第三章 閉じられた柩

 雨が降っていた。


 山の雨と違い、どこか生温かく感じる雨だ。


 黄色のレインコートを着たエヴィスがホテルの前まで漕いだ自転車を停めると、今日もホテル前に屯する悪童たちに近づく。


 すると最年長らしき一番背の高い少年から、一番正面玄関に近く、雨を避けるひさしがある位置を譲られる。


 他の少年たちは戸惑った様子だった。悪童たちには悪童たちの社会が存在し、ノッポはその頂点にいたのだろう。


 そしてノッポは入れ違いに、自転車のそばに立つ。彼が自転車を盗まれないように見張り役をやることを、エヴィスはベスニクから聞いていた。


 だがエヴィスには、ノッポの目が物欲しそうに自転車を見つめているような気がして不安だった。これからやろうとしていることを考えると、あれが盗まれたら終わりだ。


 だが自転車のことばかり気をしている訳にもいかない。

 落ち着かない気持ちになりながらも、努めて正面玄関の方へ気を配る。


 昨日あの少年を殺した後、ベスニクは支配人との確執がどんなものであるか、ようやく教えてくれた。


 このホテルはホッジャの時代に建てられたときからずっと国営だったが最近になって民営化し、雇われ支配人だったあの男がオーナーになった。


 だがこの場所には、別の地権者がいた。戦前にこの土地を所有していながら、社会主義の名の下に接収されてしまった元の地主だ。


 ベスニクは地主の息子を捜し当て、土地を買った。そして支配人に対して自分から土地を買うかホテルを明け渡すのが筋だと迫ったが、支配人はこれを拒否した。


 ベスニクは支配人を他人の土地を不当に占拠しているろくでなしと断じ、以来ずっと水面下の暗闘が続いている。


 そんなことを思い出しているうちに、待ち人は思っていたよりも早く出てきた。


 スイートルームの客である身なりのよい紳士を、支配人が自ら見送りに出てきたのだ。


 紳士は北部出身の国会議員で、エヴィスたちの部族フィーシィと付き合いのある人物だった。


 支配人は彼に口利きを頼み、ベスニクたちを叱責させて黙らせるつもりらしい。この国ではこうした解決法は珍しくない。


 しかしこの策は的外れだったと言わなければならない。


 何故ならアルバニアに持ち込まれたばかりの民主主義ではばいひょうと選挙妨害が当然の如く行われており、大物ぶってはいるが実際は部族フィーシィの力ありきで議席を得ているこの議員は、支配人に会合を持ちかけられた後すぐベスニクに知らせてきたのだから。


 何事も外から見ただけではわからないことがある。


 車の前で長々と会話を引き伸ばす議員と、話を合わせる支配人。


 エヴィスはゆっくりと近づく。


 濡れた手をポケットに滑り込ませ、硬くて冷たい感触を確かめる。薄く小さなR61はビニールで出来たぺらぺらのレインコートにも不自然な膨らみを作ることなく、そこに収まっていた。


 親指で安全装置を押し上げ、人差し指は引き金にかける。もう薬室に弾は入れてある。撃鉄も起こしておこうか迷ったが、ポケットの内側に引っかけてしまうのが怖くてやめた。


 こちらに気づいた議員が車内に引っ込むと同時に、ポケットから抜く。


 支配人は身を翻した。こちらを見てもいなかった。ただ目の前の議員が不自然な動きを取ったのを見て何かを察したようだ。


 エヴィスは銃を向けるや撃鉄が起きて落ちるまで人差し指を引ききった。銃声と共に支配人の胸めがけて飛んでいった弾は、様々な要素を重ねに重ねた結果として狙いが逸れて肩を貫く。

 肩に穴を空けられ血を流し身を震わせながらも彼は正面玄関に飛び込む。扉が支配人を受け入れ、彼が通過するとまた閉まる。エヴィスは追った。


 硬いガラスに阻まれ、鼻を打って尻餅をつく。ガラスが揺れた。きっと誰かが機転を利かせて、自動ドアの電源を切ったのだ。

 痛みを堪えて立ち上がる。標的まとはロビーの中をなおも走っている。もう10メートル以上も離れている。

 その背をしっかりと捉え、右手に握るR61を両手持ちに構え直し、狙い、撃った。


 流氷が崩れて海へ没していくようにガラスのドアはヒビ割れ、音を立てて砕け落ちる。その向こうを走っていた男はもんどり打って倒れる。

 多分、今ので死んだ。確認する余裕はなかった。エヴィスはきびすを返して逃げる。ホテル前の車止めを駆け抜けた。その前の道路も駆け抜けた。


 物売りの悪童たちは1人も残っていなかった。怠惰なこの街の警察も、この騒ぎではさすがに仕事をしてるフリぐらいはすると踏んだのか。


 ただ1人が、ノッポが自転車のそばに残っていた。だが彼もエヴィスの姿に気づくと、裏路地に消えていった。


 エヴィスは自転車に乗って、ペダルを漕ぐ。遠くにサイレンの音を聞きながら、雨に濡れた道を走り去っていく。






 あれから指定された廃墟のガレージに乗り入れ、自転車を乗り換えた。


 ガレージにはエヴィスとは似ても似つかない中年の男が待っていて、犯行に使った自転車は彼がバラバラに解体してからリュックに詰めて運び、処分する手筈になっている。


 レインコートも地味なねずみ色の物が用意されていたが、その頃には雨も止んでいたので着なかった。


 エヴィスは新しい自転車でベスニクたちの待つビルに戻り、報告をするために最上階に向かって階段を登っていく。


「お前たちは、エヴィスを何だと思っている!?」

 二重扉の内側を開くと、いきなり聞き覚えのある老人の怒鳴り声が耳をついて手が止まった。


「落ち着いてくれや先生。あいつを守る手配は俺とベスニクできちんとするからよ。何も心配するこたねえ」


「手配だと? あの子を一生、石のクーラに籠らせるのか、それとも永久に逃げ回る根無し草にするのか!」


 ダーダンが笑い混じりになだめている声が聞こえたが、それは老人を余計に怒らせているだけのようだった。


 エヴィスが意を決して中に入ると、こっちでは一度も目にしていない山の民族衣装をまとったアリ先生がソファに腰かけていた。

 どうやら共にテーブルを囲んでいるベスニクとダーダンを怒鳴りつけていたようだ。


「アリ先生、こっちにいらしてたんですね?」


「おお、エヴィスよ!」アリ先生は立ち上がるや、崩れ落ちるようにエヴィスの前へとしゃがみこんで両肩を揺さぶってきた。「お前がまたしても人を殺めたのと聞いて、飛んできたのだ!」


 そう叫んでいたアリ先生の目が一瞬はっとしたようになり、険しさを更に増していく。


「お前の顔には今、人を殺したばかりの表情が浮かんでおる。その顔は昨日なんてものではない、もっと今しがたのことだ。3人目を殺めたのだな?」


 エヴィスはぎょっとした。


「アリ先生、その、わかるんですか? ぼくが、人を殺したばかりだってことが……」


「今のところはな。この先お前が何人も殺し続けていけばやがては慣れ、顔色ひとつ変えなくなる。そうなってしまったら、もうわしも気づいてはやれないだろう」


 アリ先生は悲嘆と失望に暮れながら、苦々しく目を閉じる。

 

「お前、いやベスニクにとってはきっと今日お前に殺させた相手こそが本命で、あの少年はお前が村の人々から集めていた瓶や缶と何も違わなかったのであろうな。しかしせめてお前だけは覚えておきなさい。昨日お前に殺された少年の名はルディ。彼は村の飲んだくれが空けた酒瓶などではなく、名前を持った1人の人間だったのだよ」


 先生の顔に浮かぶ苦悶がどんどん深くなっていく。しばし沈黙し、肩を掴む指の力が強くなる。


 そしてやがて、意を決したように再びまぶたを見開いてエヴィスを見る。


「……ルディは山人の血を引いている」

 それまでの感傷を振り捨てて、努めて冷徹に、事実だけを伝える口ぶりで語り始めた。


「ルディの父親はわしらの村から山を2つ越えたところの生まれだ。他の兄弟もみんな山の生まれで、ルディとその下の子だけがこの街に来てから生まれた。確かにルディは南の方言しか話せないし、服装も都会風の浮わついたものであったかもしれない。しかし彼もまた山人の子には違いない」


 エヴィスの顔から血の気が引いた。


 それがどういうことか、わかってしまったからだ。


「ルディには父親と、3人の兄がいる。彼等には血を奪い返す義務がある……エヴィス、お前からだ!」






 葬式行列の人々が、叫び声を上げながら村の中を行進する。


 笑い声のようにも聞こえる。


 サイレンのようにも、フクロウの鳴き真似のようにも聞こえる。


 いにしえの戦士たちが上げた、ときの声のようにも聞こえる。


 そんな声を上げながら、人々は墓場へ向かっていく。


 エヴィスもその列に並んでいた。


 ルディは父親の村で北部式の埋葬をされることとなり、下手人の礼儀として弔いに加わらなくてはならぬとアリ先生に山へ連れ戻された。


 街の暑さに苦しんでいる頃、何度もこの涼しい山に帰りたいと願っていた。でも今は少し肌寒い。


 このあと男たちは墓地で埋葬される前の遺体を囲み、声を上げながら踊り、死を惜しむ言葉を唱え、胸を叩き、顔を掻きむしる。


 この儀式のとき先人たちは血が出るほど強く掻きむしっていたようで、カヌンでは爪についた血の扱いまでも細かく定められていた。家に帰るまで爪についた血を洗い落としてはいけないと。


 だが今ではそうした習慣は廃れ、引っ掻く仕草だけで済ますのが慣例になっている。


 エヴィスは早く終わってくれないかと思いながら、葬列の先頭を歩くルディの家族を見ていた。


 父親は筋骨隆々で毛深く、まるで熊のような印象のある巨漢だ。3人の兄たちは死んだルディと同じ丸刈りだが、いずれも長身で鋭い目をしている。


 彼等はしきたりに従い、銃を肩に下げていた。殺人の被害者の葬儀では、血讐ジャクマリャの義務を負った男たちは武装して参列することになっている。

 大抵はエヴィスが猟に使っているのと同じような古い銃がどの家にも伝わっていて、それを出す。


 だがこの4人は違った。彼等は赤みがかったウッドストックと折り畳み式の長く鋭く尖ったスパイク銃剣を備え、バナナのようにカーブしたマガジンを差した突撃銃を携えて葬儀の場に姿を見せたのだ。


 あれは兵隊が使う銃だ。1997年よねんまえの大暴動で軍や警察の武器庫から市井にある物よりもずっと強力な銃火器が大量に奪われ、その多くは今も回収されていない。

 あの日、怒り狂う群衆の中に彼等も混ざっていたのだろうか。


 いつかあの4丁のどれかが自分に向けられ、フルオートで弾を浴びせられて体に肉の洞窟をほじくられる日が来ることを想像した。

 その激痛はどれほどのものか? それとも、そんな痛みを感じる間もなく死ぬのか。


 いや、あるいはあの銃剣によって突き刺されるのかもしれない。


 ふと、酒宴の席で老人が聞かせてくれた話を思い出した。遠い遠い昔にあった、コソボのそれよりもずっと大きな戦争に彼が従軍したときの話だ。


 銃剣で敵兵を突き刺したら抜けなくなってしまい、死体を100メートルも引きずった。

 それでも抜けなくて、仕方なく亡骸を足で踏んづけながら刃が腹をかっさばくと内臓がまろび出てきた。

 すると死んだと思っていた敵兵は息を吹き返し「ああ、腹が減った」と一言漏らしてから事切れたという。


 老人はげらげらと笑っていた。本当の話かどうかはわからない。恐らく冗談ではないかと思う。仮に本当だとしても、あのスパイク型の銃剣で刺されても腹を開くことなど出来やしないはずだ。

 どのみち刺されたら死ぬのだから、何の慰めにもならないが。

 

 そんな思案を巡らせているうちに、葬式行列の一団はようやく墓穴の前に着いた。


 男たちで、蓋が閉じられたままの柩を囲む。女たちは――男になったと認められた者以外は――邪魔にならないよう、後ろに控えて涙を流す。例え母親であっても。


 しきたり通りに両手で腰のベルトを掴み、身体を左右に捻りながら叫び、死を惜しんで祈りを捧げる。

 そして次に、教えられた通りに顔を引っ掻く。


 エヴィスの手が止まった。


 柩を挟んだ反対側にいるルディの父親と3人の兄たちは、自らの頬に爪を深く食い込ませて頬の皮を力強く裂いた。


 顔中血まみれになりながら、空気を揺るがすような咆哮ほうこうを腹の底から上げる。


 自らの肋骨を砕かんばかりに、己の胸を強く拳で打つ。


 彼等の追悼は、いにしえの作法そのままだった。あまりの気迫に怯えたのはエヴィスだけではなかった。心情的には一家の側に寄っているはずであるこの村の者たちさえ唖然としていた。


 かくも凄惨な葬送を、昔話として聞いたことはあっても実際に見たことはなかったのだろう。






 葬儀の後、これもしきたり通りに葬儀の共食が執り行われる。

 とても食事が喉を通る気がしなかったが、これに出なければ30日の休戦協定が結ばれなくなってしまう。


 ルディの遺族と、間を取り持つアリ先生。エヴィスの側には1人もいなかった。ベスニクとダーダンはこの村の入り口まで送ってくれたが、今は車で待っている。


 今はベスニクの家屋シュピに身を寄せていても、亡き父から継いだファミーヤの家長はエヴィス自身だ。


 現状、血の争いはエヴィスの家と、ルディの家との間で起きている。

 だがもしもそこに親類が加勢したりすれば事を両家の争いという枠に収めるつもりがないと相手から見なされ、部族間抗争に発展しかねない。


 そのような状況で唯一エヴィスの味方になれるのは、アリ先生だけだった。


 先生は額に汗を流しながら、ルディが先にエヴィスを侮辱したのが発端であることと血の争いの無益さ、そして相手を赦すことは血讐ジャクマリャにも勝る最大の名誉であることを枯れた喉から声を絞り出して説いた。


 だがそれは剥き出しの怒りを前にしては、あまりにも虚しい響きだった。

 

「ご高名な先生のお言葉はありがたいが、承知できるのは30日間の休戦までだ」ルディの父は家長として声を抑えていたが、目は今も強い怒りをたたえている。「せがれはこのガキに後ろから撃たれ、亡骸はうつ伏せのまま捨て置かれた。それが全てだ」






 ベスニクの運転するゲレンデヴァーゲンが、自分の村に戻った頃にはもう夜になっていた。


「すまないな、わしの力が及ばないばかりに……」


「いいえ。ぼくこそ先生に、こんな辛い思いをさせてしまってごめんなさい」


「お前が気にすることではないよ。和解は不成立に終わるのは、珍しいことではないのだ。何世代にも渡って何十人もの殺し殺されが続き、それでも和解が成されることなく歴史ある家が断絶に至ったのを幾度も見てきた。子供の頃からずっとな」

 

 車が村外れの小屋で停まる。アリ先生は最後まで苦しげな表情を残して降りていった。


「まあ、そう怯えるな。お前さんのこれからのことは、ちゃあんと考えてあるんだ」

 助手席のダーダンが陽気に笑ってみせた。


「イタリアに、昔から俺たちと付き合いがあるアルバレシュの漁師町がある」

 アドリア海を越えた先にあるイタリアには、中世の頃にアルバニアから移住した人々の子孫がいる。


 彼等はアルバレシュと呼ばれ、近代以降のアルバニアとはまた違う独特の文化を築いていた。


「そこの親方は、冷戦時代からアルバニアとイタリアの間で密貿易をやってきた古強者でな。以前からベスニクと2人で、いずれはお前さんをその村にやって学ばせようとよく話してたんだ。いい機会だし、その予定をちょいと早めようじゃねえか」


 ダーダンの話は魅力があるものだった。確かにそこへいけば、4人の復讐者ジャクスも追ってこれないかもしれない。

 だが1つ、気になることがあった。


「ぼくがそこに行くとして、ルーレは……」


「連れていける訳がない」ずっと無言でハンドルを握っていたベスニクが口を開く。「お前は仕事をしに行くんだ」






 付き添ってくれたダーダンも家に送り届けた後、2人は自宅に戻った。


「ルーレにはぼくから話したい」


「好きにしろ」

 エヴィスが降りると、ベスニクは車を駐車場代わりの裏庭に向かわせた。


 憂鬱な気持ちで、玄関扉を開ける。


「おかえりなさい!」

 車の音を聞いていたのか、玄関前で待っていたルーレはエヴィスに駆け寄って抱き着いてきた。手にはまた、ひまわりの写真立てを持っている。


 ベスニクは頼まれた通り、ひっそりと自室に消えていった。


 エヴィスはルーレを伴って、居間に連れていく。


「ねえ、ルーレ。話があるんだ」

 抱きついて甘えるルーレに、一緒に暮らせなくなることを打ち明けようとした。


 だが、思うように声が出せなかった。


 どうにか言葉を詰まらせながらも話そうとしたが、先に涙があふれてしまう。


「どうしたのエヴィス? どこか、痛いの?」

 ルーレが心配そうにエヴィスの頬を撫でる。


 違うんだ、そうじゃないんだ、と話そうとしても、えつが何もかも塗り潰してしまった。泣けども泣けどもまともに話せなかった。いつまでもいつまでも泣いていた。

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