弐拾伍 朝焼け

「山瀬ぇ、もういいぞー」


 場違いなほど呑気な声が響いた。鼻を赤くした匠だ。

 声に反して、宙に浮いた体はぎりりと音がしそうなほど締め付けられた。


「これは重要な参考人なんだ。まだまだ捕まえたい奴は山程いんだよ。全部吐かせてから、あの世へ送ってくれ」


 間延びした声で、極悪非道な言葉が叫ばれた。

 しばらくして男は地に落とされる。

 あらかた片付いたか、と匠は尽かさず指示を出して下官に拘束させた。

 山瀬の姿を探せば割れた窓の向こうに立っている。遠目なので表情までは読めないが、大きな怪我は無さそうだ。

 鼻で息をついた匠は踵を返して葵達の方へ向かってきた。

 匠の顔を見た葵は青ざめる。


「どうしたんですか、その怪我……匠さんも戦って――」

「いや、ちょっとばかり殴られただけだ」


 赤紫に腫れた頬が痛々しい匠は被せて答えた。

 葵は嘘をつくなと睨む。


「どなたからですか」

「それを言ったら殺される」


 匠は気持ちのいい笑顔で誤魔化した。


「ころっ……! もう訊きませんから何も言わないでください」


 不吉な言葉に葵は引き下がった。

 匠は葵達の無事を確認して、フミの毒を浴びながらも平気な顔でお疲れさんと片付ける。

 葵はその隙に紗代を女中に頼んで、山瀬の元に駆けた。階段を上り、開け放たれた扉の向こうに、腕をまくる姿を見付ける。


「怪我はありませんか」


 わかってはいたが、確認せずにはいられなかった。

 はい、とだけ山瀬は答える。

 素っ気ない対応にもめげずに葵は頭を下げた。


「助けていただいて、ありがとうございます」


 今度は返事ももらえなかった。

 顔を上げた葵は話題を探す。口を開き掛けようとした時、何かが唇に触れた。

 山瀬の乾燥した指が口端をかすり、頬を撫でる。

 身動きの取れなくなった葵は山瀬から目が離せなくなった。

 山瀬の伏せられた目に悲しい色を見つける。理由を見付ける前に、山瀬の口から言葉がこぼれた。


「泣かないでください」


 葵は戸惑った。泣いてなどいないからだ。

 親指が涙をすくうように動き、離れたそこには血がついていた。硝子が降ってきたときに怪我をしていたのだろう。

 頬についた血をどうして涙と思うのか。

 一つの可能性に辿り着いた葵は山瀬を見返した。やはり、目は合いそうで合わない。


「目が、見えないんですか」


 気付いたら、口にしていた。

 葵の問いに山瀬の目が揺れる。答えはなくとも、見えない目は如実に語っていた。


「どうして……どういうことですか? ちゃんと歩けているのに、なんで」


 山瀬の瞳に、悲痛に顔を歪めた葵が映る。

 しかし、彼にはそれが見えていない。


「先の戦争で失ったんだ。生きて帰れただけでも儲けもん、てな」


 後ろからの匠の声に葵は振り返らなかった。

 山瀬に問うように無言で目を見つめる。

 匠が後ろから肩を持ち、呼んでるぞと促されたが、それでも葵は動けなかった。

 盛大なため息が背後から聞こえ、葵の横を通り過ぎていく。顔をしかめた匠が山瀬の手を取った。

 血なんかつけて何してんだよとぼやき、葵に教えてやる


「目が見えなくてもな、異能を使ってるから歩けるんだ。見えない糸を網目状に張って、触れたものを感じ取ってるんだ。繊細で、集中力がいる。まぁ、追跡には持って来いの能力だな」


 葵は何も言えなくなってしまった。知らなかった、はただの甘えだ。

 山瀬は優秀な軍人の内の一人だと思い込んでいた。異能が使えて、何でも簡単にできるとも勘違いしていた。身勝手にもほどがある。

 神から授けられた異能は命を燃やすという噂を聞いた。現に異能持ちは短命な者が多い。


「死なないですよねっ」


 思うよりも先に声が出ていた。声の大きさも相まって、葵自身が耳を疑った。慌てて言い訳を並べる。


「すいません、誤解を生むようなことを言ってしまって、あの、違うんです。異能は命を燃やすと聞いたことがあってですね、だから、その…………死なれたら困ります」


 と言いたかったんです。肩身の狭い葵は体を小さくした。

 壊された窓から雪が舞い落ちる。

 凍てつく寒さを吹き飛ばすように、ふはと声が吹き出した。

 そっと上げた目に映ったのは目尻に涙をためた匠だ。


「怖じ気ついてるかと思えば、案外図太い性格なんだな。安心しろ、異能は死ぬ前に倒れるんだよ。無茶な使い方をしなけりゃ死ぬこたはまずない」


 匠は腹を抱えながら教えてくれた。

 山瀬は背を向けて震えている。

 葵は二人を見ないように視線を斜め下に落とした。

 十二分に笑い終えた匠は押さえ込むように葵の頭を撫でる。


「今まで付き合わせて悪かったな。縁があったと思ってくれ」


 これは別れの言葉だ。葵は直感した。顔を上げられずに小さく礼をする。


「お世話に、なりました」

「世話になったのはこっちだよ。三浦嬢から聞いたんだろう?」


 葵は俯いたまま頷いた。

 顔は見えないのに、匠が笑ったような気がした。


「じゃあ、俺達はまだ仕事あるから。今度から余計なことに首を突っ込むなよ」


 呆気ない別れの言葉だった。山瀬にいたっては一言もない。

 葵は精一杯の笑顔をはり付けて頭を下げた後、踵を返した。


。゚。゚。❀。゚。゚。


 馬車に乗った帰り道、フミは説明の続きをしてくれた。

 智昭の秀でた聴力が樹族達にいいように使われていたこと。捕まらないようフミの父が外国に逃がしたこと。組織を炙り出すために智昭が暗躍したこと。


「智昭が捕まらないとなったら、今度は葵を餌にしようとした。邪魔な護衛を離すためにその子を誘拐したんだろう。形振り構わずに動いたら、一網打尽にされた、と。陳腐すぎてネタにも使えない話だな」


 フミの遠慮のない言い草を指摘するものは誰もいなかった。気遣うように微笑したフミは腕を組み、目を閉じる。

 実感のわかない葵は紗代の背を撫でながら無意味に床を見つめた。

 汽車で来た道を馬車で帰るのは、当分の間終わりそうにない。

 白い月を見上げる恵子はとつとつと話し始める。


「わたくし、恋がしてみたかったの。うちの人達はあれだったから、男性に夢見てみたかったのよ。だから、共学の高等師範学校に行ったの」


 ひどい理由でしょう。そう溢した声はひどく弱々しい。月を映していた瞳が窓に映る自身を見る。


「ずっと前に、色恋や噂にかまけるなんて、きちんと働いている人に失礼よって言ったことがあるでしょう。あれ、わたくしのことだったのよ。笑えるわよね」

「何だかんだ言ってるが、今はしっかり働いているんだから、帳消しだろう」


 両目を閉じて聞いていたフミが子供の戯れ言を指摘するように言った。

 葵の頷きに、恵子はうすく笑う。


「ちゃんと仕事をしようと思えたのは葵さんのおかげよ。フミさんもでしょう」


 フミは否定しない。

 虚を疲れた葵は瞬きを繰り返す。

 恵子は幼子のように笑って、わざと葵を指さした。


「葵さんは何もできないって嘆くけど、そんなことはないって、わたくしはよぉく知っているのよ」


 フミは閉じていた目の片方だけを開けて、葵を見る。


「図書委員を四年間勤める根性もあるしな」

「大人しそうに見えて生徒に説教だってするし、運動会では勇姿を見せてたわ」


 葵は恥ずかしくなって俯く。綱引きをして、大声を出していたことだろう。

 背もたれに体を預けた恵子が顎を上げる。


「佐久田さんが亡くなっても前を向いた時は敵わないって思った」

「勝負ではないけどな」

「フミさん、わたくしは真剣な話をしているのよ!」

「その調子だ。しおしお菜っぱは恵子さんらしくない」


 奮起した恵子に笑ったフミは、余計なことを言ってからかう。


「私も生徒を叱る恵子さんから元気と勇気をもらえます」

「……微妙だけど、ほめようとしてくれる気持ちは嬉しいわ」


 葵の励ましに、恵子は乾いた笑みを浮かべた。


「さて。ほめ殺しはこれぐらいにしようか」


 笑いを納めたフミが葵の膝に視線を移す。

 小さな手で目をこする紗代が身を起こそうとしていた。寝ぼけ眼に明るい陽が映りこむ。


「あーちゃん。おなかすいたぁ」

「疲れたねぇ。帰ったら何か食べようか」


 葵は紗代の笑顔に頬をゆるめた。

 痛む後悔もすすり泣くさみしさも朝日があたためていく。



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