優しいのね、あなたは」エヴィスの目尻からマルセラの指が涙を拭う。


 違う、そうじゃない。自分は奴等の仲間なんだといっそ打ち明けてしまいたかった。

 だが今夜限りの、恐らく二度と会うことはないであろう友達の心の中で、ずっと友達のままでいたいと思う気持ちが言葉を喉の奥に押し留めた。


「少し話し過ぎたわ。ねえ、あれを見て! 月が綺麗よ」

 まだ涙の滲む目で、マルセラの指差す方を見る。


 満月がアドリア海を照らし、月光が黒い海に一筋の白い輝きの帯を煌めかせていた。


「海の上に道があるみたい」マルセラの感想は、エヴィスが抱いた印象と同じものだった。「あの道を渡っていって、そのまま月まで行ってしまいたい」


 哀しい囁きだった。


 マルセラはもう、なめらかな海面と沈みゆく月が織り成す幻の先にしか希望を見出だせないのだ。


 その幻もすぐに見えなくなった。


 もっと強い光が、甲板を昼間のように明るく照らしたから。


 その光は月の方角から射しているわけではなかった。

 エヴィスが反対側を振り返ると正体はすぐわかった。漁船から少し離れたところにいる大きな船が、サーチライトでこちらを照らしている。


 大きな船から、スピーカー越しの叫び声が聞こえる。イタリア語だ。何を言っているかはわからなかったが、それがイタリア語であることはわかる。ラジオをつければ、海の向こうにあるイタリアの放送局から届いてくる馴染み深い言葉だった。


「くそったれ、だから月夜に船を出すのは嫌だったんだ!」船長は海をも震わすほど大きな声で怒鳴った。「こうなっちゃ仕方ねえ。おめえら、船を軽くしろ!」


 船長の号令と共に漁師たちは近場にいる女を抱え上げて立ち上がった。


 大きな水飛沫の音。一番手に投げ込まれた女は訳もわからないまま、悲鳴さえなかった。最初の悲鳴は、己の運命を悟った他の女たちから上がった。


 たちまち目の前が地獄絵図に変わった。漁師たちが暴れる女を次々に海へ投じる。至るところで水飛沫が上がった。漁師たちはこうした事態に慣れているようで、アフメドだけが苦々しい顔をしている。だがそれも任された仕事にケチがついてしまったからに過ぎず、すぐに彼も頭を切り替えて銃を抜き、手近な女を脅して海に追い込もうとする。


「やめて! わたし、泳げない、泳げない!」

 片言のアルバニア語で叫ぶ声がした。そちらを見ると、海に落とされたと思った女の1人が船のへりにしがみついていた。


「降りろ!」

 漁師が女の顔を殴った。頭も殴った。女の顔が血まみれになる。しかしそれでも手を離さず「泳げない!」と叫び続ける。

 次第に殴っている漁師も恐慌状態パニックになり、悲鳴にも似た金切り声を上げながら滅多打ちにしていた。


「エヴィス!」

 名を呼ばれながらぐいっと引き寄せられ、頬を手で挟まれながら顔をそちらに向けさせられたことでようやく凄惨な光景から目を離せた。目の前にはマルセラの顔があった。


「何をぼさっとしてるの、こっちにおいで!」

 そのまま船室に引っ張りこまれる。そこには既に大勢の女たちが詰めかけていた。


「とにかく奥へ行くのよ! あいつらだってあたしたち全員を殺したら商売にならない、この船が逃げ切るまでしがみついてれば助かる!」


 マルセラと一緒に女たちの群れの中へ飛び込む。皆が少しでも奥へ奥へ潜り込もうと、押し出し合い引っ張り合って他の女を後ろに追いやろうとしていた。身体の小さいエヴィスは肘で顔を打たれ、爪で引っ掻かれ、力で押し負ける。


「エヴィス!」マルセラが他の女たちを押し退け、奥に引っ張ってくれる。「安心して、あんただけでも守るから!」

 マルセラが背後から覆い被さった。


 後ろの女たちはどんどん連れていかれ、甲板から大きな水音がひっきりなしに響く。騒ぎはどんどん近くなり、やがては右隣にいた女も連れていかれて息を飲む。もうそこまで奴等は来ていた。

 そしてついに誰かがマルセラの痩身そうしんを掴んで引き剥がし、エヴィスは自分を包み守っていたなけなしの重みと温かみが離れて外気に背が晒されたのを知覚した瞬間に飛び上がり手を伸ばす。マルセラを助けなくてはならないと思った。


 だが男はマルセラをさっさと脇に放ると、エヴィスの襟首を掴んで群れの中から引きずり出す。


 そのとき初めて、暗い海に投げ込まれる恐怖が実体を伴ってやってきた。腹の底から叫んだ。手足をばたばたと振るった。何の意味もなかった。


「その子を離して!」

 マルセラがエヴィスを取り返そうとしがみつく。だが男に容赦なく蹴飛ばされて倒れる。それを見たエヴィスはもう自分を救う者はいない、このまま海に放り込まれるのだと絶望した。


 しかし海に運ばれることなく、いきなり足下の床に叩きつけられる衝撃がエヴィスの身体に響き渡った。


「何を遊んでいるんだ、お前も手伝え!」

 頭上から怒鳴り声が降ってきた。


 視線を上げると、アフメドが恐ろしい顔でこちらを見下ろしている。


「それともこいつはオモチャなのか、ええ!?」

 アフメドにジャケットをめくり上げられ、左腋に吊ったR61のホルスターを叩かれる。そうされるまで自分が銃を持っていたことすら忘れてしまっていた。


 夢から覚めたように恐怖がすうっと引いてゆく。だが今まで心を埋め尽くしていた感情が急に消えたところで正気を取り戻すでもなく、尻餅をついたまま呆けてしまう。


 アフメドは役に立ちそうもないエヴィスを離すと、「そこにいるお前ら、全員外に出ろ! 出ないと撃ち殺すぞ!」と目についた女たちを数人まとめて自分の銃で脅し、お手本のように手際よく甲板へと追い立てていった。


「エヴィス」

 冷ややかな声で呼ばれた。


 ゆっくりとそちらを振り向くと、マルセラが鋭い眼差しで睨んでいた。


「あんたも奴等の仲間だったのね。あたしに同情するふりをして、心の中では笑っていたんでしょう!」


「マルセラ、それは違う」


「何も違わないわ! この嘘つき!」

 ずっと強い輝きを放ってきたマルセラの瞳から、せきを切ったように涙が溢れてこぼれる。

 たくさん踏みにじられながらもどこかにまだ強さを残し続けてきたマルセラの心を、最後の最後に誰が壊してしまったのかは明白だった。


「……いいわ、もう疲れた」マルセラの声音には、もう何もかもがどうでもいいという響きがあった。「あたしのことも海に投げたらいいわ、あんたの手で!」


 マルセラからの、はっきりとした訣別けつべつだった。

 エヴィスがそれに返答することは出来なかった。突如として闇から伸びた船乗りの毛深く筋肉質な腕が、背後からマルセラの首に回された。もう抗う気力も尽き果てた彼女はあっさりと連れ出され、エヴィスの前から消えた。


「マルセラ!」

 エヴィスはまだ痛む身体で、芋虫のように床を這って後を追う。

 毛羽立けばだった床板のに頬や掌をちくちくと刺さながら甲板に出ると、そこにはもう男の姿しかなく、あれほど大勢いた女たちは1人も残っていなかった。


 よろめきながらも掴まり立ちをして、身を乗り出し海面を見る。マルセラの姿はない。すっかり軽くなった漁船は、先程とは比べ物にならない速さで海上を進んでいた。


 遥か遠くに巡視艇が見えた。距離が空いたのは、船が軽くなったからだけではない。巡視艇はサーチライトを漁船から外し、海面を照らしている。


 こちらが女たちを海に投げ込むのを見て、イタリアの沿岸警備隊は不審船の拿捕よりも人命救助を優先する決断を下したのだろう。


 だが、先程あの巨大な戦艦のように見えた巡視艇が、落ち着いてよく観察するとせいぜい中型程度の船であることに気づいた。


 乗員の数もそれほど多くはなさそうで、あれでは海に投げ込まれた女たち全員を助けるのは難しいと思った。


 エヴィスは全身の力が抜けてしまい、すっかり広くなってしまった甲板に座り込んだ。漁師たちの歓喜と巡視艇に向けた嘲笑が、酷く耳障りだった。






 本来の目的地であるレッチェ近郊の海岸はイタリアの警察が張っている可能性があるとして、長靴の爪先にあたるカラブリア州の漁師たちが住む村に直接入港することになった。


 エヴィスは船室に戻り、あれからずっと生き残った僅かな女たちから少し距離を置いた場所でうずくまっていた。


 彼女たちの目には、敵意と怯えがあった。エヴィスはなるべくそちらを見ないようにしながら、口をぽかんと開けたまま虚空を見つめている。


「出ろ、着いたぞ」

 どれほど時間が経ったのか、甲板から船長の声がした。


 ゆっくりと腰を上げて船倉から上がると外は眩しくて、目が慣れるまでしばらくかかった。


 徐々にあおのうが溶けて液体になったかのような大海原おおうなばらが、視界いっぱいに浮かび上がってきた。

 首を左右に傾けると、片方に目をやれば白い砂浜が、もう片方には果てなき水平線が広がっている。


 そのとき頭上を何かが通りすぎていって、エヴィスは反射的に空を見上げた。


 大きなカモメが鳴きながら、青空の彼方へ飛んでいくところだった。


 燦々さんさんと注ぐ太陽の光と今は心地よく感じる海風を肌に感じながら、エヴィスは伯父が嘘をついていなかったことを知った。


 この海は本当に美しい。きっと世界一美しい場所に違いない。


 だがそれでも――自分が海を好きになることは、生涯ないだろう。

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