拾玖 遠足
「晴れてよかったわねぇ」
恵子の声で葵も空を仰いだ。
上りはじめた太陽は生き生きとしており、それを囲む青も何処かあたたかい。頬をなぜる風も優しく、やわらかい雲をゆっくりと流していた。
葵の気持ちも晴れやかになって、大きく息を吸う。
「絶好の遠足日和ですね」
上級生の目的地は最寄駅から二つ隣にある
「てるてる坊主を作ったかいがあったわ」
「……私も作りました」
二人は顔を見合わせて、少女のように笑った。下見や汽車の時刻の確認など、授業の準備と合わせてやっていたので体はくたくただったが、楽しみなことは変わりない。
ひとしきり笑った後、恵子は真面目な顔をして言う。
「さ、気合を入れて行くわよ」
見据えた先の玄関前には生徒達が入り乱れ輪を作っていた。
息を吸った恵子は小さな体からは想像のつかない大声で周りに呼びかける。
「出席番号順に並んで! 前後がそろった人から座って……こら、横に広がらない! あっちに行ったらたくさん話せますから、ちゃんと真っ直ぐになさい」
恵子の奮闘ぶりに勇気づけられた葵も集まり始めた生徒の輪に入る。
友人との旅に浮き足立つ者、初めての汽車に不安な顔をする者、弁当を楽しみだと言う者と生徒達の様子もさまざまだ。
迷子や怪我人を出さないためにも葵達が責任を持って連れて行く必要がある。
整列をさせて人数を確認した後、校長先生からの諸注意を含めた挨拶を聞いた。皆、真剣に聞いているので、よほど楽しみなのだろう。
ゆるみそうになる顔を引き締めた葵は生徒達を連れて出発した。待ち時間に騒ぎ始めた生徒を諌めることはあったが、特筆した問題があるわけもなく、見晴山の展望台についた。
弁当前の自由時間には思い思いに子供達が遊び回る。
落ち葉を雨のように降らせる様子を見守っていた葵の横に和泉が並んだ。今日は補助としてついて来てくれている。
「楽しそうですねぇ」
「はい。和泉先生が計画に賛同してくださったおかげです」
小さく頭をたれる葵に和泉は口元の皺を深めた。
「いえいえ。胡桃谷先生の熱意がすごかったですから。こんなに喜んでもらえるなら推したかいがあるというものです」
わっと声が上がった方を見れば、木を揺らして虫を落としている生徒がいる。
片足を踏み出した葵の背に和泉の声がかかる。
「そろそろ弁当の時間ですから、叱るのはほどほどに」
「そうですね。六年生もついたようですし」
背中越しに頷いた葵の行く先でまた声がわく。頭が痛くなる思いで歩幅を広げた。
「帰りは気が抜ける生徒も多いです。気を引き締めていきましょう」
和泉の励ましに、背を向けたまま返事をした。
午前中の穏やかさが嘘のように強風が吹き荒れる。暗雲も立ちこめてきたから、ひと雨来そうだ。
帰る時でよかったと空を窺っていた葵の耳に小さな声が入る。
「あ……切符……」
振り替えれば、一人の女子生徒の手から切符が離れいた。
泣きそうな子はをひと撫でして安心させた後に葵は遠くにいる二人へ声を張る。
「胡桃谷先生、和泉先生、少し離れます」
頷くのを確認した葵は駆けて取りに行く辰次を追いかける。
強風に煽られた切符は落ちたかと思えばさらに遠くへ飛んでいく。嘲笑うかのごとく、右に左に揺れて、乗車時間近くで賑わう集団の中に落ちた。
人に潰されまいかとひやひやしたが、器用に切り抜けた辰次は切符を挙げる。踏まれる前に拾えたみたいだ。
人波を抜けようと葵が姿勢を低くした時、横から強い力で押された。声を出す暇もなく体をコンクリートに打ち付け、線路の方へ回転する。
辰次の顔が遠ざかるの見ながら、葵は何もできなかった。放り出された手に辰次の手が伸びる。辰次の手が届いたような気がしたのは気のせいだった。
人々の顔がやけに遠い。落ちていく視界に曇天が広がり、稲光が一瞬光る。
宙に浮いた体が地に落ちるだけとなった時、あたたかい手に引かれた。今ある状況とは逆の力に引き寄せられ、気付いたら冷たいコンクリートに手の平を置いている。膝にも足の甲にも固い感触があった。
肩にかかる速い息づかいに顔をあげれば、見知らぬ男に抱え込まれている。鼻をくすぐるのは汗の匂い。目の前に映るシャツは一番上までとめられ脈動する喉仏を隠していた。少し動けば、男の顔は近く、よく見えた。切れ長の目に実直そうな眉、固そうな髪は爪の長さも無さそうだ。目は合っているのに、合っていない。不思議な感覚だ。
見開いたままの目に映る男が口を開こうとする。
「先生、大丈夫かっ」
葵も何か言わなければと口を開きかけた時、男の声は辰次にかき消された。
夢から覚めたように、雑踏の声や人々の視線が耳に甦り体にささる。葵は取り戻していく感覚を他人事のように感じていた。
「うわ、汚れてる。怪我は?」
「え、あ。はい、大丈夫です」
甲斐甲斐しく世話を焼く辰次に気を取られていると、男が立ち上がった。何も言わずに去ろうとする男に葵は声をかける。
「あの、名前、は」
喉に絡みついた言葉は上手く声にならなかった。
男は会釈して人ごみに消えていく。
遠くの空で雷が鳴り、傷の痛みの後に切符のことを思い出した葵は辰次に視線を戻した。
辰次は怪我一つなく、しっかりと切符を握っている。
嘆息をついた葵は駆け寄ってきた恵子の手を借りて足に力を入れた。服を整え、細部を確認する。怪我はしているが、打ち身と手のひらの擦り傷だけだ。遠足に備えて着込んでいたことが幸いした。
汚れを払う葵の横で辰次が呟く。
「無口な兄ちゃんだったなぁ」
「名前、聞けなかった……お礼も……」
肩を落とす葵に意外そうな目を向けた恵子は男の去った先に視線をやった後、もう一度葵を見る。
「あの人なら知ってるわよ」
思ってもみなかった発言に葵は詰め寄らずにはいられなかった。
葵の気迫におされた恵子は目を丸くしている。
「空木先生が無事でよかったですねえ。いやはや、乗降場は危ないですから、早く帰りましょうか」
和泉の呼びかけで自身を省みた葵はすぐさま生徒達に駆け寄った。
生徒達が解散するのを見計らったように雨が降り始めた。地面に落ちる粒は大きく、風はエンジンのような唸りを上げる。
帰りそびれた葵と恵子は、雨足が弱まるのを待ちながらとりとめのない話をすることにした。
「無事に終わってよかったわねぇ」
「はい」
「葵さんが倒れた時はどうしようかと思っちゃった。どうしてあんな所でこけたりしたの?」
「はい」
「……わたくしの話を聞いてるなら、
はい、と答えられたので、恵子はやれやれと肩をすくめた。
横に目だけをやれば、幻を見るようなぼんやりとした葵がいる。生徒達がいなくなった瞬間これなので、片付けも一苦労したのだ。葵の耳に顔を近づけて吹き込むように教えてやる。
「
「やませ、しろう、さん?」
寝言のように呟いた葵に、駅で助けてくれた人よと恵子は付け加えた。
瞬きを繰り返すごとに葵は顔色を変える。
「葛西大尉って、あの」
「そう。泣く子も黙る白炎の死神、葛西大尉」
「え、えらい人に助けられました……」
葵は大げさに項垂れた。端から見てもかわいそうなぐらいだ。
「……助けたのは小間使いだと思うのだけど」
ぴんとこない恵子は眉を寄せた。
落ち着く様子の無い葵は両手を組んで、目を泳がせている。
「まぁ、でも素敵だったわよねぇ」
葵は音がしそうな勢いで恵子に振り返った。
友人はいつにない葵の真剣な姿に、優艶な笑みを浮かべる。
「だって、そうでしょう? 助けた後に颯爽と去って行くのよ……あら、匠さんみたいだわ」
さっと青ざめた葵は今度は背中に嫌な汗をかく。恵子の頬が染まるのを見て、手遅れだと悟った。
「思い出して、またときめいてしまったわ。ねえ、葵さん聞いてくれる? 聞いてくれるわよね」
恵子の笑顔に負けた葵は、何十回目かになる出会い話を延々と聞かされた。
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