拾   予兆

 葵は掲示板に貼り出された紙を見て動きを止めた。尋常小学校の手伝いを募集するものだ。日時や内容を熟読していく。


「何を見られてるんですか」


 肩を震わせた葵はゆっくりと振り返った。

 佐久田が横に並び、掲示板を物色し始める。

 並んで座る受付よりもさらに一歩近付いた距離だ。

 温度を感じられるような近さに指先が震え目が泳いだ。両手の指を絡めれば、手汗でベタついている。葵は逃げ出したくなったが、実行できるものでもない。震えそうになる唇をわずかに開く。


「い、いえ、特には何も見ていません」

「尋常小学校の貼り紙を拝見しているように見えましたよ?」


 覚えのありすぎる行動に呆れて肩の力が抜けた。


「……また、しばらく観察されていたでしょう」


 指摘した葵は半眼だ。

 佐久田に悪びれた様子はなく、素知らぬ顔で虚空に目をやっている。


「ばれましたか」

「ばれるとわかっていて、そう言うのは、ちょっと、面白くないです」


 葵は口を尖らした。佐久田の行動よりも、自分が変な行動をしていなかったが気になるが確認できるはずもない。これは失礼、と横から聞こえる謝罪に、返事もせずに顔を俯かせるぐらいには大人げなかった。


「参加されたらいいと思います」


 沈黙を破り、ごく自然にかけられた言葉は取り繕われたものではない。

 誘われるように顔を向けたら、視線がかち合った。胸がざわつき、葵はすぐさま元の位置に戻す。


「気が引けて、ちょっと……」

「参加したいと顔に書いてありましたよ」


 背中を押してくれるのは有り難いが踏み込む助けには至らない。

 参加したいのはやまやまですが、とにごした葵は伏せていた瞼を上げた。直視しないよう胸元から上へ目線を徐々に動かす。表情の読みにくい横顔が遠い存在に感じられた。


「自信がありません」


 吐露した葵に佐久田は困ったように眉を下げる。


「手伝いとあるので難しいことではないでしょう。子供相手なので、そんなに気負わなくていいと思うのですが……」


 葵はただただ失敗が恐いだけだ。何より子供達の目が恐ろしい。

 無邪気で純粋で心のままに感情を映す瞳はいとも容易く葵を奈落の底に落とし、決して脳裏から離れない。勉強をつんでも、どうしようもできないことだ。


「まずは少人数を相手できる場所があればいいのですね」


 うつむいた葵をいたわるように言葉が重ねられた。

 葵はますます申し訳なくなった。子供みたいにだだをこねているだけではだめだ。

 勇気をふりしぼり顔を上げた葵と佐久田の顔が近付いた。眼鏡が必要のない視界はことさら鮮明だ。

 距離の近さを再確認した葵は指先をいじり平静心を取り戻そうと必死になった。ずっと見られていたのだと心臓が跳ね、脈がのたうちまわる。焦って口走ったのは言うつもりのなかったことだ。


「さ、佐久田さんは参加されないんですか」

「……しません」


 悩む素振りを見せたが答えは否に傾いた。

 葵のまとう空気が暗くなる。

 一人で参加することが恐い葵はあわよくばと考えた卑しい心を張り倒したい。

 恵子やフミを誘うことも考えたが、声をかける前に半ば諦めていた。

 最近の恵子は普段と変わらない様子を装っているが、上の空でいることが多く気がそぞろだ。フミには執筆に忙しいと一蹴されるだろう。

 本当は友人を言い訳にせずに参加しなければならないことは分かっていた。失敗を思い出し、どうしても足が前に進めない。

 そんなに残念そうな顔をされなくても、と苦笑した佐久田は続ける。


「空木さんだってご存知でしょう。得することがあれば参加します」

「そんなこと言われたって、誘い文句は思い付けません」

「口説いてくれないんですね」

「くど……っ! 意地悪がすぎませんか」

「素直な反応を見せる人が新鮮に思いまして」


 狼狽する友に対して猫のように目を細めた。

 開いた口を震わせた葵は返す言葉が見つからない。

 目尻にしわを寄せていた佐久田が一つ瞬いた。忘れてました、と呟いて横を見る。


「今日の当番、空木さんではありませんでしたか」

「いけない、鍵を持っていかないと」

「先生から新書を預かるよう聞いています」


 大股で歩き始めた葵は勢いよく身を返した。たしなめるようにじっと見つめて低く唸る。


「また、当番を変わりましたね?」

「ご明察、ですね」


 笑ってごまかす佐久田に葵はほとほと疲れた。自分だけ振り回されているみたいだ。気にしない気にしないと心の中だけで言い聞かせて、事務室に向かう。

 距離を置いてついてくるので、心臓を落ち着かせるのにちょうどよかった。

 数冊の新書は佐久田に任せ、鍵を手に早足で進む。すれ違う生徒が佐久田に声をかける姿を見て、男子の方でもいぶかしむ声があったのかもしれないと察した。

 ただの友人なのに、男女で並び歩く姿を周りはそう取らない。無遠慮に後ろ指をさされるのは葵もこりごりだった。

 殺風景な廊下を進み階段を上る。

 窓から見える校庭の木々は鮮やかな装いをやめ、寒々しい姿になっている。地面を隠す落ち葉だけが名残だ。

 体が大きくなるにつれて見える社会が広がり、年を重ねるにつれて人との距離が取りづらいことが増えた。感情に折り合いを探すようになったのはいつからだろう。

 悩んでいた葵は図書室が見えたので思考を止めた。扉を開けて追いついた佐久田を招き入れる。

 礼を言う佐久田を見上げ、胸がざわめいた理由にわかった。受付で並んで座っている時には気付かなかったことだ。


「身長のびました?」


 意外そうな顔をした佐久田は、測ってないのでわかりませんがと机に新書を置いた。腕を上げたり、裾を観察して続ける。


「二十歳までは身長がのびるから制服は大きいものを買えと言われましたね」


 葵も匠も今年で十八歳になるので、後二年は背丈が変わるということだ。葵たちは確実に大人に近づいている。

 気付かなかったが、服が体に合ってきたように見えた。

 佐久田の詰襟は、毎日着ているはずなのに入学時と差分が無い。上級生のものは生地が傷み光を反射することを思えば不思議なぐらいだ。


「さすがに距離が近いと思うのですが」


 目と鼻の先で制服を注意深く観察していた葵は飛び退った。

 

「すすす、すみません、服が見たかっただけですので! 決してわざとでは! いや、わざとですね、すみません!」

「わかってますよ」


 俊敏な動きに目を丸くした佐久田はあどけなく笑った。


「窓を開けてきますね」


 広げた距離がさらにのびていく。

 気にもしてもらえない葵はさみしさを覚えた。


。゚。゚。❀。゚。゚。


 月明かりは帰寮したフミの厳しい顔も隠さず照らしていた。

 挨拶もそこそこに葵は首を傾げる。


「執筆が行き詰まりましたか」

「それもある」


 含みのある言い方に葵は何を言おうか迷う。

 座りもしないフミは、かつかつと椅子の背もたれを叩いた。考え事をしているようだ。執筆時にも指先で机を小突くことが多々ある。


「兄弟はいるか」


 苛立ちに怯えていると、唐突に話題がふられた。

 フミはまだ壁を睨んでいる。

 少しの間をとり、意を決した葵は口を動かす。


「姉と、弟がいます」

「……私にも年の離れた兄が二人いる」


 頭をふりながらこぼれた言葉はため息混じりだ。閉じられていた瞼が上がり、薄目を開ける。


「米と石炭の輸出の制限がかかった」


 ぽつりと落ちた言葉の隠された意味を正しく汲み取った葵は目を見開き青ざめる。

 フミの実家は貿易で生計を立てる豪商だ。扱う商品は多岐にわたる。

 輸入品を買い付ける資金源を制限する理由は限られていた。不作も閉山も新聞には載っておらず、耳にも入っていない。政府が動いたとなれば予兆としては十分だ。

 葵の様子を観察していたフミは迷うそぶりを見せたが表情を引き締めた。冷ややかな目を光らせる。


工廠こうしょうが大量に買付けをしている」


 葵は耳を疑った。確かめるようにフミを見れば顎に拳をあて、火のないランタンを睨み付けている。

 武器製造を担う工廠が動き出したとなれば、理由は一つしかない。


「盗み聞いたから確実だとは言えないが、きな臭いと思わないか」

「そう、ですね」

「でも少しだけ安心した」


 葵は腑に落ちない顔をした。

 意味を取り換ねている友に後ろめたい笑顔が向けられる。


「私のとこは金さえ積めば、兵役を免れるからな。君のところは長男だし、まだ早い」


 男は二十歳から徴兵され、体が虚弱な者や金を払える者は免除されるという。高等師範学校に当てはめていえば、該当するのは四年生だ。

 不安でたまらない葵は口が動くのを止められない。


「あの、四年生は、先輩方は大丈夫でしょうか」

「高等教育を受けている者は免除されるだろう。特に教員は少ないからな。徴兵の対象にはならないはずだ」


 フミは難なく答えて腕組みをした。息もしづらく思える研ぎ澄まされた空気の中、厳かに口は開かれる。


「戦争が長引かなければ、兵に取られることはない」


 早く終ってしまえと吐き捨てた顔は嫌悪をにじませた。

 葵はあいまいに頷く。

 沈黙が部屋を満たすが、破ろうとする者はいなかった。フミが無言で部屋を後にしたのを皮切りに時が流れ始める。

 友人の行き先が気にはなったが葵は布団に入った。探すあてもないし、一人で考えたいのかもしれない。ためた息を全て吐き出して瞼を閉じても気が散る。

 国の一大事とあっても可愛い弟を戦地に送り出すなんてことはしたくない。寝返りをうち、腹の上で組んでいた手を胸の前で合わせた。勝利を祈り、弟と家族の無事を祈る。

 きっと戦争は起こらない。大丈夫。弟はまだ十六だ。大丈夫。兵に取られることはない。大丈夫。

 念仏のように何度も何度も自分に言い聞かせる。

 ふと、何を願ってしまっているのだろうと葵は我に返った。戦地に向かう兵達にどんな顔を向けるというのだ。

 近所の疎遠になった幼馴染みや、世話になった卒業生や四年生の顔ぶれが脳裏に浮かぶ。

 フミの言葉を呼び起こし、必死になって自身をなだめた。

 佐久田の顔が沸き出る。少しずつ糸をはりつめるように息ができなくなった。

 国に身を捧げる家でも学生は免除されるのか。兄と弟がいると言っていなかったか。あの笑顔が見れなくなってしまうのでは。

 胸の前に置いていた手を額に移す。非力な葵は拝むしかなかった。



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