拾弐 花嵐
姉弟と数えきれないぐらいかくれんぼをしていた葵は探すのが得意だ。隠れる場所の少ない校舎の外には出ていないと判断した。鞄を置いて行ったということもあり、忍び足で職員玄関を覗く。葵達がいなくなった後に荷物を取りに帰ると踏んだからだ。
予想は的中して、あっさりと辰次を見つけた。身を潜めているのは玄関の裏に置かれた植木の影だ。
膝小僧に額をつけてうずくまっていることをいいことに、逃げ道を塞いだ。腰を折った葵は声をかける。
「辰次くん、勉強が残っていますよ」
辰次はびくりと体を震わせて、おばけでも見たような顔をした。
葵は膝を曲げて視線を合わす。
向けられたのは敵意に満ちた瞳。
不思議なぐらいちっとも恐くなかった。まっすぐに受け止めて声をかける。
「戻りましょう」
「いやだ」
かぶせて返ってきた言葉にもくじけない。
「勉強しないと辰次くんが困りますよ」
「いやだ」
断固として動かないというように辰次は膝小僧を強く握った。
「辰次くんは何がしたいんですか?」
「……勉強以外」
居心地悪そうに言うものだから、彼はやらなければいけないことをわかっているのだと汲み取ることができた。
目線をずらした辰次をじっと観察した葵は一呼吸置いて、ゆっくり伝える。
「なんで勉強をしたくないんですか」
「……勉強しても、できないし、怒られるし」
辰次は何かを思い出したのか、くしゃりと顔を歪めた。
手伝いを頼んできた教師は勉強ができないからと怒るようには見受けられなかった。宿題を出して終わることをせず、わざわざ生徒ごとに課題を作るきめ細やかさがある。
先生の気持ちを少しでも伝えたい葵は目をそらさなかった。
「勉強をすることは自分のためにもなる、大切なことです。ひとつひとつは面倒かもしれませんが、辰次くんの世界が広がると思います」
辰次の反応はいまいちであったが、悪いことをしている自覚はあるようだ。手を握ったりゆるめたりしている。
親に怒られたからしたくないのだろうか。
勉強以外で何をしたいのだろうか。
葵は首を傾げた。
「辰次くんのしたいことって何ですか」
「……わかんない」
答えは拾いにくいものだ。それ故に、本心だとわかる。強く追及するのは可哀想だ。
「私は、本を読みたかったから勉強しました」
話が変えたことに辰次はわずかに反応を示した。
顔色を窺う様子が弟と似ていて、葵は笑みがこぼれる。
「学校の勉強では全然追いつかなかったんです。読めない漢字を調べて、わからない言葉を調べたら楽しくて。本の世界は無限で、いくら勉強をしても足りないぐらいです。したいことのためなら、勉強は苦じゃありませんよ」
「そうやって嘘をつく。じゃあ、全部できたっていうの?」
胡散臭そうに言われ、聡さに感心した。
笑みを深める葵に辰次はますます異質なものを見る目を向ける。
心の端で恐怖がにじり出るが、負けるわけにはいかなかった。
「かしこいですね、辰次くんは」
呼吸を整えるように呟いた葵は、伏せた目を上げる。
「実は算術が嫌いでした。これから習う分数とか訳がわからなかったですね。わからないと悩んでいたら、姉が助けてくれました。あんたも私と同じ所で躓くのねって」
どうして忘れていたのか。躓いてもいいのかと安心した気持ちを。口にして、記憶の奥底にしまわれていたものを思い出す。
「躓いても、私も手伝いますから頑張りませんか」
悩む素振りを見せたが、辰次は小さく頷く。
ちゃんと向き合えてよかった。
体の奥底につめていた息が解放されたようだ。胸を両の手で握りしめ、葵はわき出る熱を噛みしめた。
無事に課題を済ませた辰次を見送った葵は寮までの道を佐久田と歩いていた。
闇の色が濃い
近くに寄らなければ誰かとわかるまいと勇気を振り絞った葵は佐久田の斜め後ろを歩く。ゆっくりとした歩調が許してくれているようでこそばゆい。
辰次との顛末を話すと佐久田は、やりましたねと労ってくれた。
「佐久田さんが背中をおしてくれたからです」
「いえいえ、空木さんのお力です」
ゆるく首をふった佐久田は続ける。
「いくら口が上手くても、本心から言わないなら伝わりません。特にああいう頑固な子や、へそを曲げた子の心に響かすのは至難の技です」
佐久田は思い出をかえりみるように遠い目をしていた。
否定するのも無粋に感じた葵は黙って歩く。
「相手を否定せず、受け入れる。できていると思っていても、意外とできない人が多いんですよ」
佐久田が肩越しに振り返る。垣間見えた笑顔は消え入る夕陽に照らされていた。
「空木さんは、すばらしい先生になると思います」
耳に届いた言葉が胸に沁みる。
感極まった葵は小さな声で礼を言うことしかできなかった。
。゚。゚。❀。゚。゚。
集会は雨のため講堂で行われることになった。出陣する生徒を送り出すための会だ。
今までにも志願した教員や生徒は何人かいた。その都度、激励と共に送り出している。慣れというものは恐いもので、くりかえす内に恐怖は薄れていった。
強く雨が窓を打ちつける中、全校生徒が講堂へ足を運ぶ。葵は恵子とフミと連なって歩いていた。
「どうだった、手伝いは」
思い出したように話題をふったのはフミだ。
帰ってすぐに聞いてほしかった葵は刺のある言い方で返す。
「
「言うようになったな」
「わたくしも気になっていたの。上手くいったに決まってるわよね?」
フミは横目で楽しそうにうかがい、恵子は顔を輝かしている。
寮に帰った時には、フミは早い時間だというのにすでに寝いっていた。執筆作業に熱が入り徹夜明けで授業を受けていたから仕方ないと思ったが、もしかしたら恵子と聞こうとわざとだったのかもしれない。先を考え段取りよく行動する所が彼女にはあった。
葵がうらめしい目でフミを睨み付けても、反省する色はない。隠してもぼろが出るとわかっていた。しぶる口をもぞもぞと動かす。
「完璧、とはいかなくても上手くいきました……佐久田さんのおかげで」
「ほお、佐久田氏が」
「なになに、その急展開。もっと詳しく聞きたいわ!」
「恵子さん!」
恵子が大きな声を上げるものだから、葵は慌てた。本意ではない注目はやはり苦手だ。
周りの様子を察した恵子は失礼と口に手を添えてごまかす。
「お話を聞かせてほしいわ。ね?」
恵子の上目遣いは非常に断りにくい。
葵は佐久田とのことはふせて、手伝いの起きたちょっとした事件を簡単に伝えた。
「ねぇ、本当に何もなかったの?」
恵子の小首を傾げる姿は心臓に悪い。
「何か隠しているだろう」
フミの鋭い目は何もかも見透かしているようだ。
双方の攻めに葵はたじたじになったが、全てをうまく説明する技量も気合いも度胸もむなかった。自慢したいようで大切にしまっていたいような感覚もある。
「い、言えるようになったら言います」
葵の必死な様子に二人は肩をすくめた。嫌がられて聞き出したいわけではない。
あーあ、と恵子は小さく嘆く。
「最近、華やかな話を聞かないものだから飢えてるの。ほら、恋の話とか」
「こい」
「いいのか。浮かれた話はしないように見受けられたが」
フミの指摘にまぁね、と同調したあと階段を駆け下りるように恵子は話し始める。
「ずーっと我慢してきたのだけど、吹っ切れたわ。気を使わせちゃってごめんなさいね。心配されなくても父と兄は健在よ。戦地で奮闘されているわ」
「佐久田兄のことはどうなったんだ?」
「わたくしにだって分別はあるのよ? 線引きはわかっているつもり。忘れられそうな頃に手紙を送るのだけど全然、全く釣れないのよ」
「えらく頭のまわる話術で誘えないとは、相手もなかなかやるな」
「わたくしが食い下がれないように断るのだもの。困っちゃう」
葵はころころと変わる話を聞くだけしかできなかった。
渡り廊下にさしかかり、またころりと話が変わる。
「フミさんは恋をしていらっしゃらないの?」
恵子は夕飯の品書きを思い出すように頬に手をあて首を傾げた。
動じもせずにフミは友人の疑問に答える。
「小説の中になら付き合いたい男が何人もいるのだがな」
「なんにんも」
「ある意味浮気だな」
フミはけろりと言ってのけた。恵子も呑気にそうねぇと同意している。葵は気が気でない。
三人の耳に聞こえるようにして舌打ちがされた。
恵子とフミは鋭く目を配り、葵は小動物のように目を泳がせる。
「面白く思わない輩がいるらしい」
「隠れてするなんて陰湿ね」
「フミさん! 恵子さん!」
二人の挑発に葵は悲鳴に近い声を上げた。
行きましょう、と恵子が言って、踵を返す。フミも葵も続いた。
「早く勝たないかしら」
本音を小さくこぼした恵子が先を行く。
続く葵を追い抜いてフミが進んだ。
「士官生は十八でも戦地に行くことになったらしいぞ」
落とされた言葉に葵は顔を上げたが、フミの顔は見えなかった。
聞こえた様子のない恵子が振り返り、フミに席を訊ねる。
フミは澄ました顔で前方に指をさし、葵に行くぞと声をかけた。
茫然と葵は頷く。
立ち尽くしている間に、友は人波に消えた。
ざわりと重い風がふき、風上に振り返る。髪は乱れ、やっと咲いた桜の花弁がいくつも通りすぎていった。
あの桜がざわついている。
フミが落とした言葉がよみがえり、頭の中で木霊した。
言外に、ちゃんと勝つのかと言ったように思えて、葵は恐くなった。
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