拾漆 夜道
学年末の試験を終え、卒業式までの時間も残りわずかだ。図書委員は後輩に引き継ぎ、寮の片付けも済ませた葵は、手持ち無沙汰なのでフミの手伝いまでしていた。
実家への帰り道、春から何時に起きようかと悩んでいると小さな塊が飛んでくる。
「ちょっと、
三歳を迎えた姪は止まることを知らない。
姉の叱声を聞きながら葵は難なく受け止めた。
「あーちゃん、おかいりー」
腰まで届かない高さの紗代は満面の笑みで葵を見上げた。奥から慌ただしい音を連れて姉が飛び出してくる。
「おかえりじゃなくて、いらっしゃ……ん? おかえりで会ってるわね」
姉は葵を見つけて、頭を悩ませた。
葵は手をのばす紗代を抱き上げて目を細める。
「ただいま。紗代ちゃんもお出迎えありがとう」
「どうも、いたまえ!」
「いたまえじゃなくて、
母親に教えられても意味がわかっていないのか紗代は、いたまえーとご機嫌だ。
危なっかしくて見ていられないと二人目を身籠った姉はよく家に帰るようになっていた。
店奥の畳へ紗代を下した葵に声がかかる。
「春からどうするの?」
「付属の尋常小学校で働くことになると思う」
姉の問いに葵は事なく答えた。
「そう決まってよかったじゃない」
姉の笑顔に葵も同じ顔で返した。
高等師範学校の卒業生はまず付属学校に任じられる。学費免除の件もあり、緊張感を持って試験に取り組んでいた葵は優秀な成績を修めていた。
選択肢は高等女学校か尋常小学校、どちらかだ。
成績を鑑みて高等女学校の職を進められたが葵は断った。弁がたつ女生徒には敵わないだろうし、尋常小学校の方が性に合う。欲を言えば、佐久田と過ごした生徒達を影ながら見守りたかった。
「この子も葵の世話になれるといいねぇ」
そう口にした姉はお手玉で遊ぶ紗代を愛しそうに撫でる。
仕事が決まって本当によかったと葵は頬をゆるませた。
教諭という役割がなければ、何もかもに意味を見出だせず役立たずに成り下がる。辰次や恵子、フミがいなければ、恩を仇で返すところだった。
「しゃぼん!」
飛び出た言葉と同時に紗代が駆けていく。
暖簾の隙間から宙に浮かぶ丸い玉が見えた。紗代が一目散に目指す先は店表の往来だ。人にぶつかり車にひかれる危険があるが、幼子はわかっていない。
「こら、紗代! 待ちなさい!」
「姉さんは座ってて」
お腹をかばう姉よりも葵の方が速い。葵も草履を履かずに紗代を追いかける。
裸足でかけて足を踏まれたら痛いだろうにと考える暇はすぐになくなった。
目の前に大きな男が現れたからだ。紗代がぶつかると思った瞬間、その人影が後ろによけた。
気を取られた葵は敷居に足を取られた。転んだ先には紗代の小さな体。大人が倒れたら、ひとたまりもない。
姉の甲高い声が響き、最悪の事態を覚悟した時、葵は腕をひかれた。
視界の片隅に鳶色がかすめる。夢にまで見た穏やかな色だ。
無意識に探していると泣き叫ぶ声が耳に届いた。見下ろせば、紗代が葵に抱き着いている。抱き上げて無事を確認しようとすると首に縋りつかれた。甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。ビスケットだと妙な確信を持ち、つい思い出を手繰り寄せてしまった。
「怪我はしてない?」
姉の声に葵は我に返る。
「たぶん……紗代ちゃん、大丈夫?」
うんと頷いた紗代はぐずぐずと鼻をすすっている。急にかわいそうになった葵は小さな背をさすってやった。
「親切なのに、無愛想な人だったねぇ」
葵の横に立った姉は街道の先を見ていた。
状況を思い出した葵は、男の容貌をひねり出す。鬱蒼とした長い前髪ばかりが目に入り顔立ちは印象に残っていない。洋服からのぞく肌は浅黒く、高い背を丸めていた。残念ながら空を飛ぶ色は思い出せない。
男の影は街道の先にもなく、もう消えていた。
「あーちゃん、だいじょーぶ?」
「紗代もびっくりしたねぇ」
「あ、とり!」
「あれは
ちぐはぐな会話が耳をくすぐり、親子につられて空を見上げる。
紗代の指の先には、確かに鳶が飛んでいた。
。゚。゚。❀。゚。゚。
神様のいたずらか、良心か、はたまた教師の裏工作か。新任の葵は辰次の組を受け持つことになった。
教師の仕事をなめていたわけではないが、やることが多すぎる。朝礼から始まり、授業をこなした後は、一緒に弁当を食べて生徒が校庭で遊んでいる間に提出された帳面に一言ずつ添えていく。追われるようにして午後の授業を始めて生徒が帰ったら終わりというわけもなく、書類仕事が今か今かと待ちわびている。
同じ小学校の五学年に割り振られた恵子はぼろ雑巾のようよと毒を吐いていた。女学校に配属されたフミは大丈夫だろうかと心配になるが会いに行く暇もない。
かと言って悪いことばかりでなく、葵には労ってくれる可愛い生徒がいる。
「空木先生、死にそうな顔してるけど大丈夫?」
正直すぎる辰次だ。
葵は強がって拳を握る。
「慣れたらこんなのちょちょいのちょいですよ」
「なんか……弱そう」
辰次の真顔に教師の心はえぐられた。
葵の机にのびた小さな手が一枚の紙を取る。
「この紙、掲示板に貼っておけばいいの?」
「あ、いいです。私がやります」
「父ちゃんが困ってる人がいたら助けろって言ってたから、勝手に助ける」
掲示物を取ろうとする葵の手をすり抜けた辰次は一目散に駆けていった。
「勝手に助けるって。何処に貼ればいいのかわからないでしょう」
二度手間になるわけだが、辰次の好意に甘えることにする。明日、直せばいいと考えて、はたりと思考が止まる。
明日を――未来を願って、掴めなかったものはどれぐらいいたのだろう。異国で散った命の重さは計り知れない。本で読んだけで知ったつもりになっていた歴史の重さを今更ながら思い知る。
瞼を伏せた目に白い紙が入った。静かにため息をついた葵はペンを走らせる。
「空木先生、甘いもので一息つきませんか。よろしければ胡桃谷先生も」
次に顔を上げた時には陽はとっくに落ちていた。
声をかけてくれた校長は言葉の通りの優しい表情で手のひらに乗る缶を開ける。手伝いを募集していた教師であり、今年からは教頭を務めている。生徒からの信頼も厚く、甘い物好きで奥さんに怒られると笑う佐久田の恩師だ。こっそりと甘い物をもらった時に、佐久田兄弟は全員、面倒を見たことがあります、と話してもらった。
隠し持っていた四角い缶にはきらりと輝く氷砂糖。遠慮する葵に、まぁそう言わずとからりと鳴らす。
一つ摘まんだ葵は食べるのがもったいなくて手の内で転がした。
恵子は今度キャラメルをお返ししますと言って一つ頬張る。恵子の律義さに葵も和泉も笑った。
「終わりそうですか」
鍵当番の和泉は苛立った様子もなく訊ねた。
窓からは見えるのは、家の灯りとわずかなガス灯だけだ。
すでに他の教師は仕事を持ち帰っているようだ。
「すみません、遅くまで」
勢いよく立ち上がった葵は机の上を片付けた。
氷砂糖を口に入れて開けなくなった恵子も葵に習う。
「夜道は危ないですから、早く帰りましょうね。僕も心配します」
葵と恵子はありがたい言葉に礼をして校舎を出た。
暗い校庭を連れだって歩く。
「葵さん、来月の遠足、行くところ決めた?」
「まだ全然考えていません」
首を振る葵に恵子は得意気な顔を向ける。
「わたくし、考えたのだけど汽車に乗ってどこかに出かけるのもいいと思うのよ」
「人数が多くて迷惑にならないでしょうか」
遠足では上級生と下級生に分かれるとはいえ、上級生だけで百は超える。
「二回に分けて乗ればいいことだし、事前に告知しておくのよ」
「ぎりぎり行けるような、行けないような。でも、生徒達のいい経験にはなりますね」
維新後、たった一本だった線路はこの数十年で北の端から南の端までのびている。毎日乗るということはないが、生活にはなくてはならない存在になっていることは名実だ。何人かは乗ったことのない子もいるだろう。
提案に乗ってきた葵に恵子は上機嫌に返す。
「それに見てみたいじゃない、子供達が喜ぶ姿」
どちらが喜ぶのやらと葵は微笑んだ。
「もう校門だわ。また明日」
「はい、また明日」
恵子は学校近くの知り合いに世話になるようになったので、実家から通う葵とは反対だ。月が見下ろす中、手を振って別れた。
葵は夜道を心配されたが、広い通りなら意外と嫌いではない。心細く歩いていても笑い声や話し声が聞こえるからだ。時には罵声も混じるので心臓がはねるが、妖怪の類ではないので恐怖に震えることはない。家の温かさを感じながら、わずかに人とすれ違う。えも言えぬあたたかさとほの暗さを楽しみながら帰路を急ぐ。
歩いていると、軍人が目に入った。遠目で見て、心あたりがあったので少しだけ観察する。大きな体躯に鬱蒼とした髪、背中を丸めた姿から判断して恐らく先日助けてもらった男だ。前の洋装とは違い、鉄色の軍服はひどく馴染んで見えた。
礼を言おうかとも思ったが、物々しい雰囲気に遠慮する。ガス灯に照らされた瞳が、すれ違いざまに一瞬だけ見えた。自分達とはかけ離れていた色は藤のようでそれよりも苛烈な紫だ。
異邦人の鬼のような風貌に怖気付いた葵は足を速めた。
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