弐拾弐 確認
花は散り、虫は姿を消し、若葉は落ち葉へと移り変わる。匠に忠告されてから数ヶ月が立っていた。
帰り支度を済ませた葵と恵子は夕陽を眺めながら、帰る元気を蓄えている。
「一年の半分がもう過ぎてしまったことも恐いけど、あと半分も残っていることも辛すぎるわ」
「来月は運動会ですね」
「笑う元気、残っているかしら」
「残っていてほしいですねぇ」
普段通り仕事をこなした二人は疲れはてていた。夕陽が目と心に沁みる。
「お若い二人が何をおっしゃる」
鍵を締めた
「和泉せんせー。男の子ってどうして駄目ってわかっているのに、悪さばかりするんですか」
恵子は屋根に上ろうとした男子生徒を降ろすことに全体力をそそぎへとへとだった。二階から落ちたら怪我では済まないと訴えかけても聞く耳を持ってもらえなかったのだ。
熟達した玄人に泣きつきたくなる気持ちもよくわかる。
「面白そうだと思ったらやってしまう子もいますからねぇ」
何とも呑気な答えに恵子の目が遠くなる。
葵も自分よりできた弟のおかげで、予想外なことをする男の子の心理はよくわかっていなかった。
和泉は二人に言って聞かせる。
「言わないだけで、意外と理由がある時もありますが」
鴉の鳴き声に三人は顔を上げた。小さく飛び、屋根の上を転々とする。口には何かをくわえられていた。
目が悪い葵に見えるわけがなかった。
目を眇めた恵子は頭を傾ける。
「……鉛筆?」
応えるように鴉が鳴き、鉛筆が地に落ちた。
鉛筆の名前を見た恵子は絶句する。
「今回は投げ上げた鉛筆が取りたかっただけかも知れませんね」
恵子の手元を確認した和泉は苦笑した。
わずかに立ち直りはしたが、恵子はまだ底に落ちたままだ。
「言ってくれたら取るのに……鉛筆ぐらいのことで屋根にのぼるなんて……ありえない」
「言いにくかったこともあるでしょうし、自分一人でできると思う子もいますから」
和泉はなぐさめるように言ったが、葵も理解が追いつかなかった。疑問が口からすべり出てしまう。
「周りに心配をかけてもですか」
「ええ。男は見栄っ張りなんですよ」
隠し持っていた秘密を暴露するように和泉は得意げだ。
だんだんと可笑しくなってきた葵は小さく笑い声を上げる。
「和泉先生も男の方です」
「ええ、私も見栄っ張りです」
夕陽のような笑顔は胸を張って言った。
恵子が自力で立てるようになるまで待って、三人はそれぞれの帰路につく。
なんとなくではあるが気配を察するようになった葵は足を止めずに顔だけ振り返る。茜色に染まる帰り道で視線を感じたからだ。気付かないふりをして足を運ぶ。
きっと山瀬が処理してくれるはずだ。いつものように驚異になりうる前に居なくなるだろう。
しかし、葵の予想は外れる。
「お嬢さん、そんなに急いで何処に行くんだい」
気配はすぐに声をかけてきたからだ。
「はい?」
葵は素っ頓狂な声を出した。回り込んできた岩のような男に覚えは無いし、何処に行くかを知ってどうするのだと思う。
「ああ、帰っている途中か。俺が送ろう」
答える前に勝手に解釈した男は葵の荷物を取って前を行く。
かすめた手に葵は鳥肌が立った。一拍遅れて目で追えば、男はずいぶん先にいる。返してもらいたいのに声が出ず、大股で歩く男を追うのがやっとだ。
男は葵の様子を気にもとめない。荷物を振り子のように振り回し、矢継ぎ早に話し始める。
「見かけた時に、いつも大きな荷物抱えてあるから気になってたんだ。たまに鼻歌を歌いながら帰っているだろ。懐かしくなっちゃったよ。そうだ。小さい子と歩いてる時あるけど、あの子、妹? まさか子供じゃないよな」
野太い声は葵の耳を通り過ぎ、切れ切れになった言葉が頭の中で渦を巻く。
逃げ出したくても、葵にはできなかった。荷物の中に生徒達の作文があるからだ。焦りと不安で何も思いつかないまま必死に男を追いかける。
視界の端できらりと光るものがあった。近づくにつれてラムネ瓶が転がっているだとわかる。
不可思議なことが起きた。
捨てられていただけの物が、風もないのに向きを変え、誰にも蹴られていないのにこちらに転がってくる。目を疑っている内に、ラムネ瓶は男の足下に滑り込んだ。
見事に踏んだ男は、どっと土煙を上げながら転がった。丁寧に荒物屋の柱に体をぶつけて、屋根から降ってきた籠が男の上で山となる。
皆が唖然としている隙に葵は男から荷物を取り戻した。息を整えていると、店の奥から怒鳴り声が聞こえる。
「ごめんなさい!」
葵は一言叫んで、転がるように家に帰った。珍しく客のいる店を通りすぎ、自室の戸を閉めてへたり込む。男には申し訳ないが、安心して笑みがこぼれてきた。
ラムネ瓶の動きを頭の中でさらう。何度考えても、心当たりは一つしかない。
息を吸って全てを吐き出した後、葵は決心をした。
。゚。゚。❀。゚。゚。
次の休み、葵は陸軍第一師団駐屯地に足を踏み入れていた。匠の名前を出して、面会室で待つ。
時間を置かずして、匠は姿を見せた。帽子を取った姿は久しぶりだ。
葵は立って一礼をする。
匠はどうもと首をかき、座るように促した。
「困り事でもあった?」
匠はこの上なく面倒くさそうに言った。約束をしたのを反故するような態度だ。
膝に置いた手を握り直した葵は匠を真っ直ぐに見た。意を決して単刀直入に言う。
「佐久田さん、生きてますよね」
彼の名前を出す時、葵の声は震えた。
返ってきたのはあいまいな笑顔だ。感情を隠すこともできたろうに匠は口を閉ざしたまま、不完全な弧を描いていた。
悲痛な表情に葵の胸は締め付けられる。眉を下げたが、目は匠からそらさなかった。
「すみません、出過ぎたことを訊きました。でも、どうしても確かめたくて」
「理由は?」
感情の削ぎ落とされた静かな声が訊ねた。
一瞬迷った葵は再び匠を見据える。
「……彼の異能が、助けてくれた気がするんです」
ああ、と匠は力ない言葉を吐き出した。
「勝手だが、君のことは調べさせてもらっている。
匠は見せつけるようなため息をついて、再び口を開く。
「あの異能は珍しいものでもないからな。俺が知ってる奴でももう一人いる」
そう言った顔は苦しそうに眉間に皺を寄せて笑っていた。
葵は信じられなかった。彼の人が助けてくれたとばっかり思い込んでいた。
「もう一人って……山瀬さん、ですか」
「そうだよ」
返事は淡々としていた。
葵はすがるように匠を見る。
「山瀬さんが……佐久田さんっていうことはないですよね」
「あんな無愛想で厳ついのと一緒にしてやるなよ」
「でも――」
食い下がる葵に呆れたような目が向けられる。
「あんなに顔も姿も声も違うって言うのに同じわけがないだろう。それともあれか? 生まれ変わりってやつか? 残念ながら、山瀬も詞も同い年だからあり得ない」
じゃあ、どうしてと葵は呟いた。
「首を突っ込むのは君の悪い癖だな。善意でやってると言うなら尚更、質が悪い。弟の死が覆るなら、俺だって何だってするさ。でも、もう無理だ。あいつは死んでる」
匠は顔の中心に皺をを作り、泣くように笑っていた。
葵はそれ以上、何も言えなくなる。
山瀬に確認すればよかったのだろうか。前のように背を向けられたら、耐えれそうになかった。
だから、匠に訊いた。匠の傷を抉ったことが申し訳なかった。何より、希望を掴みかけていた心が悲鳴を上げている。臆病でずる賢い自分が滑稽だ。
気持ちを紛らわすように葵は震える口を動かす。
「すみません。変なことを言ってしまいました」
「いや、弟のことを想ってくれたんだろう。ありがとう」
匠のやさしい色に佐久田が重なった。
鼻の奥がつんとした葵は顎を上げ、匠から視線をずらす。
「匠さんは佐久田さんが関わる時だけ優しい気がします」
「君、余計なことを言うってよく言われるだろう」
葵の強がりを匠は苦笑して許した。
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