拾壱 手伝い
開戦が宣言された冬は雪が多かった。
薄暗い空気がついて回るが、葵の日常は変わらない。
朝起きて学校で授業を受け、委員の仕事を済ませて帰る。寮で出される食事の量が減ったように見えたが、食の細い葵は苦にも思わない。
父や兄、親戚が戦地に向かった恵子の笑顔には影が見えるようになり、大きな差し入れを紐解いたフミは商売を始めて以来の大儲けらしいと皮肉を言った。実家は閑古鳥が舞い戻り、服の修繕を請け負うことで何とか成り立っている。
今までと違うことを探したら、近所の青年を戦地へ見送ったぐらいだ。
不思議と全ての変化を戦時中だからと片づけている自分がいた。
時が進むごとに、新聞には撃破や奇策、大勝利と力強い文字が踊る。貼り出しには質素倹約の文字が並び、志願兵を募る紙が幅をきかせていた。
徴兵の基準に学歴を目にした時、葵はほっとした。我に返り、お国を守るための戦争なのにと反省する自分を見つける。転がる社会を、流されるままの自分を、逃げるように傍観していた。
新聞の快進撃とは裏腹に春の訪れは遅く、厚く積もった雪は惜しむようにゆっくりと溶け、役をゆずる。
桜の花が咲かぬ内に葵たちは進級した。変わらないと思っていた日常に、一石が投じられる。
図書委員として出席した会議に佐久田の姿がない。当然のように今年も一緒だと思っていた葵は己を恥じた。図書室に行っても穏やかに笑う姿はない。偶然すれ違うこともなく、きっかけがなければ話すこともない事実を突き付けられる。
このままではだめだと、奮い立った葵は尋常小学校の手伝いを申し出た。恵子にもフミにも励まされ、やる気は十分だ。進学したのは教師になるためだと言い聞かせた矢先、開いた口が閉じられなくなる。
訪れた尋常小学校に懐かしい鳶色を見つけたからだ。
職員室から出てきた佐久田に驚いた様子はない。
こんにちは、とかけられた言葉に我に返った葵は食って掛かる。
「どうしていらっしゃるんですか」
「恩師に手伝えと言われたからですね」
あっさりと返された言葉に葵は眉間にしわを寄せた。参加しないと言った口で何を言っているのだと目で訴える。
「恩師?」
「小学校の時に大変世話になったので逆らえません」
対する佐久田は何処吹く風だ。
葵は顔の中心にしわを寄せる。
「評価がいただけないのに?」
「空木さんが僕のことをどう思っているのか、よおくわかりました」
瞳からあたたかさが無くなり、微妙な笑みを形作られる。
言いすぎたと葵は背中に嫌な汗を感じた。挨拶を済ませてきます、と言い置いて職員室に飛び込む。十分ほど説明を受け退室すると、まだそこには佐久田の姿があった。
「教室に向かうなら一緒に行こうと思っただけです」
言葉を悩む葵にやさしく声がかけられた。学校の間取りがわからない葵には嬉しい申し出だ。
道すがら、会話がはずむ。
図書委員は立候補がいたのでゆずったこと。手伝いを先週から始めたこと。週に三回の手伝いをしていること。葵の手伝う内の一つが重なること。
佐久田が茶目っ気を含んだ瞳を隣に向ける。
「自信がつきましたか」
「自信をつけに来ました」
拳を作る葵に忍び笑いが返されても、すねることはない。明らかに浮足立っていた。
尋常小学校の手伝いというのは、成績がかんばしくない生徒達の勉強を見ることだった。居残りさせられた生徒は不満を抱えており、取りかかりが遅い。思い当たる節のある二人は目だけで示しあわせ苦笑した。
文学科の葵は読物や書法を、理化学科の佐久田は算術を分担して回る。一人一人の帳面を見て、手を止めているものには声をかけ、足がかりを教えてやった。
練習帳をのぞきこむと佐久田の字が目に入った。図書通信の時も感じたが、丁寧に書かれた字は整っており読みやすい。隣り合うように葵も字を書き込んだ。
課題を済ませた者から順に見送る。
あっという間に時間は過ぎ、二十人近くいた生徒は片手で数えるほどになった。
葵は最後の一人の机に寄り、生徒を見送る佐久田を盗み見る。ゆるやかな時間が惜しくなっていた。
「姉ちゃん、教えるの下手だね」
雲のように浮いていた心を完膚無きまで叩き落としたのは生徒の言葉だった。
空耳かと葵は声をした方へ振り替える。
器用に鼻と口の間に鉛筆を乗せた
さすがの葵も目くじらを立てそうになったが、へそを曲げている生徒に叱責は逆効果だと思い止まった。
辰次に反省した様子はなく、つまらなそうに睨みつける。
ひるんだ葵は強く口を引き結んだ。目線を泳がせ、見下ろした先の帳面を見て自分がやるべきことを思い出す。
「書いて、覚えた方が、早いと思います」
つかえながらも、注意できた。葵が息をつく暇もなく、辰次は口を開く。
「覚えて意味あんの」
がらんどうな瞳に見つめられ、葵はひゅっと息を吸い込んだ。
「えらそうな口をきくもんじゃないぞ」
見かねた佐久田が辰次が叱っても堪えていない。
「えらそうなのはそっちだろ」
屁理屈に顔をしかめる佐久田を見た辰次は苛立ちを机の足にぶつけた。
音に驚いた葵はよろけて倒れそうになるのを寸前のところで耐える。後ろの机に突いた手は震えていた。
駆けつけた佐久田は葵の無事を確認して、辰次に向けたのは非難の目だ。
葵は、驚いただけですからと間に入りたくても、喉が乾いて声が出なかった。動きたいのに動けない自分がもどかしい。
わずかな時間が長く重いものに感じられた。
俯いて、何だよと呟いた辰次は外へ飛び出していく。
「前からあの状態なので、少しはこたえたらいいんですけど」
小さな背中を見送った佐久田は葵に振り返った。
葵は顔をふせたままわずかに頷く。
「あいつ、親が巡査みたいで天狗になっている所があるんですよ。他の先生も手を焼いてるみたいで」
気にいなくても、と続けようとした佐久田は血の気を失った姿を見て口を閉じる。
両手をすがるように握り締めた葵は足元を見ていた。ちゃんと立っているというのに、船の上にいるような感覚に襲われた。閉じてもゆらぐ視界に眩暈がする。
「どうかされましたか」
佐久田の声が耳に響く。
音のあたたかさに葵は泣きそうになった。感じるよりも強く、まいっていたらしい。
「思い出してしまって」
声はかすれていた。
何を、とは佐久田は訊ねない。
葵は押し付けないやさしさに心が揺らいだ。佐久田に甘えて、小さな人間だと嫌われるならそれまでだ。何より今の自分を抑えられる力は残っていなかった。
「師範学校の教育実習で失敗してしまったんです」
どう説明しようか逡巡した。
東の空は紺青に染まり始めている。
時間を取らせるわけにはいかず、なおかつ時間を置く余裕もない。焦りを吐き出すように、混濁した言葉を並べていく。
「将軍の名前を間違えただけなのに、それで頭が真っ白になって、授業が続けられなくなって。もともと、なんですけど、人前に立つのが苦手なのが余計に恐くなって。大丈夫だって言い聞かせてもどうしようもできなくて。どんなにかき消してもあの時の目を思い出してしまうんです。かわいいと思っていた子達の目が恐ろしくて、何でもない目だってわかっているつもりなんです。それでも逃げ出したい気持ちになるんです。動けなくなるんです」
息が苦しいのか、心が苦しいのか、どちらもなのか。堰が外された気持ちを葵は止めることができない。
「周りは励ましてくれたんですけど、やっぱり……駄目、ですね。子供の目が恐くて仕方ないなんて」
先生になれそうにありません。
葵は低く呟いた。
教師になろうとしたきっかけは、弟に、先生になればいいのにと言われたからだ。親は教育に熱心だったこともあり学費のかからない師範学校に進んだ。卒業したら十六から働いて少しでも家にお金を入れることを夢描いていたら教育実習でこけた。人前が苦手なことを痛感し落ち込んだ葵を笑い飛ばしたのは姉だ。失敗したら挑戦すればいいと何処までも甘やかす。
先生に進められて、親に無理を言って高等師範学校に進んだ。学費も寮費も気にしなくていいから根を詰めるなと言われても、葵は首を縦に振れなかった。
学校に行かせてもらったのだから、きちんと教師になって恩返しをしたい。
気持ちを新たにしても、恐怖も邪魔をして葵は身動きが取れなくなっていた。
「僕、正直に言いますと空木さんみたいな人がどうして教師になりたいんだろうって思ってました。人と関わるのが苦手で生徒とどう向き合うつもりだろうって」
言われても仕方のないことだ、葵はおとなしく受け入れた。
でも、と佐久田は諭すように続ける。
「打算なしに何事も一生懸命に取り組むでしょう」
葵は唇を噛みしめ、首を振った。
春に舞うそよ風のように言葉は流れる。
「桜の花弁を十枚」
もう一度、首をふる。あれは成績がほしかった。
「双六」
動きを止めた。あれは無謀だった。
「図書通信」
誰も見てくれていないと思っていたら、佐久田はほめてくれた。ちゃんと見つけてくれたとどんなに嬉しかったことか。
葵は少しだけ顔を上げた。
「がむしゃらな空木さんに教師はぴったりだと思いますよ。教え育てることに、見返りなんて求めない意志が大切なんです」
僕が言うから信用あるでしょう、と佐久田はおどけた。いつもいつも身動きが取れずに縮こまる背中を押してくれる。
「補足すると恩師の言葉です」
「尊敬して損しました」
小さな笑い声をこぼしながら、葵もおどけた。
「そういう正直な所、子供たちに通ずるところがあると思いますよ」
「子供みたいって言ってません?」
「いいえ、褒めてます」
笑顔があまりにもやさしかったから、葵は口を閉じてしまった。せわしなく動き始めた胸を隠すように佐久田に背を向ける。
「辰次くん、探してきますね」
「明日でもいいんじゃないですか」
「いえ、今だからできる気がするので」
口からぽんと出た言葉が本物だった。きっとすぐにしぼんでしまう勇気だ。
弱い自分を認めて前に進もうと、今なら思える。
「行って、きますね」
「では。待っています」
心強い言葉に大きく頷いた葵は、教室を後にした。
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