弐拾  お泊り

 嵐が去ると同時に呼ばれた葵は重い頭を机から離した。寝れないと思っていたが、うたた寝をしていたらしい。薄暗い玄関に向かい、まだ夢の中かと勘違いしそうになる。

 般若の風格をかもし出しながら、笑みを装う佐久田の兄がいたからだ。式台に腰かけた兄は、母が用意した茶と菓子に手をつけず腕組をしている。軍服も相まって、ものすごい威圧感だ。

 葵は回れ右をしたくなったが、母が首を横に振るのを見て諦めた。仕方なく、兄の斜め後ろに正座する。温まっていない廊下は冷たく、痛かった。

 無言は葵への罰だろうか。覚えのない所も痛い。

 静かに話したいなぁ、というこれ見よがしな発言で、そそくさと母は奥に引っ込んだ。

 一気に心細くなった葵は母が巻き込まなくて済んだと思うことにする。そうしなければ、気が振れそうだ。

 身の毛がよだつにっこりとした笑顔が振り返り、葵は動けなくなった。


「お嬢さん。気付いていないようだから言うんだけど、昨日のあれ、わざと押されたんだからな」


 突飛な話に頭がついていかない。昨日今日と、平和に暮らしていると思っていたのは思い違いらしい。


「……わかりませんでした」

「気付いていないようだから言うんだけど、何回も襲われそうになったり、拐かされそうになってんの。あの男を助けてくれたばっかりに、あちらさんががあの手この手で君を消したり利用したりしようとしてるのわかってる? 俺達の努力わかってる?」

 

 兄はあの、あちらと濁すが、棘は一切隠していなかった。物騒な言葉も並んでいるが、それには注意を払わないらしい。

 二度も同じことを言われた葵はさすがにムッとする。

 

「仕事をしているだけじゃないですか」

「君が、注意力散漫だから、無駄に、手がかかる」


 兄の剣幕を前にしては葵の反撃は続かなかった。

 こっちの身がもたないんだよ、とぼやいた兄はすっくと立ち上がる。手にはちゃっかりと菓子が握られていた。


「狙われていると肝に命じて、緊張感を持って過ごしてくれ」


 言いたいことだけを言いたいだけ言った兄は終わったとばかりに戸に手をかけた。

 打ちひしがれていた葵は戸の開く音に慌てて腰を上げる。


「待ってください」


 兄は応えずに無情にも戸を閉めた。

 懲りない葵は草履も履かずに追いかける。


「待ってくださいって、さ――」


 呼び止めようとした葵はその先を言えなかった。佐久田と呼ぶだけなのに、口がどうしても言う事を聞かない。


たくみでいいよ」


 ため息混じりの言葉に葵は驚いた。何も言っていないのに、汲み取っている所が佐久田と似ている。

 足を止めた匠はさみしそうな笑顔をたずさえていた。顔は雄弁に語っているのに、本人は何も言わずに踵を返す。

 感慨にふけっている場合ではないと葵は言葉を投げる。


「匠さん、お願いがあります」

「絶対いやだ」


 葵は不恰好に目と口を開けた。さっきの哀愁に満ちた顔は見間違えだったのか。

 背中越しに振り返った匠は呆れた目を向ける。


「何となくはわかるけどな。ほら、聞くだけ聞いてやる」

「……山瀬さんにお会いしたいです」


 葵は真剣そのもので、匠は至極面倒そうな顔をする。


「面倒だ」


 気だるさを全面に出した口調で断った。

 大人げのない態度が葵は信じられない。佐久田と同じような顔をして、佐久田と同じ表情を浮かべる時さえあるのに、彼の兄とは思えないむごい仕打ちだ。

 匠は可笑しそうに笑って、口端を上げる。


「会うときゃ会うだろ。じゃあな」


 後ろ手を振った匠は今度こそ振り返らずに姿を消した。

 匠に言われたせいか、誰かに見られているような気がしてきた。

 背中を見送るしかできなかった葵は今日の夜から顔を青くした。


。゚。゚。゚。


 なんとか授業をこなした葵は終わりの鐘が鳴ると恵子の所へ飛んで行った。


「どうしましょう」

「葵さん、何が話したいか全くわからないわ」


 葵は自分の間抜けな行動に絶句した。授業に手いっぱいでどうを言うか考えていなかった。口を開けたり閉じたりしてみても、言葉が出なければ意味がない。

 恵子は口を尖らして眉を下げる。


「今日のお泊り、都合が悪くなった?」

「ええ、まあ、ええ……でも」


 今晩、葵と恵子はフミの屋敷で泊まる約束をしていた。働くようになって、話す時間がなくなり、この際なので泊まる話になったのだ。遠足での慰労の意味合いも込めて土曜の半休と日曜の休みを使って計画していた。

 疲れも楽しみと匠の言ったこと、言いたくないことが頭の中で大混雑している。


「そんなにしどろもどろになって……昨日の疲れが出たとか?」

「そういうわけでも、あるような、ないような」


 歯切れの悪い答えに恵子はますます眉間の皺を寄せた。

 恵子には男を助けたことも、匠に会ったことも伏せていた。物騒ではあるが、終わった話で危険はないと思っていたからだ。匠の問題ありな性格を隠す自信がなかったことも大きい。恋しい人の悪口を言うほど、葵も無粋ではない。

 護衛をつけるとは言われたが、その姿を見たこともないから大げさに言ったのだなと考えていた。能天気なのは葵だけだったようだが。

 いつまでたっても、はっきりと言わない葵に恵子がしびれを切らす。


「もう! 何が心配かはっきりおっしゃって!」

「身の危険ですっ」


 飛び出た言葉に葵も恵子も丸くした。

 互いに不思議そうにする顔を見合って、時が過ぎる。

 早く立ち直ったのはもちろん恵子だ。


「それなら大丈夫よ。フミさんのお家なら安全ですもの。さ、話は着いてからにしましょう?」


 形のいい笑顔に葵は白旗を挙げた。



 西洋街にほど近くにある三浦みうら邸は港を見下ろすように君臨していた。人の力では越えられそうにない塀がぐるりと囲み、門には屈強な見張りが二人もいる。名前を伝えるとすぐに通され、名前のわからない花や植物が力強く生える庭園を歩く。噴水の背の高さにはあまりの迫力に異国に来たのではないかと錯覚する。目に映る全てに心が沸き立つ。

 恵子の堂々とした歩き方に比べて、葵のものは心許ない。


「やあ、いらっしゃい。足労かけたな」


 両開きの扉の内側からフミは華麗に挨拶をした。

 寮でフミの世話ばかりを焼いていた葵は信じられない面持ちだ。


「葵さんがおかしいな」

「今日はかなり変なの」


 失礼な物言いをされても葵は聞こえていなかった。

 幾何学模様の壁紙には色彩豊かな異国の絵画がかけられ、支柱は石でできている。出迎えてくれた使用人も体にあった洋服を来ており、正した姿は美しい。

 目を輝かす葵にフミは合点がつく。


「招待するのは初めてだったか」

「新しく建てたんでしょう? 金持ちよねぇ」

「金の出所は考えたくないがな」


 フミが先導して、恵子と葵はついていく。

 窓から見えた庭園では先ほどは見られなかった庭師達が作業をしていた。

 赤い髪を見つけた葵は何気なしに呟く。

 

「異国の方も働かれているんですね」

「技術は買い入れて盗めって、父がいつも言ってるからな。それなら、外国人を雇って作らせた方が速くて安く済む」


 別の窓から庭園を見下ろしたフミは饒舌に語った。

 葵はフミの方へ顔を向ける。

 

「目で盗め、ですか」

「そればっかりではどうかと思うが、学ぶことは悪くないからな」

「何だか仕事のことを思い出すわ……その会話、やめない?」


 恵子の渋い顔に葵とフミは目だけを示し合わせた。

 フミが、仰せのままにとふざける。

 学生時代の他愛のない会話そのもので、三人はひとしきり笑った。



 夕食にハヤシライスを馳走なった葵は半分寝かけていた。昨日の睡眠不足がたたったからだ。

 恵子とフミはまどろむ葵を布団に入れてやって、いよいよ本番だと張り切る。

 先陣を切るのは恵子だ。ねぇ、聞いてくださる、から始まる熱弁をふるい始める。


「先日、世話になっている家が引っ越すから下宿したいってお願いしたの。そしたら! 右も左もわからない小娘が下宿するもんじゃない、って言うのよ! 信じらんない! 職業婦人も当たり前なのに時代遅れもいい所よ! 一人暮らしもできなくてどうやって生きていけと言うのよ」

「心配なだけですよぉ」


 布団から聞こえたのんびりとした声を聞いても、恵子は態度を変えない。

 

「どーだか。勝手なことしないように、見える所に置いておきたいのよ。もう子供じゃないのに、失礼しちゃう」

「見た目は完璧な小娘だぞ」


 葵の布団をかけなおしてやったフミはすました顔で言った。

 大きな目に角をたてて恵子は憤慨する。

 

「フミさん、とおおぉぉっても失礼よっ」

「ほめているんだがな」

「ほめてなあぁいっ」


 夢心地の葵は仲がいいなぁと聞き流した。

 枕を小さな拳で何度も殴る恵子にフミは言って聞かせる。

 

「親も心配なんだろう。神隠しの噂も聞くしな」

「フミさんの耳にも入ったんですねぇ」


 葵は気になる言葉を聞いて、布団から顔を出した。

 ほんのひと月前から立ち始めた噂だ。子供がさらわれたという話もある。生徒達にも注意を呼び掛け、複数人で帰らせるようにしていた。

 フミは恵子と葵を見て、肩をすくめる。

 

「異能持ちばかりが消えると聞いたが、外国人も狙われていると耳にしたら見過ごすわけにもいかないだろう」

「物騒な話よねぇ」

「まるで魔女狩りみたいだな」


 そう言った声には熱がなかった。フミの顔は冷笑を浮かべている。

 怪談でも始まりそうな空気に切り込みを入れるように扉が叩かれた。

 フミの許可で女中が部屋に入ってくる。

 

「不審な奴を捕まえたと門番から言伝がきました。従来通り、詰所に連れていこうとしたら、空木様の知り合いだと言い張っているようです」


 二人が見下ろせば、葵はすでに夢の世界に旅立っていた。

 女中の報告にフミと恵子は無言で問答しあう。双方に知らないという結論に至った。

 フミは念のためにと確認する。


「名前は?」

「山瀬司郎と申しております」


 女中の答えに覚えのある恵子はフミの肩を叩いた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る