拾陸 手紙
逃げ出した次の日が騒動の始まりだった。
「空木
と辰次が毎日押しかけて来る。
彼が高等師範学校に来ていると聞いた葵は天地がひっくり返るほど驚いた。
最初は子供の戯れだと、皆相手にしなかった。帰るように促すが、二日三日と続く。昼間は見かけないが、朝と夕方に必ずに現れるらしい。校門で、正面玄関で、裏庭で、誰彼構わずに探し回っているという。
注意されても、とにかく威勢がいい。目を白黒とさせていた周りもなぜか辰次の健気さにほだされておやつまで与えているとフミはげんなりとしていた。
「葵さん。あの子、何なの」
意気消沈している葵に深くは触れまいとしていた恵子も訊ねたぐらいだ。
「尋常小学校三年、
葵は寝ころんだまま棒読みで返した。
同室の手ぬぐいを変えてやったフミも呆れた顔だ。
「あの坊主、朝は寮の前で大声を張り上げてくれたもんだから、眠気が吹き飛んだよ」
「休めるものも休めない」
かすれた声で呟いた葵は項垂れた。額にのった手拭いが落ちたので鉛のように重い腕を動かして元の場所に戻す。
手伝いを辞めたいと言った日から葵は熱を出して寝込んでいた。高熱とまでいかないが、熱と平熱を行ったり来たりと安定しない。
今朝がたの元気な声も布団の中からよく聞こえた。
気の毒に思った誰かが寮生だと教えたのだろう。さすがに寮の中には押し入っては来ないが、よく摘まみ出されないものだ。
恵子いわく、今は寮の玄関先で大人しく胡坐をかいて待ち伏せをしているらしい。
葵も出れるものなら出ていきたいが、体が言うことを聞かない。こんな状態で子供の辰次を招きいれるわけにもいかず途方に暮れていた。
学校の宿題は大丈夫なのだろうかと変な所が心配になる。
器用に片眉を上げたフミは口を開く。
「寝込んでいると伝えたんだがな?」
じゃあ、どうしてと葵の力ない声はため息まじりだ。
フミはやさぐれる友にほろ苦い笑顔で教えてやる。
「空木先生から聞くまで信じない、だとさ」
「ひねくれていると言うか、かしこいと言うか」
恵子は呆れているのか感心しているのかどっちつかずの感想を言った。
葵も同意見であるが、声を出す元気もない。二人にじっと見下ろされ布団の中で身じろきした。
「愛されてるねぇ、空木先生」
「やめてくださいよ、フミさん」
「もてる女は違うわね、空木先生」
「もう、恵子さん。からかわないでください」
小さくむくれる葵に二人が同時に吹きだした。
丸くなる目に友の笑みが映る。
「久しぶりにつまらない話ができて安心したな」
「つまらないなんて失礼ね。楽しいお話、でしょ?」
友人たちの明るい笑顔に葵は泣きそうになった。
何にも縛られない表情は久しぶりだ。ずっと葵の心配ばかりさせていた。
彼女たちの気遣いを肌で感じて、自分の行いを反省する。
「立ち止まる暇なんてないのね」
恵子が窓のから下を見て言った。その先には件の子が胡坐をかいているだろう。
「事実は変わらないからな」
フミが瞼を伏せて微笑した。
事実を蔑ろにしているわけではない。どちらにも目に見えないさみしさが香っていた。
振り返った恵子の目尻に光るものがある。
葵はまぶしさに目がくらんだ。
「わたくし、葵さんと一緒に先生になりたいわ」
「私はいらないんだな」
「空気を読まずにそういうことおっしゃるのよくないわ」
「こう言うべきなんだろう? 三人で先生になろうってな」
聞きなれた掛け合いはいつも通りの調子で小気味いい。
葵はどう返事するか迷う。前に進むべきだと思うが、きっと足手まといになる。そんな姿を見せても、二人は気にしないはずだとわかっているのに飛び込めない。
握られた布団は皺だらけだ。
顎に手をやったフミが我関せずといった体で文句をつける。
「とんだ三文芝居だな」
聞いた途端に恵子が眉をつり上げ、きゃいきゃいと子犬の喧嘩のような会話が始まった。
力が抜けた葵は頬をゆるめてしまう。きっと足手まといになっても、二人は鼻で笑って手を引いてくれる。皆でなろうと言ってもらえるなら、もう少し頑張ろうか。頑なだった心が少しほぐれた。
「少し窓を開けていただけますか」
恵子は虚を突かれたような顔をしたが、もちろんと葵に従った。
葵は新しく入ってきた空気をしっかりと吸いこみ、ゆっくりと吐き出し、もう一度吸った。精一杯の想いを込めて、あらん限りに声をふりしぼる。
「辰次くん。元気になったら行きますから、覚悟してくださいね」
葵の行動に恵子もフミも瞠目する。
「葵さんが大声張りあげているの初めて見たわ」
「無茶すると喉をつぶすぞ」
むせた葵は滲んだ涙を叫んだせいにする。
「ちょっとすっきりしました」
葵は口端をわずかに上げた。誰にも気付かれないように心の中でうずくまる感情とわざと距離を取る。
「わかったあ。待ぁってるう」
間延びした声はあたたかく、窓から吹き込む風は肌寒く感じた。
。゚。゚。❀。゚。゚。
辰次に根負けした葵は手伝いを再開した。辰次がいなくなったら辞めようかとも思っていたが、聡い辰次は居残りがなくとも宿題を広げて取り組むという徹底ぶりだ。
蝉から鈴虫へ鳴き声が変わる頃、葵達は高等女学校の教育実習も終えた。確実に時は過ぎ、前に進んでいる。
手伝いに向かうために中庭を抜けていると視界に一枚の花弁が舞い込んだ。見覚えのある形に誘われ、顔を向ける。
枯れた並木を区切るよう空に広がった薄紅色。地面を赤茶の落ち葉が覆う。空の青は何処までも遠く、淡く咲いた花は赤茶の落ち葉に目もくれず、焦がれるように見上げているようだ。
見事な狂い咲にしばしの間、足が止まる。
「私も狂えたらいいのに」
意識せず呟いた言葉は空風にさらわれていく。
終業を告げる鐘が鳴った。いたる所から笑い声が聞こえ、教室から飛び出した子供達が駆けていく。
「廊下は走らない決まりでしょう」
「ごめんなさぁい」
けらけらと子供達は反省しない。
学校の外から追いかけるわけにも行かず、葵は息をつく。
子供達が笑える世の中になって、うれしいはずなのに素直に喜べない。自分の幸せが後ろめたいのは気のせいではなかった。葵の心は何処か冷えている。
労うよう白い一枚が視界に舞い込んだ。
狂い桜が散っている。花弁を十枚集めたら、佐久田は帰ってくるだろうか。葵は叶わない願いを夢想した。
桜より向こうに記憶が散らつく。瞬きした先には、鉄色があった。現実か夢か迷う葵の耳に子供達の笑い声が届く。
軍人は葵に向かって近付いてきた。見覚えのない姿に身構え、失礼がない程度に観察する。
軍帽から覗く髪は白く、しゃんとした老人もいたものだ。葵は最初、そう思ったがそうではなかった。距離が縮まるにつれて、顔付きが見えてくる。確かに髪は白いが老人と言うには顔付きが若すぎた。
軍人は適度な距離で止まり、敬礼する。
葵は底の見えない瞳に見下ろされた。
「陸軍遺品返還部です。空木葵さんですね。陸軍第三特殊部隊、佐久田詞士官の手紙を預かっております。お受け取り願います」
「手紙だけ帰ってきたんですね」
わかってはいたが、送り主のいない手紙ほどむなしいものはなかった。
白い男は何も答えはない。
手紙から視線を上げた葵は底の見えない瞳とぶつかった。見送った日の曇天を思い出す。
葵は最後まで何も言えなかったことを忘れた日はなかった。
「お勤めご苦労様です」
葵は白い男から手紙を受け取った。まだ、日に焼けていない。つい最近送られたようだ。
白い男はいつの間にか姿を消していた。
葵は手紙の不格好な文字を見つめる。中身を見るのが恐ろしい。
どうして手紙をくれたのかは気になる。手紙の内容も気になる。
それでも、終わりになるのは怖かった。
じっと見つめていた封筒にぽとりと水滴が落ちる。見上げれば、雨雲が高い空を隠していた。駆け抜ければ手紙が濡れる可能性がある。葵は慌てて屋根の下にもぐった。
雨はしばらく止みそうにない。
手紙を読むのは、雨のせいだ。
そう言い訳して、自分を甘やかした葵は深く息を吸って、細く吐いた。
空木 葵 様
しばらく会えていませんが、元気にしていますか。
僕のいる隊は本当に強い人ばかりで、負ける心配はないようです。少しは役に立てると思っていたのですが、そんなに簡単にはできていませんね。日々、精進を欠かせません。
教育実習は無事終わりましたか。空木さんはすぐに悪い方へ考える癖があるので心配しています。必ずやりとげられるとも信用しているので安心してください。
実は先日、桜を見つけました。異国で見る桜を不思議な想いで眺めてしまいました。桜を見るとあの日を思い出して、花弁を十枚集めてしまいます。言っておきますが、今回はずるをせずに手にすることができました。
この花弁を先生になる貴女へ贈ります。
これで、すばらしい先生になることは間違いありません。
今、鼻を赤くした空木さんを思い出して笑ってしまいました。風邪をひかないよう気を付けてくださいね。
佐久田 詞
封筒を覗きこめば、丁寧に折りたためられた油紙が入っていた。震える手で広げると、茶色に枯れた花弁が確かに十枚ある。桜というには不恰好で今すぐ壊れてしまいそうだ。
「自分の無事を願えばよかったのに」
葵はそれ以上言葉が出てこなかった。気の抜けた佐久田の笑い声が聞こえるようだ。
どうして帰ってこなかったのだろう。
どうして死んでしまったのだろう。
悲しいの一言では済まなかった。手紙を握りつぶして投げ捨てたかった。それなのに、額に擦り付けて、どんどん溢れる涙で濡れないように守っている。
こんな葵を見たら、佐久田はどうするだろうか。なぐさめてくれるだろうか。
違うな、と葵は思った。隣で笑いあいたい、と思った。このままでは隣にいけない。そんなのわかっていた。
「お天気雨だ!」
「空木せんせ、何してるのー!」
「晴れてるのに雨とか変なの!」
二階から子供達が葵を呼んだ。辰次につられて、葵はすでに先生と呼ばれている。
先生と呼ばれることはなかった彼といた時間は過ぎてきた。
悲しさを覚えて、さみしさを感じて、彼はいないのだと思い知る。
水で濡れた土は光に反射して輝いている。わずかにできた水たまりには雲一つない空が映っていた。
今の葵には少しだけ眩しくすぎる。
雨が降っているのに、空は晴れている。中途半端でどっちつかず。
葵は手紙を二つに折りたたんで、胸元にしまった。ぬかるんだ土に足をとられながら走り出す。
「ほら、濡れますよ。教室に入りなさい」
「先生に言われたくなーい」
空にはたくさんの笑い声が響いている。
きっと佐久田にも聞こえている、そう願った。
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