【カクコン参加記念ss】前振り ―葵の場合―

「空木先生、なに悩んでんの?」


 冷え込みが厳しい昼休み、葵は目を丸くした。

 担任しなくなったとはいえ、何かと声をかけてくる辰次が現れたからだ。ひょっこりと現れるくせに、無垢な瞳は葵の不振な行動を見逃がさない。

 どうしようもないことで悩んでいることを見透かされているのだろうか。


「いえ、何も、悩んで、ない、です、よ」


 葵は誤魔化すのがとことん下手だった。


「じゃあ、何で青くなったり赤くなったりしてんの」


 え、と葵は固まる。自覚がなかった分、衝撃がすごかった。左頬に触れて、確かに少し熱いかもと考える。


「悩みというほどではないのですが、考え事をしていたので、顔に出ていたかもしれません。心配させてすみません」


 真摯に向けられる目に誤魔化すことができなかった葵は、眉を下げ自白した。

 音がしそうな瞬きをした少年は葵を絶句させる言葉を放つ。


「噂の軍人さん?」

「な、ななな、なん、ええ? 噂されているんですか」

「うん」


 顔を両手で隠した葵は穴があったら入りたかった。できるものなら掘ってでも隠れたい。皆にそう思われているのかと目を配ってみたが、こちらを見るものはいなかった。

 大半の生徒は食事を済ませて、校庭に遊びに出たということもある。

 葵は自身を落ち着かせるように息を吐いて、深く吸い、もう一度繰り返した。くぐもった声が情けなくこぼれる。


「辰次くん、お願いがあります」

「何?」

「おうちの人には言わないでください」


 わかったと素直に頷くのを聞き、葵は赤みの落ち着いた顔を出した。

 ただでさえ、目立ってはいけない人でその上、忙しくしている。これ以上に会えなくなるのはさみしい。

 きっと他の生徒は言ってしまうだろうが、噂が広まらないことを祈るばかりだ。

 思考の渦に引き込まれる葵の意識を辰次の言葉が引き戻す。


「で、考え事って?」

「……誰にも言わないって約束できますか」

「俺のこと馬鹿にしてんの?」


 年相応にむっとした辰次に困った笑みが向けられる。


「……料理を、作ることになりまして」

「作ればいいじゃん」


 あっけらかんとした物言いと同様に心が軽くなるわけもなく、葵の眉はさらに下がった。


「初めて食べていただくので心の準備ができていないんですよ」


 辰次はぴんと来ない様子でふぅんと流し、葵の手元を覗きこんだ。半分も減っていない弁当をうめる玉子焼きをくすねる。


「これ、うまいよ」

「ありがとうございます。でも、行儀が悪いですよ」


 ごく自然に励まそうとしている姿が微笑ましい。

 ため息まじりの葵に対して考える素振りを見せた辰次は胸を叩く。


「俺、玉子がおいしい店を知ってるよ。案内する」

「……お心遣いは嬉しいのですが、次の機会にお願いします」

「じゃあ、荷物持ちする」

「うううーん、そんな大荷物になるとは思いませんよ」


 しぶる葵に元教え子の目が座る。


「一人でずるずる考えてたら、買い忘れしそう」

「それは……」


 葵の虚辞は否定すべきだと訴えたが、口から出たのは、ありえるかもしれませんねという情けない声だった。



 北風吹く帰り道、葵と辰次は八百屋に精肉店を周りに材料を揃えた。辰次には玉子だけを持ってもらい、他は葵が持っている。

 調味料は念のため持ってきているので、あとは米を買うかどうか悩むだけだ。


「米がない家なんてあんの」

「切らしているかもしれませんし」

「大丈夫なの、そいつ」


 幼い目は信じられないと訴えていた。

 葵は何だか可笑しくて笑ってしまう。


「忙しい人ですから」


 まっさらな目が瞬いて、遠慮を知らない口を開く。


「けっこん、するの?」


 大きくない声量なのに、木霊した気がした。揺さぶられた葵の心が誰も知らないところで凍りつく。

 嘘をつけない葵は、母には想いを寄せている男性がいると伝えていた。父も母から聞いているだろう。姉や弟は勘づいているかもしれない。

 家族も友人たちも心配を見せるとはいえ、何も言わずに見守ってくれている。

 ありがたいな、と噛み締めながら葵は頭を振る。


「たぶん、しないと思いますよ」

「じゃあ、同棲どれあいすんの? あれ、ないえんだっけ」


 葵はうなだれた。何処で聞いたのかと問い詰めたいところだが、十中八九、井戸端の噂話だろう。細く息を吐いて、ぎこちない顔に無理な笑みを浮かべる。


「そういうことは、聞かない方が賢明ですよ」

「けんめい?」

「賢いということです」

「ふぅん、わかった。じゃあ、決まったら教えて」


 見上げてくる目が純粋だからこそ、葵も強く言えなかった。少年の心配はあまりにも真っ直ぐで、時に胸に刺さる。

 通りはもう夜になりかけていた。店仕舞いされては悩んだ意味がないと葵は決心する。


「お米、買います」

「持ちますよ」


 辰次とは反対から聞こえた声に耳を疑った。

 あんた誰、と疑しむ辰次の声が聞こえる。

 顔だけ振り替えれば、思い描いた通りの空を飛ぶ鳥の色を持つ人が立っていたが、辰次は誰かわかっていない。

 辰次に悟られぬように腕時計を見せた詞を葵は見上げる。


「山瀬、さん?」


 はい、と固い声が返ってきた。

 葵には詞に見えているのに、周りには山瀬の姿で映る。彼は彼として生きてきたのに、彼としてもう生きられない。わかっていたはずのことを突きつけられて、悲しみを隠そうとする顔を掻き抱きたくなった。

 二人の間に流れる空気を割って入ってきたのは辰次だ。


「ねぇ、おじさん。空木先生のこと、大事にしてよ」

「辰次くん! おじさんではありません!」

「おじさんだろ」


 辰次はまだまだ幼さの残る体で堂々としていた。

 心の中で悲鳴を上げる葵の肩に手が置かれる。


「僕が荷物を持ちます。ここまでありがとうございました」


 詞は辰次の持つ風呂敷に手を差しのべていた。しかし、荷物は引き渡されない。詞と辰次は互いに無言で戦っていた。

 山瀬らしく無表情を装う一人と、敵意むき出しの少年。


「大事にするって約束しろよ」


 辰次は一歩も引かない。

 蔑ろにされているなんて微塵も思っていない葵は背中に嫌な汗を感じた。子供相手に本気になるわけもあるまいと油断していると、予想外に冷ややかな声が返される。


「大事にすると答えても納得するようには思えませんが」

「お前の行動がふせいじつなんだろ」


 火に油を注がれた辰次は負けじと声を張り上げた。

 葵は詞をたしなめるように一瞥した後、荷物を預けて辰次に体ごと向き直る。膝を折り、少年よりも低くなった。細い上腕に両手をそえて、覗きこむ形を取る。


「もう、遅いですから、帰りましょう。ね?」


 いななく唇を開けようとした辰次はしぶしぶと言った様子で、引き下がった。詞に玉子を押し付けた後、容赦なく睨み付けて走り去る。

 また明日と見送った葵は眉根を寄せて詞を咎める。


「大人げないですよ」

「……すみません、虫の居所が悪かったもので」


 詞があらぬ方に視線をやると男が気まずそうに駆けていく。

 知り合いですかと訊ねた声は、いえと否定された。

 違和を感じた葵は小首を傾げる。


「珍しいですね、言い訳なんて」

「自覚してほしいと言っても通じそうにないので」


 先程からずれた言動をする詞に頭をひねるが、ちっとも答えに行き着かない。米を買い、帰路についた詞を慌てて追いかける。


「はぐらかしてませんか」

「何もできないのが歯がゆいだけですよ」


 先に行く背に突き返されたようで、葵は怖じけづきそうになった。何もできないのは自分の方だと心が喚く。

 何も求めません、と心で呟いたはずの声がこぼれていた。葵は唇を噛み締めて、精一杯に笑う。


「生きてさえいてくれれば、それだけでいいんです」


 詞に伝えたかっただけなのに、自分に言い聞かせているようで嫌だ。

 一瞬止まった背が、考え直したように小道に折れた。

 続く葵が足を踏み入れた時、手を取られ、急ぎましょうと引かれる。見開いた目に映るのは、こぼれ落ちてしまいそうな苦い笑み。


「楽しみにしていたんです」


 手から伝わる熱が、胸に生まれた熱がまじわって溶けた。



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