拾肆  準備

 戦時中であっても、四年次の教育実習はなくならなかった。恵子やフミと一緒に入念な準備を重ねる。

 紫陽花が鮮やかに染め上がる梅雨、葵は胡桃谷邸の門をくぐった。あいにくの雨だったが、何度か通っているので迷うこともなく玄関に向かう。

 開けられた戸から出てきたのは大柄な軍人だ。

 町を行きかう姿で見慣れた葵は怯えることなく、深く腰を追った。


「お邪魔します」

「ああ、恵子の。ゆっくりしていってくれ」


 帽子のつばを軽く上げた男は足早に去って行った。余程急いでいるのか、外套ひとつだ。

 佐久田は濡れていないだろうかと心配になる。また思い出した葵は気まずさを誤魔化すように傘を閉じた。玄関を開けば、見送ったばかりの女中が丁寧に出迎えてくれる。

 女中に手土産を渡していると恵子が姿を見せた。


「葵さんいらっしゃい。お兄様を見かけなかった?」

「先ほど玄関先で会いましたけど」


 大柄な軍人を思い出して葵は答えた。挨拶をするぐらいしか関わりはないが、恵子の長兄の顔は覚えている。

 心配そうに眉を下げる葵とは逆に恵子は喜んだ。


「それならいいの。騒がしくしても大丈夫か確認したかっただけだから」


 恵子はいたずらっぽく笑うと奥へと葵を誘った。

 胡桃谷邸は荘厳とさえ思えるほどの空気で満ちている。磨きあげられた廊下や柱は長い年月と主の厳格さを示していた。

 恵子の父と次兄は戦地へ、母は他界し、姉は嫁に行ったと聞いていた。兄妹二人だけではさみしさを感じそうな広さだ。

 洋造りの離れの扉を開けるとすでにフミがくつろいでいた。

 今日は華やかに出かけられない分、着飾って茶を飲むという目的もある。炊事家事全般の能力が皆無なフミは昨晩、実家に帰って身支度を整えてきていた。さすがは貿易商の娘と言うべきか、ソファに似合う半結びにワンピース姿だ。

 フミに追加の飲み物も訊ねる恵子の装いも華やかにまとめられている。髪型は洋風な三つ編みを組み込み、着物は呉服屋の葵でも気後れするほどの一級品だ。

 余所行きの中でも一番の着物を選んだ葵は指先で布をいじった。

 制服の質素な袴姿に勘違いしそうになるが、装いを変えてしまえば、時代の先をいく大富豪の娘と由緒正しき家の令嬢だと浮き彫りになる。身分撤廃と垣根を取り払われたが、金と血筋は恐ろしいものだ。


「葵さん、お座りになって」


 心からの笑顔で迎える恵子を葵は拝みたくなった。


「どうした、葵さん。悟りを開くのか」

「ありがたい友人たちだなぁと感謝を」


 葵の突飛な行動に二人は破顔する。


「急に何かと思ったじゃない」

「本当、ばか正直だよなぁ」

「フミさん、それはけなしています」


 他愛のない話もそこそこに、三人は大机で囲んで授業計画にいそしんだ。休憩を提案する恵子にフミが頷き、葵はもう少しと粘る。

 フミと恵子は葵の帳面を覗き込んで目を見合わせた。

 葵は想定される質問を書き出して、それに対する答えを綴っている。取り組みは間違ってはいないが、中身がおかしい。

 たこのできた細長い指が一文をさす。


「字が見えません、と字が読めませんの質問に違いがあるのか?」

「見えませんは字が小さくて読めない場合で、読めませんは字がきたなくて読めない場合です」

「はぁ。なるほど?」


 家事などしたこともない白くか細い指が先ほどの下をさす。


「意味がわかりません、と、意味を知りません、もよくわからないわ」

「わかりませんは私が言ったことが不明確という意味で、知りませんは知らない言葉を――」

「葵さんが真剣なことはわかったわ」


 全てを言い切る前に恵子は結論を示した。

 葵は言葉を遮られても機嫌を悪くせず、計画に打ち込む。

 二人は葵が没頭する理由もわかっているのでたしなめることはやめた。からまわっている感は否めないが、頭を空にしたい時は誰にでもある。

 葵が満足するまで作業を終えてから、三人は香り高い紅茶を口にした。皿にのるサブレはフミからの手土産だ。葵が持ってきた梅のはちみつ漬けは日持ちがするからと並んでいない。

 紅茶が冷めぬ内に恵子は目を何度も瞬かせた。言いたくてたまらないという声が透けて見える。居ても立ってもいられないと紅茶を含んで口を湿らせた後、さえずり出す。


「そういえばお聞きになった?」

氷塊ひょうかいの鬼神、白炎はくえんの死神、胡桃谷少将の猛進、大棚の夜逃げ、それが違うなら恋の話だな」

「フミさん、底意地が悪いわよ」


 茶化された恵子はふくれっ面だ。褒め言葉として受け取ろうとフミはかわす。

 フミが言ったことは全て世間を騒がしていることだ。

 『氷塊の鬼神』『白炎の死神』は最近の新聞を賑やかしている特殊部隊の隊長二人だ。前者は歴史ある名家の家長・岩蕗いわぶき少将、後者は不慮の事故の生き残りである葛西かさい大尉。両名とも新聞に一日と空かずして載る有名人なので葵も覚えてしまった。

 上官ばかり並ぶ紙面に葵の探す名前は見当たらない。どの隊に所属しているかもわからないのに、二人の活躍と無事を祈る日々を過ごしている。


「お父様のご活躍、すごいですね」


 はぶてる恵子を見かねて、葵は話を振った。

 フミは優雅に紅茶とサブレを堪能している。

 恵子の父である胡桃谷少将も紙面を大きく飾る一人だ。


「体が丈夫なだけが取り柄だもの、存分に働いてもらわないと憤死してしまうわ」

「遠慮がありませんね」


 こき下ろしを笑った葵は熱い紅茶をちびりと飲んだ。

 樹木の名を冠する樹族きぞく花族かぞくと対となすように神代から脈々と血をつなぐ一族だ。花々しい異能を開花させることはないが、一族ごとに神がかりな身体能力や体質を持つ。異能持ちのように血とは関係ない所から出生する者はいないので、一握りしかいない。

 葵が調べたところ、胡桃谷家のものは屈強な体を持ち、背丈ほどある岩を打ち砕いた者もいるという。先祖代々大小はあれど武人として功績を上げている。

 恵子が全く話さないので忘れかけるが、彼女は天帝に仕えてきた一族の末裔だ。きっすいの令嬢のはずなのに、利用することはあっても鼻にかけたことは一度もなかった。


「じゃあ、大棚の夜逃げか?」

「近所だったのに、何も知りませんでした……」


 別段珍しい話でもないという口ぶりでフミは肩にかかった髪をはらった。

 葵は、実家から十分も歩かない小間物屋が夜逃げするなんて露ほども思っていなかった。櫛にはじまり、白粉に紅、楊枝や煙草入れ刃物と生活に必要な物の全てがそろう大きな店だ。背負い箪笥に商品をつめて売り歩きもする。ハイカラなものも先陣をきって仕入れる目利きでたいそう繁盛していた。

 つい先日、忽然と消えたのは悪どい商売をしていたせいだと噂されているが、全く謂れのない疑いだ。皆、戦争以外の話題を探しているようにも見えた。

 紅茶の水面を無心で眺めていた恵子は聞く耳を持たなかった。サブレを栗鼠りすのようにかじり、気を取り直す。


「黙って聞いてちょうだい。そんな話をしたいわけではないの」


 恵子は二人分の注目を集めて、満足したように含み笑いをした。もったいぶって人差し指をふる。


「政府がね調停を結ぶ運びになってるのよ」


 頬杖をついたフミは怪訝な顔をする。


「確かな話なのか」

「当然よ。こてんぱんにやっつけているのだもの。この機を逃すわけがないわ」


 胸を張る恵子にフミは生返事をした。

 葵にとってはとらえきれない話だ。

 恵子は上機嫌に両手を組む。


「お父様もお兄様も、佐久田さんも絶対帰ってくるに決まっているわ」


 葵は喉をつまらせた。つかさず紅茶を流し込んだが、熱くて涙がにじむ。


「絶対なんてたやすく言うねぇ」


 フミは葵の背をさすりながら、鼻で笑った。

 恵子は腕を組み、気取った態度をとる。


「もう勝ったも当然だもの」

「はいはい。今までよく我慢できたな」

「わかってるじゃない。絶対なんて根拠のない言葉、私だってそうそう言わないわ」


 むくれる恵子に葵もフミも小さな笑みをこぼした。

 確かに雪が解け桜が咲くのを待っていたように戦況は一転したように思える。

 さも勝ち続けているように過度に書かれた紙面も、個人の名前が並ぶようになったせいか信用性が出てきた。

 フミの器に恵子が紅茶をそそぎ、食べきったサブレの代わりに梅のはちみつ漬けを

頼む。

 葵は他愛のない会話を小耳にはさみながら熱い紅茶に息を吹きかけた。

 佐久田が出兵して、半年がたとうとしている。いつ死ぬかもわからない場所で半年も過ごすなんて葵は想像もつかない。

 誰かに呼ばれたような気がして葵は外に顔を向けた。造りのいい窓からは雨の音さえ拾えない。

 顔を戻した葵は水面に心許なく映る自分を吹き消した。


。゚。゚。❀。゚。゚。


 始業ぎりぎりにやってきた恵子に葵は目を瞬かせた。

 令嬢らしく送り迎えは馬車で来るのでいつも時間に余裕があるからだ。フミの挨拶にぎこちなく返す姿もらしくない。

 挨拶もそこそこに葵は訊ねる。


「来る時に何かありましたか」


 葵の目を見た恵子の顔が強張る。

 尋常ではない様子に追いかけてきたフミも眉をひそめた。

 周りの注目を察した恵子はさっと隈の浮かぶ顔を笑みでかためて両手を振る。


「来週から教育実習が始まるでしょう? その準備をしていたら来るのが遅れてしまったの。心配無用よ」

「……心臓に毛がはえていたと思っていたが、見た目に似合わずかよわいんだな」


 聞くなと示した恵子の言葉に、フミが合わせた。

 葵もいつも通りを気遣わなければと思うのだが、胸騒ぎがして行動に移せない。

 小さく開きかけた口を見かねた恵子が挑戦的に口元をつり上げる。


「それってどういう意味かしら? こんなに可愛いわたくしをけなすフミさんはどうなのかしら。ねぇ、葵さん」

「恵子さんはいつも通りかわいいです」


 葵は引くしかなかった。

 うれしそうに頷く恵子の身に何もなければいいと願いながら些細な変化を見逃していないか注視する。

 華やかな笑顔の裏にどんな感情を隠しているのか計り知れない。家族二人が戦地に行っている。一人だけを心配する自分とは重みが違うはずだ。

 もしかしたら、軍の機密事項かもしれない。


「昨日の新聞を見たか? 大棚の倅が賭博場で見つかったらしいぞ」

「夜逃げした件のでしょう」

「縁があって聞いた話だが、意識が戻っていないらしい」

「喧嘩でもしたの? それとも急病?」

「それがな――」


 始業の鐘が鳴り、フミはわざと話を止めた。皆の視線をかっさらって席につく。

 葵はフミを見て、恵子を見た。どちらの顔も完璧で表情が読めない。不安が込み上げてくるが強く拳を握りしめる。

 彼女たちを信じよう。そう心に決めて前を向いた。



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