拾捌  捜索

 小さな灯りを便りに問題用紙を作っていた葵は顔を上げた。店の戸が叩かれたような気がしたからだ。

 皆が寝静まる時間、客が来るはずもなく、泥棒とも考えにくい。倒れかかっている呉服屋より、もう少し金目のある所に入った方が絶対に価値がある。

 どうにも気になった葵は立ち上がった。眠気覚ましにもなるだろう。

 燭台しょくだいを手に忍び足で店先を覗いてみるが、何も見えない。目が慣れるまで待っていた葵は大きな音に体をびくつかせた。

 音がした方を見ても何もいない。恐らく外からぶつかった音だ。戸を開ける勇気はないが、壊れていたらそうも言っていられない。恐る恐る草履を履き、耳をそばだてながら足を進める。

 また、音がした。今度は何かが引きずる音だ。次は、苦しそうな息づかい。

 誰かが生き倒れていることを想像した葵はそっと戸を開ける。

 音の招待は、黒い服を着た男だった。頭から落ちかけている帽子で軍人だと読み取れる。膝をついてうずくまり、息は荒い。ひどくつらそうに見受けられた。

 葵は勇気を振り絞って声をかけてみる。


「あの、どうかされたんですか」

「――かまうな」


 息づかいの合間に聞こえたのは拒絶だった。

 かまうなと言われても、放っておける状況ではない。


「誰か、呼びましょうか」

「――呼ぶな」


 一層、呼吸が荒くなる。

 遠くで罵声が聞こえた。男は振り返り、舌打ちをする。


「お困りのようでしたら、隠れますか」

「かまうなと、言っている」


 かすれた声で返された葵は口を結んだ。これでは堂々巡りだ

 男は苛立たしげにもう一度舌打ちをして、立ち上がろうとしたが、叶わない。起きかけた体は柱に手をつき、辛うじて倒れていないだけだ。慌てて燭台を置き、支えに来た葵を苦々し気に睨む。振り払う余力さえ残っていないようだ。

 葵は男の肩を支えようとして躊躇する。

 黒い服だと見ていたものは血塗れた軍服だった。鉄色が濃く染まっている。


「やはり、お医者様を」

「呼ぶな、と言っただろ。放っておいてくれ」


 血の匂いがさらに強くなる。悠長に話している場合ではないのに、男は頑として引かなかった。

 何も知らなかった葵なら、縮こまって大人しく引き下がっていただろう。

 血塗られた軍服が、なぜか彼の人に重なる。

 恐怖をはねのけるように葵は顔を上げ、男の脇に体をすべり込ませた。触れた体は熱く、なおも身をよじる男に啖呵を切る。


「戦地で大切な人が亡くなりました。私は、人が死ぬ所を見たくありません」


 頭に血が上った葵は足に力を込め、踏ん張った。

 男は一瞬動きを止めていたが、息を吹き返したように傷ついた体で抵抗をする。

 葵は深く深くため息をついた。叫び出したい気持ちを抑えて男を睨む。


「いい加減、折れてください。大声で人を呼びますよ」


 葵の目は本気だった。

 時間の無駄だと諦めた男は仕方なくやりたいようにやらせる。

 家に入れたはいいものの、葵は傷の手当てなど全くわからなかった。男を座らせ、しばらく考え込んでしまう。無言の圧で貶されているようで、居たたまれない。


「水」


 聞き取りづらい声に弾かれたように葵は奥に引っ込んだ。水を取りに行き、咄嗟に思い出した包帯を持って帰ってると男の上半身は裸になっていた。

 踵を返しそうになるのを寸前の所でとどまり傷の程度を見ているだけだと気付いた。古傷の多さに眩暈がしたが、想像したより傷は少ない。


「水」


 固まっていた葵はすぐさま桶を差し出した。男はさしてある杓で水を飲んだ。全てを飲み干す勢いで喉を鳴らす。それを三回繰り返し口を手でぬぐいながら、布と唸った。

 清潔とは言い難いが売れ残った布きれはいくらでもある。葵が行李を出すと、男自ら水と布で傷の汚れを洗い流した。深い傷は圧迫して止血する。


「肩」


 一瞬、葵は何を言われたかわからなかったが、肩の傷をみるように言われたと判断した。男の指示に従って見よう見まねで手当てをしていく。一番酷かったのは背中で幾つものみみず腫が走っていた。最後に黄色いや水色の綿の上から包帯を巻く。

 巻き具合を確認した男は再び水を飲んだ。倒れかけていた時よりも顔色は回復している。

 最初はわからなかったが、鬱蒼とした髪には見覚えがあった。葵を助け、夜道ですれ違った男だ。


「何があったんですか」


 我慢できずに葵は訊いた。

 胡乱気な顔を向けた男は鬱陶しそうに目を眇める。


「お前、馬鹿か?」


 夜道で見た紫の瞳だ。先ほどまでは傷にばかり目が言って、顔を窺う所ではなかった。

 瞳を凝視する葵に男は興醒めしたように顔を背ける。


「理由を聞いてどうする。何かできると思っているのか」


 自惚れるなと男は吐き捨てた。

 膝の上で拳を握る葵に至極面倒くさそうなため息がつかれる。


「礼の代わりに教えてやる。面倒ごとを知ったら逃げられなくなる。最悪、殺される。今後一切、首を突っ込むな」


 手厳しい忠告を叩きつけた男は礼も別れも言わずに出ていった。


。゚。゚。❀。゚。゚。


 昨晩の男のことが気になり、なかなか寝付けなかった葵は何年かぶりに昼まで眠りこけていた。仕事が休みなこともあり、家族が声をかけなかったことも大きい。

 疲れが抜け切れてない体はまだ眠い。着替えを済ませて食事を終えた葵は誘惑に負けてまた夢の世界に旅立とうとしていた。


「失礼! 誰か家の者はいませんか」


 店先から聞こえたよく通る声に葵は閉じかけていた目を開けた。あの声に似ているが、わずかに違う。声の主が気になった葵は声の方へ足を運ぶ。

 鉄色と鳶色。思い出の色と重なるが、やはり違った。似た雰囲気を持っているが、佐久田ではなく、彼の兄だ。

 両親と弟に話を聞き終えた兄が葵に目をつけた。

 鳶色の瞳にひるみそうになるが、相手は逃がしてくれない。


「昨晩、このあたりでこのような男を見かけませんでしたか」


 出された人相書きに葵は目を疑った。

 浮浪者にも見える鬱蒼としたくせ毛に、浅黒い肌。特徴に紫の目と書いてあり、昨晩の男に間違いない。

 気まずそうな顔をする葵に半眼が向けられる。


「すごい強運だな」


 砕けた口調に葵は面食らった。悪運の間違えではないかと言いそうになったが黙っておく。昨晩、散々怒られた分、心が回復していなかった。

 葵の戸惑いを放って軍人はハリのある声に戻す。


「いつ、どこで見ましたか」

「い、家の前で、倒れているのを、見ました」

「話しましたか」

「……話しました」

「具体的には何を」

「手当ての仕方を……あ、でもちゃんと話してはないですね」

「手当ての仕方?」


 呟かれた声は極小さいのに、白い紙に墨を落としたようにはっきりと葵の耳に届いた。

 妙な間が空き、真顔に凄みが増す。

 墓穴を掘ったと葵は青ざめ、顔を引きつらせたが、手加減は望めそうにない。

 兄がじりりと焼け付くような目を向ける。


「念のために訊きますが、怪我の手当てはしていませんね」


 佐久田とよく似たやわらかい笑顔なのに、脅迫するような凄味があった。

 家族が心配そうに見てくるが葵はそれ所ではない。指をいじり目を泳がせ、逃げ道を探したが、誤魔化すわけにも嘘をつくわけにもいかない状況だ。


「……けがのてあてを」


 しました、と葵は消え入る声で白状した。

 投げやりなため息を吐いた兄は至極面倒くさそうに吐き捨てる。


「面倒なことになったな」


 こちらの方が素のようだ。

 怯える葵に兄は半笑いを向ける。


「君、この男から何も聞いてないよな?」

「何も、教えてくれませんでした」


 真意を探るよう向けられた目を葵は真正面から受けた。背けたかったが、潔白を証明するために手汗をかきながら耐える。

 あきたように目を外した匠は虚空に遠い目をやった。


「あちらさんも、そう思ってくれたらいいんだけどなぁ」


 ぼやくような言葉は葵にしか聞こえなかったようだ。

 家族も何かを言ったとは感じとってはいるが、触れてはいけないと距離を取っている。薄情とも取れるが、手間を増やしては葵の迷惑になると判断したのだろう。

 そう勘づかせるだけの雰囲気が醸し出されていた。

 人相書きをたたみ、胸元にしまった兄は仕事の顔に戻す。


「失礼、戯れ言が過ぎました。僕は佐久田匠と言います。何か困ったことがありましたら、何処の駐屯地でも構いません。僕の名前を出していただけたら、連絡が取れるように動きます」


 それから、と兄は続ける。


「貴方に一人つけさせていただきます。迷惑にならないように身辺警護をさせますので、安心してお過ごしください」

「え。困ります」

「何か後ろめたいことをされているのですか」


 冷えた目から逃げるように葵は視線を落とした。そういうわけではなく、と言い淀んで逃げ道を求めるように続ける。


「誰かについてもらうとなると、仕事が……」

「大丈夫です、むやみやたらと吹聴することはしません」

「そういうわけでは……」


 言い淀む葵に佐久田は無言で促した。

 べそをかきたくなる気持ちを抑えて葵は答える。


「仕事がなかなか終わらないのでご迷惑おかけするかと……」

「自分の身よりそちらの心配をされますか」


 冷めた声に身がすくんだ。

 ちらりと見た笑顔は、佐久田とよく似たやわらかいものなのに、有無を言わせない力がある。


「空木葵さん、ご協力願えますね?」


 あまりの恐ろしさに葵はしぶしぶと承諾した。

 遥か空から聞こえてきた鳶の鳴き声が何とも滑稽だ。

 兄が立ち去り、鬱々と言葉を反芻していた葵は疑問に突き当たった。

 なぜ自分の名前を知っていたのだろう、と。



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