拾参  沫雪

 葵は図書室で軍歌が書かれた本を探していた。手伝いに行っている生徒に聞かれたからだ。

 窓から入る風は肌寒く、乾いている。火鉢が恋しい季節になってきたと探すのを急いだ。


「こんにちは」

「こんにちは。偶然ですね」


 返した葵はそちらに視線だけを向けた。

 そうですね、と答えた佐久田に引っ掛かりを覚える。学校の手伝いをするようになり、教育法を探す佐久田を図書室で見かけるようになった。

 問題は佐久田が軍歌を探す葵の近くにいることだ。周りには経済と軍に関するものだけ。小学生が経済のことを訊くとは思えなかった。軍のことを訊かれたのだろうか。

 平時なら距離の近さに胸が高鳴るが、嫌な予感しかしなかった。できるだけ後ろを意識しないようにして目的の本に集中するが、目がすべる。

 止まったような静かな時間が過ぎ、影の濃さが増していった。


「戦地に行くことにしました」


 穏やかな声に耳を疑った。

 葵が驚きの顔を向ければ、佐久田は身構えた様子もなく本を選んでいる。

 先日、ついに学徒出陣を命じられたが、高等師範学校は免除されていた。もとより、二十歳を過ぎていない佐久田には無理な話だ。一つの可能性が頭をよぎるが、無意識に否定していた。

 嘘だと困惑する心が叫んだ。しかし、彼がそういうことで冗談を言わないことを葵は知っている。何とかして、引き止めなければと頭が警鐘を鳴らすが、振り返ることができない。


「……理由を聞いてもよろしいでしょうか」


 気付けば、葵の口は訊ねていた。

 戦地に行った父が死にました、と佐久田は言った。重ねて、弟もと。


「僕だけ何もしないのはずるい気がして」


 寂しそうな声音につられた葵は佐久田を見た。いつもと同じ笑顔のはずなのに、物悲しく映る。

 戦地に行くことが正しいことなのだろうか。そう訊くのは、はばかられた。

 佐久田から顔をそらした葵は本を探す振りをした。頭に入ってこない文字を指だけで追う。死と隣り合わせの場所に自分から飛び込む理由が理解したくなかった。

 葵が言葉にできないまま、世界は闇に落ちていく。


「異能を見たことはありますか」


 背中から聞こえた声に心がざわついた。信じられない気持ちと納得する気持ちが混じりあう。

 士官生でもない十九歳の佐久田が唯一入隊できる特例を思い出せば、自ずと答えは出ていた。

 どう答えるべきか、葵は悩んだ。ふるえる指先がかすり、一冊の本が落ちる。

 慌てる葵を他所に、本が動きを止めた。

 本が中に浮いている。何も支えがなければ、本は落ちるものだ。その理を無視して、床に落ちなかった本は釣り上げられるように浮いた。目で追った先は、佐久田の手。

 見えない糸で操られているように。吸い込まれるように。

 葵は本から目を外さずに首を振った。異能のことは聞いたことはある。でも、信じたくなかった。

 佐久田はさみしそうな笑みをにじませて、口を開く。


「桜の花弁を十枚」


 奇術とするには、あまりにも鮮やかな手腕だった。


双六すごろく


 偶然とするには、賽子さいころの目は強運すぎた。

 思い出が崩れていく。

 見ようとすればもっと早くに気付けたはずだ。きっと自分は現実に目を向けたくない。

 葵は佐久田の顔をうかがう。穏やかな笑顔を信じたかった。

 目のあった佐久田は口端を上げる。


「ずるをして、すみません」


 葵は何も言ってやれなかった。


。゚。゚。❀。゚。゚。


「何してんの」

「た、たた辰次くんッ! 今日は居残りはありませんよッ」


 いきなりの声に葵は慌てふためいた。ずれ落ちそうになった眼鏡を両手で支える。

 辰次は不審者でも見るような目を向けてきた。

 高等師範学校も小学校も明日から冬休みだ。今日は終業式で昼からの授業がない。必然的に居残りもなく生徒のほとんどは下校していた。

 葵が熱心に眺めていた外に見るものはない。


「……何してんの」

「町がきれいだなあぁって思いまして!」

「嘘が下手すぎる。暇なんだ」

「……そういうことでいいです」


 辰次の遠慮のない言葉に葵は肩を落とした。眼鏡をかけなおして、再び外を眺め始める。

 何処かさみしそうな横顔に興味をひかれた辰次も外に目を向けた。

 今にも雨が降りそうな黒い雲が空にひしめき合い、ひりつく寒さに雪も予感させる。

 背の低い辰次には屋根と汽車から立ち上る細い蒸気しか目に入らない。

 小学校に隣接する高等師範学校も同じ二階階建てだ。

 三階の窓から見る景色は一緒のはずなのに、隠れるようにして外を眺める理由を辰次はまだ察せなかった。すぐにつまらなくなって横を見上げる。


「姉ちゃんって目が悪いんだ」

「そうですね、遠くが見えづらいです」


 控えめな笑顔はぎこちなく、眼鏡の奥の瞳は悲しんでいた。

 辰次は幼子のように不思議そうな顔をする。


「よく見える?」

「いえ、見たいものは見えませんね」


 まっさらな顔に聞かれても葵は全てを白状することはできなかった。すげない態度を取られるかと心配したが真逆の表情が向けられる。


「ねぇ、試したいことがあるんだ。貸して」


 目を輝かせて言うものだから、可愛いところもあるものだと葵は眼鏡を差し出した。

 そっと受け取った辰次は眼鏡を逆さに回して得意な顔をする。


「先生、知ってる? 眼鏡を逆さにかけたら未来が見えるんだって」


 根も葉もないまじないを思い出した。

 桜のまじないのことを笑わなかった彼はやさしい嘘をついて励ましてくれた。

 俯くばかりの顔を上げさせて、下ばかり見ていたら、見えるものも見えなくなると言ってくれた。

 思い出に偽りがあったのかもしれない。でも、全てが偽りではない。


「あれ、見えないんだ。つまんないの」


 辰次の声に自分を取り戻す。


「それ、返すの今度でいいので」


 そう言うな否や、葵は駆けだした。



 帝都一番を誇る駅は人でごった返していた。

 見送る者以外は鉄色の軍服や黒い外套ばかりで目の悪い葵には全て同じ人に見える。目が役に立たないからといって悪いことばかりではない。顔が見えない分、立ち姿、歩き方でなんとなく判別がついた。

 葵は無我夢中で人ごみに体を押しこみ前に進む。白い目で見られても構っている暇はない。

 寒空の下、重い雲からちらちらと降る雪はすぐに溶けてコンクリートに染みを作った。


「空木さん?」


 雪よりもはかない音が届いた。

 葵は声のした方へ顔を向けるが空を飛ぶ色は見えない。聞こえた方向が合っているかどうかも危うかった。四方に首を振るうちに人垣に押され、たたらを踏む。

 目を閉じようとした刹那、手が飛び込んできた。

 掴んだ腕のあたたかさに葵は戸惑う。

 いつも距離を取っていた。触れたこともない、熱も感触も匂いも知らない腕が正解とは信じられない。鉄色から恐る恐る顔を上げると、視界いっぱいに鳶色が映る。

 相手も驚いた様子で一寸の間、時が止まった。


「大丈夫ですか」


 安否を問われた言葉に我に返る。飛ぶように体を離した葵はどもりながら礼を言った。人ごみの中で取れた距離は一歩だけだ。俯いた先には見慣れない革靴が映り胸が締め付けられる。

 一瞬だけ見た佐久田は少しやせ、支給された軍服は似合っていなかった。最後に会ったのは二か月前だ。図書室でのことがあった後、彼は雪のように跡形もなく退学の手続きを済ませて去った。壮行会もない突然の別れに図書委員の面々は嘆き、何も聞いていないのかと詰め寄られたのは葵だ。俯き何も吐き出せない姿に図書委員だけでなく、恵子もフミも口を開かなかった。

 時間だけが無駄に過ぎ、なかなか顔を上げることができない。場違いな気さえしてきたが、佐久田は咎めなかった。

 沫雪だけが時を刻むように降っていく。

 風にゆられて落ちた雪は佐久田に熱に溶かされ服を濡らす。涙のように染みを作るものだと錯覚を覚えた。

 心は急いているのに上手く言葉にできない。


「……お気を付けて」


 やっと出た言葉は、葵が本当に言いたいことではなかった。

 周囲の目がある所で国を裏切るような言動はできない。罰を受けるのが自分だけならいいが、佐久田に及んだら困る。葵は視界がにじむのをぐっと我慢した。


「はい、空木さんも気を付けてください」


 壮年さが浮かぶ面々の中、まだ年若い佐久田の姿は浮いていた。

 周りの兵や見送る人も、意外そうに目を丸くしてそらしていく。

 自然の理を超える異能持ちは、万に一人いればいいと言われ、人口増加の進むこの島国では下降の傾向にあった。脈々と血を繋ぐ一族に生まれることが多く、平々凡々と過ごす民のもとに生まれることは極めて稀だ。

 異能の兆候が出たものは国に申告することが法律で定められ、市民にも広く伝えられた。しかしながら、子供を取られては堪らないと法律を蹴る者は少なからずいた。偏見の目を恐れ、口を閉ざす者も多い。

 佐久田もその一人だったのかもしれない。しかし、彼は隠し通さなかった。

 二十歳に満たない佐久田でも、異能持ちとなれば戦地に向かえるからだ。


「鼻、真っ赤ですよ。風邪をひかないでくださいね」

「佐久田さんには言われたくありません」


 面白くない葵は佐久田を睨みつけた。

 鼻を赤くした佐久田は力の抜けた笑い方をする。


「では、行ってきます」


 あっさりと言われた門出の挨拶に葵は応えられなかった。

 乗降場に響く蒸気の音が速まっていく。

 唐突に汽笛の甲高い音が響いた。皆の視線が一瞬それた隙に佐久田は動く。


「必ず帰ってきます」


 葵は驚いて、佐久田を見つめ返した。耳の横で呟かれた言葉の意味を理解する前に、大きく見開いた目から涙が一粒こぼれおちる。

 涙は落ちて雪と区別がつかなくなった。

 眉間にしわをよせた佐久田は一層笑って、葵の背を優しく叩くと、軽い足取りで汽車に乗った。すぐに鉄色の塊にまぎれる。

 汽車がゆっくりと動き出した。

 乗降場に万歳と声が響く。

 姿の見えない友に葵は力の限り手を振り続けた。



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