拾伍 逃避
教育実習をまずまずの手応えで終わらせた葵は小学校の廊下を歩いていた。教室の片付けを報告したら、実習は終了になる。手伝いに入っていたので、気心の知れた生徒がいたことも成功に貢献していた。二週間では物足りなく思ったぐらいだ。
後ろから駆けてくる音が聞こえる。足を止めて振り返れば見覚えのある姿が目に入った。
「どうしたの、辰次くん」
「忘れ物見つけたから先生に渡そうと思って」
筆箱を手にした辰次が葵の横に並んだ。
先に職員室に行く手もあるのに、憎らしいことをしてくれる。
辰次はへそを曲げたら少々手がかかるが、よく気付き、心配りができる少年だ。第一印象や先入観に惑わされず、ちゃんと見なければいけないと実感させられる。
「えらいですね」
葵がほめると、辰次は急に話題を変える。
「姉ちゃんって先生だったんだな」
失礼な物言いも慣れれば逆にかわいく思えてきた葵は気にせず話に付き合う。
「まだですけど、先生になりますよ。辰次くんみたいな可愛い生徒にいっぱい勉強を教えたいです」
「馬鹿にしてんの」
「ほめてます。ちゃんと私の話を聞いてくれていましたね」
葵は、予想通り言葉につまった辰次に笑みをこぼれた。
ほめられ慣れていない辰次は照れているだけなのだ。ほんの少しだけ赤い耳がその証拠だ。
怒らせないように心の中で含み笑いをした葵は辰次に合わせて廊下を進んだ。
佐久田も合わせて歩いてくれたことを思い出した。
何かとつけて彼を思い出す自分を誤魔化すように今後の計画を頭に整理する。
今回の実習を報告書にまとめて学校に提出すれば夏休みは目前だ。心の余裕があったおかげで昨日までの分は書き終えている。順調過ぎて、何か忘れていることはないかと不安になるがフミと確認しあっているので大丈夫だろう。
戦時中とはいえ、夏休みは夏休みだ。懲りずにやってきた図書委員に時間はとられるが、もう日常として骨の髄まで刷り込まれていた葵には問題にもならなかった。空いた隙間は家の手伝いと読書、次の教育実習にあてるつもりだ。
夏休みが明ければ、すぐに高等女学校の教育実習が始まる。その二週間を乗り越えたら、卒業したも当然だ。
想い描いた計画は順調すぎた。
今日はフミと夜更かしをしようかと葵は企む。
「姉ちゃん、怖い顔してる」
呆れた声に指摘された葵は慌てて顔を引き締めた。
葵が異変に気が付いたのは寮の自分の部屋まで続く廊下に入ってからだ。
素朴な寮に似つかわしくない恵子が立っている。この二週間、本調子のように見えなかった。やはり気を使わせていたと走り寄る。
「何かありましたか」
口早に訊ねた言葉に返事はない。
夕陽に照らされた廊下は紅に染められ、斜めに走る影が恵子を覆っていた。伏せられた顔の影も濃く、表情は闇に塗りつぶされている。恵子が果実のような赤い口を開く。
なぜか赤だけが闇に染まらずに葵の目に映る。
「黙っておくのも何だと思って言いに来たの。本当は教育実習の前にはわかっていたのだけど。でもっ、葵さんの邪魔になると思って言わなかった。恨んでくださってかまわないわ」
息継ぎもなしに言い訳を並べた恵子は顔を上げた。涙をにじませ、力強い意志を持った瞳が葵を射ぬく。
葵には息を吸い込む瞬間もはっきりと見えた。これから言われることを聞き逃さまいと本能が反応する。
「佐久田詞さんが戦地で亡くなられたそうよ」
息を吸い込んだのか、止めたのか、その感覚さえ遠いものだった。頭が拒絶するのに、葵は深い絶望にのみこまれる。
何か言おうとして、言葉が出なかった。何を言おうとしたかもわからない。
何か言わなければと理性が訴える。
「あり、が――」
恵子に礼を言わなければと発した音は形にならなかった。
あたたかいものが頬を伝い、落ちていく。
濁流を抱え恵子がもがき苦しみ伝えてくれたことが手に取るようにわかるのに、想いを返したいのに動けなかった。
「どうした、そろいもそろって」
意識の端で声を拾う。
音の方へ振り返ると、顔を硬くしたフミがいた。
「おかえ、りな――」
最後まで言うことができずに体が衝撃を受けた。
「葵さん、お願いだから、無理しないで」
「むり?」
葵が目を丸くすると、雫がひとつ落ちた。後を追うように次々に落ちていく。
恵子のよく手入れされた髪がすぐそばにあった。人の匂いに安心を覚え、見えるもの全てがにじむ。
「わかっていないのか」
フミの悲痛な声を初めて聞いた。なぐさめたいのに、顔を向けるので精一杯だ。
頭があたたかいもので撫でられる。
確かめたくても葵が見える世界は全てが歪んでいた。
しきりに謝罪の言葉を繰り返す恵子に手をのばしたいのに力が入らない。
「受け止めるぐらいはできる」
フミの声が葵のそばで響いた。
人肌の温かさを感じ、抱きしめられているのだと、やっと気が付く。成されるがままの葵はただ涙を流すことしかできない。
世界は赤く暗く、悲嘆に暮れていた。
。゚。゚。❀。゚。゚。
恵子が打ち明けてくれた一週間後、
その日は尋常小学校の手伝いの日だった。直前の準備から教育実習までは休みをもらっていたが、再開する旨を伝えている。
重い腰をあげた葵は笑い声が飛び交う中を進み、職員室の前で足を止めた。
立ち止まりそうになる前に、目的の場所に向かう。
深い皺がいくつもある教師は朗らかな顔で迎えてくれた。
小さく挨拶を返した葵の腕に骨ばった手が添えられる。強くはないが支えられているようだ。
「顔色がよくない。今日は休んで大丈夫ですよ」
躊躇したが、先延ばしにするわけにもいかない。葵は目を合わさないようにして口を開く。
「勝手を言いますが、もう手伝いを辞めようと思います」
言葉はすんなりとすべり出た。引きつってはいるが笑みも浮かべられているはずだ。
彼の人は弟を思い出すと笑顔になれると言っていた。そう言って微笑んだ顔ばかりが脳裏をちらつく。
添えられた手に力が入り、悲しむように教師は眉をひそめる。
「理由を聞いてもいいですか」
理由は口にするのは恐かった。葵は事実をまだ受け入れられていない。
「教育実習で何かありましたか」
「いいえ、よくしてくださいました」
頑なに口を開かない葵を案じた教師は励ますように言う。
「みんな、空木さんが来るのを楽しみにしていますよ。無理に引き留めるつもりはないのですが、子供たちがさみしがります。私も残念でもったいないと思います。ああ、それに
葵の無理に作った笑顔が崩れ落ちた。涙が溢れるのを寸前の所で我慢する。
瞠目した教師は葵以上に泣きそうな顔をした。悲報を初めて耳にしたようだ。
「失言でしたか」
肩を落とす姿に、葵は小さく首を振る。
「いえ、察せない僕がいけませんでした」
教師は申し訳なさそうに呟いた。
風に吹かれた風鈴が音を奏でる。研ぎ澄まされた涼やかな音色に二人はしばし心を預けた。
この一週間、葵は何も手をつけられていない。何かをしていたはずなのに、気付いたら立ち止まり時間がすぎている。そんな状態が続いている。
日が上がれば、枕は濡れていた。日が落ちれば、瞼を閉じるのが恐かった。授業は耳に入らず、少ないと陰口をたたかれるご飯は喉を通らない。我に返り、鉛筆を手にしても、帳面に染みができるだけだ。移動や着替えも恵子やフミが声をかけなければ忘れてしまう始末。
休まずに勤めていた図書委員も当番を代わってもらっている。
「辞めるのは構いませんが、お休みという形でも」
悲しみにくれた情けを乞う笑顔に、葵は応えることができない。
心が体が思い通りにならない。何もかもが辛く感じて、どうしようもない自分が不甲斐なくて、いっそのこと身を投げ打ってしまいたかった。家族や友の顔が浮かび、止めているにすぎない。
ここに来るにも足がすくんだ。図書室には近づくことさえもできていない。
いつまで続くかわからないのに、休むという形で残るのは気が引けた。本心をさらせば、何もかもを投げ出したい。それができない臆病な自分がいることも確かだ。
「姉ちゃん、辞めるの?」
幼い声に葵は
声のした方へ向ければ、辰次が立ち尽くしている。固く結ばれた口と拳は震えていた。見開かれた目は逃げようとする心を否定する。
葵は思わず目をそらした。
瞬時に顔を赤くした辰次は大声を上げる。
「先生になるって言っただろッ」
「辰次くん」
教師の咎める声に逆らい、辰次は葵に掴みかかる。
葵は振り払うことができなかった。すがるような瞳に、体が固まる。
「兄ちゃんが帰ってきたら先生になるっていうの?」
葵は否定することができなかった。
辰次のまっすぐな眼差しが心をすかし見るようだ。
あの時、あの教室で、辰次は葵の邪な気持ちを見抜いていたのだ。愚かな自分を呪いたくなる。
「辰次くん、やめなさい」
教師が諌めても、辰次は引かなかった。
瞳に憤りをたぎらせ、あらん限りの声と言葉で葵をつらぬく。
「兄ちゃんがいないから先生にならないなんておかしいだろッ」
「聞こえませんでしたか、やめなさい」
教師の叱声に歯向かい、辰次はなおも口を開く。
聞きたくない葵は、その場から逃げ出した。
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