弐拾参 神隠し

 葵は慰霊碑の前で立ち尽くした。

 二年前の今日が、佐久田と会った最後の日だ。亡くなったと聞いても、死に顔を見たわけではない。わかっているのに、信じていない心にけじめをつけるために訪れた。

 巨大な石の前には寺の者か遺族の者かが花を供えられ、水受けは澄んでいた。戦勝したといっても無傷で終わるわけではない。終戦後一年以上たっても、色褪せない傷跡がここには刻まれている。線香はとうに灰と化していたが、空気に匂いが染み付いていた。

 初めて来たが、さみしい場所だと葵は思う。

 昼過ぎということもあり、墓地には人影がなかった。慰霊碑のてっぺんを見上げ、視線を下に落とす。風に促されて顔を風下に向ける。

 慰霊碑の横に立つ石盤には、戦没者の名前が並んでいた。

 水桶を置いた葵は顔もわからない人の名前を順に読んでいく。わかっていたはずなのに、あってほしくないと願っていた名前を見つけた。また、何かが崩れ落ちた気がする。

 じっと眺めていても名前が消えるわけでもない。持ってきた花を仲間に入れてやり、寒かろうとかける水は少しだけにした。線香に火をともし、手を振って熱だけを残す。

 風もないのに、煙は揺れていた。

 少しだけそれを眺めた葵は積もった灰の上に線香を置く。細く息を吐き、頭を空にしてから両手を合わせた。一拍だけ時間をおいて、すぐに両手を離す。膝を折ったまま上を見上げれば、血の通わない石が見下ろしてきた。

 『戦没者慰霊碑』は心の拠り所になるのだろうか。霊はいるのだろうか。残された者の自己満足ではないのか。自分が立てたわけでもないのに、葵は自問を繰り返す。

 煙は風にさらされ、どんどん消えていった。


「何処で亡くなったのでしょうね。……寒くはありませんか」


 たった一人でたたずむ葵は戦地で散った学友へ問いかけてみた。予想通り、期待した返答は耳に届かない。

 ただの学友だ。彼にとっても葵にとっても、その枠を越えることはしなかった。入学式で出会い、同じ図書委員をしていただけだ。男女で組を分けられていたし、後ろ指をさされるのが嫌で距離は取っていた。隣で笑いたいと願うなら、もうあの世に逝くしか叶わない人となってしまった。

 終戦から遅れて帰ってきた手紙と桜の花弁だけが残された唯一の繋がりだ。

 戦地で咲く桜を相手に集めた十枚を送ってくれた彼はどういった気持ちだったのだろう。手紙の文字だけでは汲み取れなかった。

 もう確かめられない事実は葵の目頭を熱くするには十分な理由だ。

 白い欠片が舞い落ちる。思い出にひたるばかりではなく、幻まで見始めたかと葵は自分に呆れた。

 白い欠片が頬で溶ける。

 雪だ。


「冬に桜はないか」


 溶けた雪が頬を伝い、光る一筋を作る。やわらかく突き刺さる冷気が心地いい。それに生を感じた葵は涙をこぼした。少しだけ、とそれを許す。

 雪は静かに降っていた。


。゚。゚。❀。゚。゚。


 家の前まで帰ってきた葵に目もくれず、姉は暖簾をかき分け開口一番に叫んだ。


「ねぇ、紗代さよを見なかった?」


 背負った甥が姉の声に驚いて泣き出すが構っていられない様子だ。

 姉に家族が駆けより、葵も加わる。


「見てないけど、いなくなったの?」

「井戸から水を汲んでる間に消えたのよ。ここにもいないなら、何処かで迷ってるしか考えられない」


 姉の言葉に家族は騒然となる。


「雪も降ってるのに、風邪でも引いたらどうするんだ」

「溝にでも落ちたら凍え死んでしまうよ」

「まさか、神隠しじゃ……」

「しばらくの間、その話を聞いてないわ」

「ここの近くなら、神社でかくれんぼしてるのかも」


 父も母も顔を曇らせ、弟は探してくると飛び出した。

 葵も居ても立ってもおられず、足を外に向ける。


「知り合いにお願いして来る」

「お願い。今日は赤い花の着物を着させてたから目立つと思う」


 頷いた葵は必死になって地を蹴った。

 泣き声が聞こえて、紗代かと思って振り返る。泣き叫んでいたのは男の子だ。転んだ所を母親が抱き起している。


「怪我してないといいんだけど」


 不安を口にした葵は息も忘れて駆ける。家の門をくぐり、庭先にいる辰次を見つけた。肩で息をしながら、挨拶を飛ばして訊ねる。


「辰次くん、お父さんいらっしゃる?」

「今は大家さんの所に手伝いに行ってるんだけど……どうかした?」


 小さな雪玉を作っていたのを止めて、辰次は不安そうな顔をする。

 葵に生徒を気遣う余裕はなかった。膝に手をつき、懇願する。


「私の姪っ子が行方不明で、人手を集めてほしいの」


 目を見開いた辰次は顔を引き締めた後、慣れた様子で問いかける。

 

「名前は? 何歳?」

「紗代と言って、四歳の女の子。今日は赤い花の着物を着てたって」

「わかった、父ちゃんに言ってくる。何かわかったら、先生の家に伝える」


 辰次は弾かれたように駆けていく。

 見送る暇もなく、葵は目ぼしい所を探し始めた。駄菓子屋、小間物屋、途中で弟に会ったが、見つかってないと伝えられた。寺に、猫の集会所を探しても何処にも紗代の姿はない。

 屋根に積もる雪が厚さを増し、陽が沈み始めていた。

 とにかく人手を集めたいと思い、葵は周りに首を振った。目当ての人が見つからず、誰もいない林に向かって声をかける。


「山瀬さん、助けて下さい。山瀬さん、お願いします」


 何も動きはない。諦めかけた時、落ち葉を踏みしめる音が聞こえた。

 反射で顔を向ければ、山瀬の姿が映る。


「山瀬さん、お願いです。紗代ちゃんが、姪がいなくなったんです。三歳の子で何処に行ったか全く見当がつかなくて。今、皆で探しているんですけど、見つからないんです」


 山瀬に駆け寄った葵は恥も外聞もなく訴えかけた。


「わかりました。できる限りのことはします」


 低い声に安心を覚えた葵はお願いしますと深く礼をして、また走り出した。頭を回して紗代の居そうな場所を考える。しかし、探す範囲が広すぎて定まらない。

 葵の脳裏に友人達の姿が思い浮かんだ。恵子とフミならきっと助けてくれる。確信した葵は歩幅を広げた。



 胡桃谷邸に着いた葵は脱力した。


「あーちゃん!」

「何でここにいるのよ」


 必死に探していた紗代が楽しそうに恵子と遊んでいたからだ。


「あら、葵さんのお知り合いなの? かわいいわね。さっきそこで泣いてて……」


 庭先を指さし、にこやかに話していた恵子の顔が一変した。嘘でしょうと驚きに見開かれた瞳は駆けてくる長兄の姿を映している。


「葵さん、お逃げになって」


 葵は恵子が言っている意味がわからなかった。紗代に裾を引かれ、そちらに気を取られる。


「四の五の言っている場合じゃないの、早くッ」

「恵子! 何を勝手なことをしている!」


 二つの声に追い立てられるように、葵は紗代を抱え上げた。子供を抱えた走りが軍人に勝てるわけがない。すぐに追いつかれ、紗代を奪い取られそうになる。


「いたい!」


 紗代の悲鳴に思わず手を離したら、葵の手は空を掴んでいた。

 泣き叫ぶ紗代を力任せに担いだ男は高い位置から葵を見下ろす。


「この子を無事に帰したいなら、大人しくついて来てもらおうか」


 足がすくんだ葵の肩を持ったのは恵子だ。


「お兄様、これはどういうこと! その子を離して!」

「お前には関係ない」


 見下した言葉に恵子は顔を朱に染めた。葵の前に立ち、兄に対峙する。


「わたくし、知っているわ。まさかとは思っていたけれど、神隠しの犯人はお兄様だったのね」

「……勝手に書斎に入ったのか」

「隠したいものがあるのに、鍵をしなさいよ」

「偉そうな口を聞くなッ」


 怒鳴り声と共に、太く鋭い音が響いた。

 葵の前から、恵子が吹き飛び地に伏す。頬には赤い手の跡がつき、体の震えが平手の非情な痛みを物語っていた。

 駆け寄ろうとした葵の腕は後ろから掴まれる。振り払おうとするが、骨がきしむ程に力を込められた。あまりの痛さに呻き声が出る。

 紗代は恐怖のあまりに声を失くして震えていた。

 抵抗虚しく、葵達は煉瓦造りの納屋に押し込まれる。それも僅かな時間で、他の男達に体を縛られ口元に布を巻かれた。顔には麻袋に被せられる。寒さからか恐怖からか震えが止まらない。

 恵子は手に噛みついて抵抗したが頭の横を叩かれ意識を失った。それを見た葵は身動きがとれなくなり、成されるがままに縄を巻かれた。

 何も見えない状態で、箱に押し込まれ、蓋をされて運び出された。誰かのうめき声が聞こえたが、恵子のものとも紗代のものともわからない。

 つみ込まれた所が馬車だと気付けたのは、いななきが聞こえたからだ。体を箱にぶつけ、息の苦しさに吐き気を覚える。限界だと身をよじった時、馬車から運び出された。場所が移動した恐怖に葵は怯える。


「おい、降りるぞ」

「本当にキューが釣れるのか」

「釣れなくても釣るんだよ、阿呆」


 勝手な会話をした男達の気配が遠のいていく。悪人が何処かに行くのだから安心を覚えればいいのに、取り残された心地になってしまう。

 轟いた音に意識を手放しそうになった。寸前のところで汽車の音だと気を強く持つ。

 何も見えない視界では汽車の行き先はわからない。北の凍てついた地か、南の海の果てか。

 無限に広がる闇は心を弱くする。

 あまりの恐怖に、葵は空を飛ぶ色を求めてしまった。



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