終章  天と咲む

 葵は空を見上げた。昨夜の雨が嘘のように晴れ、空気は澄んでいる。まだ時間があるので、はやる気持ちを抑えて意識してゆっくりと歩いた。

 荒物屋は籠出しに汗を流し、八百屋の主人は竹の子を並べている。香ばしい香りが漂よわさているのは手伝いに行っていた店からだ。文具屋では子供が叩きを片手に商品を物色し、二つ先の和菓子屋からは餡を炊く香りに混じって罵声が飛んでいた。

 通い慣れた道なのに、初めて歩くように何もかもが新鮮に感じる。短くもない道がとても楽しい。

 いつもとは一本違う道を曲がってゆるやかな坂を上る。明るい芽吹きの色の間に赤紫や白い花が寄り添うように揺れていた。

 一呼吸おいて、落としていた視線をあげる。高等師範学校の校門の前に立つ山瀬を見つけた葵は笑みを浮かべた。

 彼は気付いているだろうが、あえて歩調は速めない。図書室の受付と同じ距離まで歩を進めた。


「おはようございます」


 山瀬は表情をぴくりとも動かさずに頭を少し下げた。


「山瀬さん、少し歩きませんか」


 返事はないとわかっていたので、葵は先に歩き始めた。後ろについてくる足音に安堵する。

 向かった先は、講堂横の桜だ。一本だけ植えられたそれは晴れ渡る空を祝うように堂々とした姿だ。

 地面にそらの花が咲いている。

 遠目で見た葵はひとつ瞬いて、自分が置いた傘だと気が付いた。吹き飛ばされないかと心配していたが、開いた中に雨が溜まり踏みとどまったようだ。

 傘の中に映る天に、数えきれないほど浮かぶ花弁が見えるところまで近付いた。

 桜を見上げればがくばかりが目立つ姿になっている。満開の桜を一緒に見たかったなと願ってしまった自分に苦笑した。

 葵は後ろに向き直り、訊ねる。


「桜の花弁を十枚――覚えていますか」


 ちらちらと花弁が舞う中、返事はない。

 眉間の皺に気付いた葵は眉を下げて目を細めた。姿形が違っても、嘘が顔に出る質かもしれない。


 最初から何となく気が付いていた。勘違いしそうになる自分に死んだはずだと言い聞かせ、気のせいだと首を振った。触れた温もりが、彼の歩き方がそうだと訴える心に目を背ける。期待した後のどん底を味わいたくない一心で目を閉じ耳を塞いだ。

 彼の力を衝動のままに確かめたのは、自分の勘違いを誰かに認められたかったからだ。本人に確める勇気もなく、拭いとれない孤独を消し去りたかった。本能で逃げてしまう自分が嫌になる。


 佐久田以外にも同じ能力者がいること。

 佐久田が死んだこと。

 そう言った匠は泣きそうな顔で眉間に皺を寄せて笑っていた・・・・・・・・・


 山瀬を訪ねたが、会ってはくれなかった。智昭に助けられ、息を吹きかえした心に忠告したのは匠だ。

 どうして正体を明かさないのか、考えろと。逆に言い返した、正体が知りたいわけじゃないと。生きていること・・・・・・・を知りたいだけだと。


 葵は全てを飲み込んで、傘の取っ手を指先でつついた。


「桜の花弁を集めるのに道具を使っちゃだめって決まり、ないんです」


 薄紅色の花弁は優に三十枚はありそうだ。

 今日、この場で会うことを桜の花弁に賭けていた。もう一つの願いは、きっと残り全部をかけても難しいかもしれない。


「これで、一生のお願いをします」


 葵は散りゆく桜を見上げた。

 返事も相槌もなくて構わない。彼が耳を傾けてくれるだけでよかった。

 どんな形であれ、佐久田の選んだ道を否定したくない。正体を明かさないことも、彼が戦地に行くと決めたことも、背中を押してやればよかった。それができないのは我が儘な葵がいるからだ

 臆病で、すぐに揺らいでしまう葵はどうしても自分本意な願い事をしてしまう。


「私より先に死にませんように、って。もう、あんな思いはこりごりですから」


 葵なりの譲歩だった。死なないでください、と言うのは酷だろう。彼には彼らしくいてほしかった。邪魔になるのなら、正体を明かしてほしくないとさえ思う。


 かつて、恋は勝手にするものだと聞いた。

 愛は相手と自分がぴたりと合うものだとも。

 それなら、葵は恋のままでいいと思った。彼が隠すというなら、葵の愛はぴたりとはまらない。

 だから、葵は精一杯の笑顔で見送ることにした。例え、彼の目に自分が映らないとしても、笑顔で別れたい。

 後押しするように強い風が吹いた。桜がざわめき、傘が揺れる。


「どうかお元気で」


 笑ったのに、涙がこぼれる。

 情けないなぁと眉を下げた葵は傘を片付けようと背を向けた。止まることを知らない粒をぬぐったら、情けない決心がばれてしまう。

 葵の手をあたたかい手が引いた。息を飲む間もなく、背中に熱を感じる。

 息づかいに、匂いに、伝わる鼓動に目眩がした。耳の間近で聞こえたものは、思い出よりずっと低いものだ。


「本当は」


 彼は血を吐いているのでは思えるほどの悲痛な声で繰り返す。その後の言葉は続かない。

 葵が顔だけ振り返れば、合わない目が必死に何かを探している。

 葵は手首をつかむ手に反対の手を重ねて体を返した。切れ長の目を真っ直ぐに見つめ、はい、と相槌を打つ。

 上がり気味の眉は下げり、眉間には深い皺ができる。何度か口が開いたり噛み締めしても、葵は続きを待った。

 震える指先が目尻を撫でる。


「駅で別れる時も、本当は、こうしたかったんです」


 溢れ出た言葉は弱々しかった。

 葵は撫でられた涙が何だかくすぐったく思えて笑ってしまう。


「では、お願いします」


 小さな滴は頬をすべり、彼の指にすくわれた。

 葵の笑顔に少しだけ頬をゆるめた彼は申し訳なさそうに瞼を伏せる。


「きっと迷惑をかけますよ」


 ずるい、と葵は思った。この先なんて願っていなかったのに、彼は未来の話をしている。

 夢だと縮こまる心を頬に触れる手があたたくとかした。高鳴り始める胸を隠すようにうつ向いて、必要がないのに、我が儘な心は意地をはる。


「私より先に死なないなら許します」

「……善処します」

「善処してください」


 疲れた声を出した人の楔になって、と葵は心の中で願った。細心の注意を払って、悟られないようシャツを摘む。


「佐久田さん?」


 葵が覗きこんで訊くと、泣きそうな顔で儚い声が返ってきた。

 瞬いた葵の瞳に鳶色が映る。


「やっと、つかまえました」


 花弁がたゆたう傘にはそらと二つの笑みが咲いていた。



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