原罪 — S.H.

筑駒文藝部

原罪

「あ……」

 加瀬の第一声からは、純粋な歓喜の気持ちは殆ど感じられなかった。

 自分でも得体の知れないような、複雑な感情の波が彼にどっと押し寄せていたからだ。

 暫しの静粛の後、研究員たちの間からぽつぽつと言葉がこぼれ始めた。

「やった……。やったんだ……。ついに、ついにやったんですよ、先生!」

 皆一斉に喜びの声を上げ出し、研究室は一転とても明るい雰囲気に包まれた。

「ああ、お、おう……」

 ついに、ついに冴への償いが叶うかもしれない。ごった返した感情を少しずつ整理して、加瀬が真っ先に考えたことは、これだった。

 僕には、冴の命を無惨にも奪った人間を確実に見つけ出す義務がある。

 僕一人じゃとても背負いきれないような、重すぎる十字架があるのだ――。



 愛してやまなかった妻、冴とは、誰もが羨望の眼差しで見るような正に「最高の家庭」を築いていた。高校で初めて彼女に出会ったとき以来、僕の脳は最早、完全に彼女に支配されていると言っていい状態だった。もう二十五年ほど前になるが、覚悟を決めついに彼女にプロポーズした時のことも、とても鮮明に覚えている。娘の凛を抱いて、優しく、全てを包みこむような笑みをたたえる彼女を見るたび、彼女こそが僕の生のすべてだと感じた。胸が痛むような辛いニュースを見聞きしては、自分だけがこんなに幸せな日々を送っていていいのだろうかとまで思ったりするほどだった。


 あの日も、そんな平穏で幸福な毎日がいつも通り過ぎていくだけのはずだった。

 なのに、なのにたった一台の車が、僕の生きる意味のすべてを、一瞬にして完膚なきまでに奪い去った。

 あれはいよいよ研究も大詰めといったところだったか。早く帰って妻の顔を見たい一心でがむしゃらに仕事をしていたのだが、流石に残業せざるを得ない局面だった。

「ちょっと加瀬さん、警察の方からお電話が」と突然部下の女性に言われた。

 研究への集中を妨げられたことに多少苛立ちながら、受話器を取った。

「奥様が交差点で信号を無視してきた車と接触され、大変重篤な状態です」

 頭が真っ白になった。僕が膝から崩れ落ちて、息すらもできないような状態に陥ったのは、ものの数秒後のことだ。


 それから数日後、僕は病室に一人立ち尽くしていた。もう既に白く冷たい冴の手を、ぎゅっと力強く握りしめるでもなく、呆然とした顔でただそこに佇んでいた。

 生きる意味を失った。これからどんなに楽しいことをしたとしても、二度と「幸せ」だなんて思えないだろう。もういっそのこと、冴の隣で死んでしまおうか。

 自ら命を絶とうとする人達の気持ちが痛いほどわかった。一刻も早くこの場から消え去りたいと強く感じていた。

 所謂「普通の父親」ならば、家族の行く末だったりに想いを馳せるのかもしれない。残された家族とともに強く生きる覚悟を固めるのかもしれない。

 だが、僕は違った。本当に身勝手な話だが、娘の凛のことさえどうでもよくなってしまっていたのだ。

 結局、勇気は一向に出ずに、冴の後を追うことはできなかった。僕は、一体何のために、誰のために、今日を生きているんだろうか――?


 数日後、僕は当時所属していたプロジェクトを離脱して、「project: RETRA(リトラ)」を立ち上げた。

 RETRA(REad TRAumatic memory)は、僕の惨憺たる研究動機も相まって、瞬く間に世界中から脚光を浴びた。

 トラウマとなっている記憶は、海馬を解析し刺激を与えることによって再現することが不可能ではないとするシュワルツ博士の研究をもとに、外部からその人の人生における「最大のトラウマ」を映像化することのできる機器を作ろうという試みだった。

 さらにこの機器は、海馬が傷ついていたり過度に腐敗してさえいなければ、遺体にも使用できるというものだった。大抵の場合、事件や事故によって亡くなった人の最大のトラウマは死の直接的原因になった瞬間であるため、RETRAの刑事分野での活用を期待する声はとても多かった。

 もちろん僕も例外ではなかった。僕は現在、冴の脳をホルマリン漬けにして持っている。冴が死んだ瞬間も、これを使えば再現が可能なはずだ。運転者の顔が分かるかもしれない。少なくとも大きなヒントにはなるに違いない、と考えていた。

 その一心で、家にもほとんど帰らず、交友関係も何もかも全て放り投げて、ただひたすらに研究に勤しんだ。

 研究の真っ最中、娘が病死した。もちろん悲しかったが、過度に気に病んで冴のための研究を遅らせるわけにはいかない。この研究が完成するまで、悼むのはやめにしておこう、と思った。いや、むしろ、僕のこの境遇は、側から見ればとても悲惨だろう。娘の死も、資金調達の材料に使えるかもしれない……。

 こんなことを考えていた僕は、誰から見ても相当な外道だろう。だが、仕方ないじゃないか。僕にとって、妻に関することは他の何よりも優先された。クズと言われようが、知ったことじゃない。

 ごめん、冴。僕は君と行く勇気が出なかった、どうしようもない意気地なしだ。でも、君を殺した犯人が捕まるまで、絶対に死ねない。見てて。必ず、復讐を果たすから。


「この装置こそが、刑事捜査に、世界に革命を起こす新技術、『RETRA』です!」

 コードが幾つも繋がったヘルメット型の機械を持ち上げて、加瀬は高らかに宣言した。

 観客たちから一斉に大きな拍手が送られる。SNSでは発表が始まる前から #RETRA がトレンド一位に上がっていた。

 2070年、科学研究はアミューズメントになっていた。続々と発表される新技術の荒波の中で、大衆は次はどんなテクノロジーができるのかと皆ワクワクしていた。期待値の高い研究には莫大な金が集まり、世界が注目していた加瀬の研究は規模が相当膨らんでいた。金を供与してもらう代わりに、広大な会場と迫力ある生配信で最大限の興奮を提供する。それが研究リーダーの大きな役割の一つになっていた。

「えー、では佐々木君、こちらに」

 助手の佐々木を呼んで、頭に装置をつけてもらう。早速、モニターに彼女のトラウマの再現映像が流れる。

 中学の頃、好きな子に振られた時の記憶のようだ。

 普通なら何とも言えないような微妙な雰囲気になるところだが、実際には違った。

「人間の記憶を映像化する」という、前代未聞の行為が目の前で為され、観客たちに物凄い衝撃が走った。

 会場自体が大きく揺れてしまうんじゃないかと思えるほどの歓声が響き渡った。その興奮はなかなか冷めやらず、暫く観衆は新時代を目の当たりにした余韻に浸っていた。

「こほん……。では、質疑応答の時間です」

 観客席から一斉に手が上がる。

「えーと、では、そこの方」

「はい。斜陽ニュースCh. の斉藤と申します。早速ですが、プロジェクトのご完成、誠におめでとうございます。単刀直入に言わせていただきますがわたくし、まだRETRAの安全性に不安を感じております。機械が脳に直接干渉するのですから、何か悪影響があってもなんら不思議はないと思うのです。そこで提案なのですが、加瀬博士、ご自分にその装置を使用していただけませんか? それが、RETRAという新技術の一番の安全性の担保になるかと思います」

「えー、RETRAの安全性につきましては、複数回の治験によって問題はないと証明されておりまして……」

「でも、中長期でどんな影響が出るか確実にわかったわけじゃありませんよね? こんな装置、生み出す利益はとてつもなく莫大でしょう。治験の結果が利権によって歪められている可能性も考えられます。娘さんが亡くなったシーンだとか、多少ショッキングなものが映るやもしれませんが、あなたの研究の正当性が示せるのですから、躊躇することはないでしょう」

 ネットは、何だこの記者は、失礼にも程がある、といった声で埋め尽くされた。

 当の加瀬も、この記者の言うことにかなり呆れていた。

(なんなんだこいつは、初っ端から陰謀論かよ……。そもそも、僕はRETRAを自分に使ったことがある。というより、使ったことがないわけがないだろう。その時は、冴が轢き逃げに遭ったって話を電話で聞いた時の様子が映っていた。それに、最愛の妻を差し置いて娘が映るって、そんなわけがない。冗談だろう……、って、ん、えっと……娘……?)

 その時、研究の完成のために心の奥に封印していた加瀬の記憶が一気に、堤防が壊れてしまったかのように流れ込んできた。




「なあ、凛。母さんを救うための研究が、もうすぐ完成しそうなんだ」

 久々に家に帰り、どんよりとした空気が流れる食卓で僕は最初にそう発した。

「へえ、そうなんだ」

「ああ、もうすぐな」

 暫しの間沈黙が流れる。

「……そこで、凛に手伝って欲しいことがある。率直に言わせてもらうんだが、僕のプロジェクト、”RETRA”の被験者になってもらいたいんだ」

「え……」

 まあそういう反応になるだろうということは予測済みだった。

「……うん、わかった」

 彼女の答えを聞いて、衝撃を受けた。まず受けてもらえないだろうと思っていたから、彼女の好きなものでもなんでもいくらでも買ってやる、とでも言うつもりだったのだが、すんなり受け入れられあっけに取られた。

「あ、ありがとう」

 本当に勝手な話だ。ほとんど家にも帰っていないのに、娘にいきなり自分の研究の被験者になってくれだなんて。思えば、受け入れてくれなかったら物で釣ろうという考え方も浅はか極まりない。父親として、どうなのか。

 普通なら強く反発するどころか、家出でもして然るべき話だが、彼女は笑顔で受け入れたのだ。

 幸か不幸か、僕は娘までとても恵まれていたようだ。


 暗がりの中で凛に装置をつけてもらうと、モニターには非常に鮮明に映像が映った。小学校三年生の頃の映像のようだった。微笑ましいなあ、と思っていたのだが、その時すでに娘を被験体にしていることに対する罪悪感など毛頭なく、私の感覚は完全に麻痺していると言ってよかった。

 ことが起きたのは次の朝だった。久しぶりに家の布団にて起きると、隣の凛が何だかぐったりしているように見えた。いや、明らかにぐったりしていた。

「娘さんは現在、脳梗塞に近しい状態に陥っているようです」

 医者にそう言われ、呆然とした。が、僕はすぐに理性を取り戻した。

 あろうことかその時僕は、反省するでもなく、研究のことばかり考えていた。

 この脳梗塞はRETRAの着用が引き起こしたものである、ということは、事の顛末を知る者からすれば明白すぎることであったからだ。

 当時のRETRAには、「女性が使用した場合に脳梗塞に近い症状を起こす」という、重大すぎる欠点があった。女性の脳のみが生成する特有の物質が影響していた。こんなことでは、とても冴の脳に使用することができない。愛する冴の脳を傷つけるなんて、僕には到底、絶対にできない話なのだから――。

 僕は、凛の見舞いにも数えるほどしか出向かず、研究に没頭した。

 一ヶ月の入院の末、凛が亡くなった時も、病室で彼女の遺体とともに涙していたのではなく、研究室で脳の構造データを凝視していた。



 ”凛の死から十年の時が経ち、凛の死を踏み台にして、僕は今大勢の前に立ち、研究成果をエンターテイメントとして発表している”

 長年追ってきた目的のために研究以外のことに完全に盲目となり、あらゆる面倒な事柄から目を背けてきた加瀬であったが、今になってその破滅的な恐ろしさ、狂気に体が震えてきた。いつの間に僕は、どんな罵詈雑言を浴びせられても言い訳のしようのないような人間になってしまったのだろう。

 愛というものは、こんなにも人間の目を曇らせるのか……。

 そうこう思い悩んでいると、ある疑問が僕の中に浮かんだ。

 いや、そもそも、今まで研究に没頭してきたのは、本当に「愛」によって突き動かされたからだったのだろうか?

 本当は、冴を救うためなんかじゃなくて、大義名分の元に「不甲斐ない自分」から目を背け続けてきただけだったのではないだろうか。

 逃げるように研究を続けることで、向き合いがたい事実を無視するのを正当化していただけだったのではないだろうか。



 これが自分の本音なのか。いや、そんな馬鹿な……。違う、違う……。

「加瀬博士、加瀬博士? どうしたんですか?」

 そんな声が遠くから聞こえていた。身体中の至るところから汗が噴き出ているのを、自分でも強く感じていた。

「……もしかして、できないんですか?」

 また声がする。薄気味悪い声だ。

「違う、僕は……」

 僕がただ装置を装着すれば、それでお終いだったのだろうか。

 いいや、違う。

 皮肉なことにそのとき、僕の人生最大のトラウマは、確かに書き変わったのだ。

 僕が、今その手に握っている無機質な機械で、凛を”殺した”時のものに。

「ああそうだ。できない」

「え?」

「だから、できないんだよ!」

 声が自然と荒くなる。ああ。結局僕は逃げるんだ。

 今更僕が何を失うっていうんだ。僕にはもう、何もない。いわば「無」だってのに。

 RETRAの評判が地の底に落ちることははっきりわかっていた。僕はもはや、自分がなぜ自分自身を守ろうとしているのか、一体何の殻に篭ろうとしているのか、全く見当もつかないでいた。

「RETRAは、中長期的に重大な副作用をもたらすとかいった、致命的な問題を抱えている。違いますか!」

 はっ。何だその口調。一丁前に正義気取りやがって。

 もう散々だ。全部、全部どうでもいい。

「少しは何か仰ったらどうなんですか!」「おい! どうなんだ!」

 チッ。あくまでまだ疑惑の段階なはずだろうが。

 どいつもこいつも、馬鹿ばっかだ……。

 取り乱す加瀬の様子がカメラを通じて全国に生配信された影響で、SNSでは加瀬遼一というワードが急上昇し、どこもかしこも心ない発信で溢れた。

「図星で草」「RETRA、なんかヤバそうじゃない?」「これ説明しないとどうしようもないんじゃね?w」

 そこら中から陰湿で残酷な言葉の数々が反響してくるようだった。

 どいつもこいつもやかましい。俺の研究成果は圧倒的なんだ。

 なんで、なんで研究の中身を見ないんだ。妙ないちゃもんをつける前に、証拠持ってこいよ。話にならないだろうが!

 やり場のない怒りでどうしようもなくなっているうちに、ふと、RETRAの研究を始めてから、感情が少しずつ戻るようになったことを思い出した。あらゆる面倒くさいことから解放されて、ただ無心でいられたことが、荒んだ心を次第に落ち着かせていったのだろう。

 現にこの怒りも、生きる活力を失っていたあの頃ではあり得ないことだった。

 荒れ狂う感情に身を任せ、俺は走り出した。加瀬はもう諦めの境地に達し、無我夢中で逃げた。自分の愚かさ、罪から。

 俺はすぐにでも出発できるよう準備した車を舞台裏に用意していた。なぜ用意していたのかはわからない。でも、発表が始まる前からなんらかの底知れぬ不安が、俺の後ろにあったのだろう。早く、一刻も早くここから――。

 肥大化しまるでかつてのオールドメディアのようになったニュースチャンネルのほとんどが一斉にこの逃亡劇を取り上げ、世界中の人々がこの事件を知ることとなった。


「加瀬博士の車、確保しました!」

 男はふっと笑った。もはや一国の警察並の実力を持つようになった、世界でも指折りの大人気インフルエンサーだ。

「これは相当再生回るぜ」

 そう言って、加瀬の自動運転車のドアをこじ開ける。

「っ……!」

 そこにあったのは、もう加瀬かどうかの判別もできないようなおぞましい遺体だった。

 頭に何十回も刃物で刺した跡があり、車内は血の海になっていた。胸には、もう原型をとどめていないRETRAの装置を抱いていた。

 そう。加瀬は、自分に絶対にRETRAを使われないように、頭部を極限まで破壊し尽くしたのである。

「チッ……。クソが」

 男はあからさまに苛立ちながら拳で車の上部を叩いた。

「今すぐ動画にしろ。早く!」

 男は付き人たちを急かし、すぐに撮影を始めた。


 加瀬に起きた一連の出来事は、近年稀に見る21世紀最大のオカルト的事件として、長らく語り継がれることとなった。

 RETRAの研究は頓挫した。研究室に残されていたRETRAを幾つ分解しても、どの学者も構造の意味を理解することはできなかった。加瀬の研究者としての才能はほとんどの同業者が認めていたため、彼の死を悲しむ人々はいたが、すぐに興奮状態の大衆による集団攻撃の矛先が向けられた。

 冴を轢いた人間のことは何一つ分からず、自分の苦悶は誰も理解せず、挙げ句の果てには罵詈雑言を浴びながら自殺した、加瀬という男。

 その名は、最も不名誉な形で残ることとなった。

 彼の傷だらけの脳は今も、どこかで誰かが保存しているという。彼の記憶の解析、ひいては”RETRA”の再構築を、夢見て。


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