弐拾陸 追憶
匠も山瀬も最初からいなかったように姿を見せなくなった。何かの気配に怯えることも、道端のラムネ瓶が奇妙に転がることもない。
生徒を追いかけ書類に追われる。何の変哲もないが、かけがいのない日常を葵は送っていた。無事に修業式を終え、廊下の窓から桜を眺める。
大きな筆を横一線に何度も打ちつけたように薄紅色が広がっていた。
「春ですねぇ」
横に並んだ声に葵はゆっくりと目だけを向けた。
「おひとつ、どうぞ」
差し出された缶には、ビスケットがつまっていた。
お言葉に甘えて、と葵はありがたく一つ摘まむ。
「何か悩みごとでも?」
優しい声が耳をくすぐる。葵は首を縦にも横にも振れなかった。気まずくて、ビスケットを口にする。甘くて香ばしい香りが口にじわりと広がった。
「無理に話せとは言いませんが、何処かさみしそうに見えましたので」
葵はビスケットをちびりちびりとかじった。
風を楽しむように、葵の歩みを待ってくれている。和泉の適度な距離が居心地がよかった。
「佐久田さんのことを思い出していました……忘れそうで怖いんです」
葵の中で、形になっていなかったものが吐露できた。
桜の花弁を十枚、逆さの眼鏡、図書委員。図書通信を誉めてくれたこと、笑ったら目尻に皺ができること、五連敗した双六、夕陽に照らされ笑顔、駅で感じた熱と匂い。
思い出はまだあるはずなのに、遠くの景色のようにぼやけたものになっている。
声は、もう思い出せそうになかった。悲しくて寂しくて、どうしようもなく辛くなる。
けじめをつけたはずなのに、散りゆく花弁のように消え去るのではないかと心が震えた。
心細さに寄り添うように和泉は微笑む。
「では、思い出話をしましょう」
予想外の言葉に葵は目を見開いた。
老教師はしたり顔を見せた後、桜に語りかけるように話し始める。
「かれこれ十五年ぐらい前ですか。僕は詞くんが六年生の時の担任をしました。優秀で聞き分けのいい、よくも悪くも手のかからない子でした。人一倍、異能に興味を持って熱心に本を読んでいました。あの年頃は皆、憧れますからねぇ」
名前を呼ばれ、葵は遠くにやっていた目を現実に戻した。
「彼の夢は何だったと思いますか」
葵は答えに困った。話の流れでは異能持ちだろう。しかし、それは決してないはずだ。教師になりたいと言ってた記憶もない。
「彼は学者になりたかったんです。異能持ちではなく、それを研究する学者になりたいと。頭が切れる子でしたからね、僕も将来が楽しみでした」
しかし、と間を取った和泉は後悔するように瞼を伏せる。
「家が厳しかったので許してもらえなかったんです。口惜しいことでしたが、そればっかりは私が決めるわけにもいきませんからね。士官学校は性に合わないと言って、師範学校に妥協してもらったようです」
えーと、何て言ってたかなと思い出す素振りを見せた和泉は、確かと言葉を濁す。
「お前が軍人にならないなら、軍人になりそうな奴を育てろ、みたいなことを言われたらしいです。さすがの僕も子供相手によく言えるなと思いましたよ。後の話にはなるのですが、彼の弟も似たようなことを言っていたんです。血なんでしょうねぇ。彼はそういう家に生まれて、融通の……これは失言ですね。立派な父親の考えで、将来を変えたんです。それからですかね、一歩後ろに下がって見るようになったのは」
異能に憧れ、学者を目指すも軍人になれと言われた佐久田の心境は葵には想像が難しかった。
異能は十五才程度で発現するという。国に管理され、軍に配属される者も多い。
運命が彼を逃がさなかったのは皮肉なことだ。口を閉ざしていたのも頷けた。
思いにふける葵に問いが飛んでくる。
「空木先生の中の詞くんは、どんな顔をしていますか」
少しだけ考えた葵は迷いなく答える。
「いつも笑っています。目尻に皺を寄せて、やさしい目をして」
「それならよかった。本当に楽しい時に見せる顔ですから。あの子はね、親しみやすそうな顔をして距離を置く困ったさんでしたから、苦労したんですよ」
これだと悪口になってしまいますね、と和泉は悪びれもなく笑った。
葵もわかるような気がした。自分に益がなければ、上手にかわす所があった。思い出せたことが嬉しくて、心があたたまる。
「空木先生は詞くんにご兄弟がいることを知っていますか」
急な方向転換に戸惑いつつも、葵は頷く。
「匠さんになら会ったことがあります」
和泉は心底嬉しそうな顔をして、秘密を言うように葵の耳に寄ってくる。
葵も合わせて顔を近づけた。
「何を隠そう、実は私、佐久田兄弟とは縁がありましてね。全員の面倒を見たことがあります」
見開いた目に穏やかな横顔が映る。
「ずる賢いけど情に熱い長男の匠くん。冷静で何事もこなす次男の詞くん。真っ直ぐで我慢強い徹くん。兄弟なのに、面白いぐらいに性格が違いますね」
「確かに、匠さんはずるかったです」
苦い顔を見た和泉は声を出して笑った。調子が乗ってきた様子で、葵を横目で見る。うずうずと言いたそうにする子供みたいだ。結局、我慢が出来ずに口を開いた。
「僕はね、佐久田兄弟の秘密を知ってるんですよ」
無邪気な企み顔を前に、葵は神妙な顔で待ち構える。
「嘘をつく時の癖です」
大真面目に言うものだから、葵は笑ってしまった。
和泉も笑って続ける。
「上の二人は眉間に皺を寄せて笑います。匠くんには何回も騙されましたから、私も意地になりましてね。いやぁ、あの時は若かった。逆にね、一番下は目が泳ぐんです。かわいいでしょう」
同意を求められた葵は頷こうとして、ひっかかりを覚えた。思い出せそうで思い出せない。
「嘘だとわかったら、こう言ってやるんですよ。先生は嘘がわかりますからね、て。匠くんなんて――」
「和泉先生」
葵は無意識に言葉を遮った。
瞬いた和泉は怒りもせずに、葵に優しい笑みを向ける。生徒の質問に応える教師そのものだ。
「はい、何でしょう」
「匠さんは、嘘をつく時に眉間に皺を寄せて笑うんですよね」
「間違いありません」
「ありがとうございます!」
忙しなく動き始めた葵を和泉の声が追いかけてくる。
「廊下を走るの、生徒に見られないようにしてくださいね」
葵は背を向けたまま返事をして、先を急いだ。
。゚。゚。❀。゚。゚。
葵は肩を落として歩いていた。あまりの消沈ぶりに、すれ違う軍人達も距離を置いている。陸軍第一師団駐屯地の門を過ぎて塀に平行して歩くも行くあてはなかった。
塀を曲がり人にぶつかる。くたびれた洋服から上に目をやるとぶつかったのは紫の瞳だった。
驚き過ぎて固まった葵に向けられた目は冷たい。つまらないものを見たとでも言うように、彼方に反らし舌打ちをする。
失礼極まりない行動に葵の顔も渋くなった。無視するのも大人げがないように思えて、そっぽを向いたまま声をかけてやる。
「怪我はなおりましたか」
最後に見た
あれから数ヵ月は立っているが、完全に治っているとは言いがたいだろう。
「狸の言うことなら聞くんじゃないのか」
智昭の答えは問いの答えではなかった。それよりも不可解な言葉が気になった葵はおうむ返しに訊き返す。
「たぬき?」
馬鹿にしたような顔は口以上に雄弁だ。
葵が口をとがらして、わかるわけないだろうと主張すれば、智昭は至極嫌そうな顔で名前を口にする。
「佐久田 匠」
葵の中で柔和でたれた目が段々と狸と同じに見えてきた。
あの明るい色を鳶やチョコレイトと見る者もいれば、狸と連想する。面白いものだと感心していると、智昭は門とは逆の方に踵を返した。
「え、意味がわからないのですが」
葵の声が猫背にぶつかる。
返事は舌打ちだった。
智昭は片手をズボンのポケットに入れたまま半身を返す。
「兄の言うことなら、弟も聞くんじゃないのか」
葵は驚きで頭を殴られたような心地だ。本人に確認しなければと先走り、匠のことは頭からすっかり抜けていた。
顔を輝かせた葵は腰が折れ曲がる勢いで礼をする。
「ありがとうございます!」
礼を言った後に葵は気が付いた。
「私が困っていたこと、どうして知っているんですか」
「……嫌でも聞こえるんだよ」
ああ、と葵は素直に感心した。聞こえがいいとは聞いていたが、距離があっても聞こえるとは驚きだ。
「耳が壊れませんか」
答えは聞き取りづらい舌打ちだ。
彼方へ視線を智昭は思い直したように半眼を葵に向ける。
「貸しはなしだからな」
思い当たらない様子の葵に蔑んだ目が向けられたのは一瞬だった。曲がった背は呆然とする葵のことなど放って遠ざかっていく。
「……助言、された?」
苦言を申す態度で非常にわかりにくかったが、葵を導く知恵をくれた。最後はよくわからないことを言われたが、智昭なりの義理を果たしたのかもしれない。
曲がった背にもう一度深く礼をした葵は再び駐屯地の門を目指した。
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