玖 双六
無事、文学科に進級した葵は自分で手を上げて図書委員になった。他の生徒が渋るのを確認して、じりじりとした時間が過ぎた後ではあるが、誇らしいことに変わりはない。
同じ科の恵子は一緒に遊べないじゃないと嘆き、葵は思わず笑ってしまった。
進級して、もうひとついいことがある。
「私、フミさんが図書委員をされると思っていました」
「執筆に力を入れたいからしないよ」
寮で同室のフミと同じ科になれたことだ。
入寮してすぐは机にへばりついて物書きをするフミに葵は近付けなかった。たまたま同じ図書委員になっても素知らぬ顔をされたので嫌われたと思い込んだぐらいだ。徹夜ばかりしていたフミが試験日に寝坊しそうになったのを起こしたことがきっかけで話せるようになった。蓋を開けてみれば、執筆に熱中するあまり周りが見えていないだけだった。どこか男っぽい話し方は愛してやまない探偵の影響らしい。佐久田の言葉の後押しでちゃんと向き合ったからわかったことだ。
恵子もフミも灰汁のある性格だが、表裏もなく常に及び腰な葵を馬鹿にすることはなかった。互いに何度か面識があったようで、葵を挟んで会話を始める。
「恵子さんのお宅に取材に行きたいんだが、構わないかな」
「しゅざい」
「喜んで招待をするのだけど、何の取材をされるの?」
葵の左右どちらも企むような笑顔だ。
「殺人現場の参考にしようと思ってね」
「さつじん」
「まぁ! 恐ろしいこと! フミさんの書かれたお話を元に事件が起きたらどうしてくださるの」
「そりゃ、取材に行くさ。私の作品がどこまで精巧に書けているか確かめるいい機会じゃないか」
「出演料をいただかなくてわね?」
「演劇に仕立ててしまうのも一興か」
どちらも声を潜めていたが、愉快そうだ。
葵は物騒な話に目をさ迷わす。
「空木さんが困ってますよ」
三人の瞳に鳶色が映る。女子棟に男子がいることは珍しい。佐久田の存在は浮いていたが、本人はいたって普通に微笑んでいる。
「四組の図書委員は空木さんと聞いたのですが間違いないですか」
「ええ、さっき決まったばかりですけど」
「会議の場所が図書室に変わりました。図書委員長が会議の後にひと通り仕事をさらいたいそうで」
わかりました、と葵は頷いて控えめに佐久田を見る。
「よかったら、女子棟は私が伝えましょうか?」
「一年は終わったので、上の学年になりますけど、大丈夫ですか?」
葵が力強く頷いて、佐久田は助かりますと目を細めた。
葵は先日のことを思い出して目を丸くした。
「どうかしましたか?」
佐久田は不思議そうな顔をして訊ねた。
「いえ、気になっていたことが解決したと言いますか、気付いたと言いますか」
「それは同じ意味ではないかしら」
「同じことを言っているな」
外野の二人が頷くのを赤い顔が睨み付けた。
「気にしないでください。些細なことなので! 佐久田さんも忙しいでしょう? 早く行ってください。気にしないで、ほらっ、気にしないでくださいったら」
両手を振ってごまかす葵に三者三様の態度を示して沈黙が過ぎる。一人は楽しそうに口元に手をそえて、一人は興味深く目を光らせて、一人は困ったように微妙な笑顔で。
場を取り繕うように一笑した佐久田は、また会議の時にと言って去っていく。
「ふぅん?」
「ふぅん?」
「二人とも、からかわないでください!」
葵の悲鳴じみた叫びに驚いた生徒が振り向くが、構ってはいられなかった。顔が熱い。からかわれたことも恥ずかしいが、それ以上に小さなことに気付いてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。
「気付いたこと、とは?」
「わたくしも知りたいわ」
葵は唸った。言うべきか言わないべきか。気付いたことは嬉しかったが、省みれば目敏すぎる。
「笑いませんか」
何を恥ずかしがることがあると二人の顔に書いてある。
「笑いませんね」
念には念を押した葵に双方から頷きが返った。
「笑ったら、目尻にしわができ、るんだなぁ……て、笑わないって言ったじゃないですかぁ!」
半べその葵は拳を作った。
「よく見てるわね、葵さん」
「探偵に向いてるぞ」
恵子もフミもからからと笑って逃げ出す。真っ赤な顔が追いかけたのは言うまでもない。
逃げるフミに時計を指差され、葵は慌てて各組に会議の変更を伝えた。始業の鐘が鳴り席に座る。
一息ついた葵はやっと思い至った。今年も佐久田と同じ図書委員になれた、と。
。゚。゚。❀。゚。゚。
「さ、三連敗」
うなだれる葵を見て、佐久田は眉を下げた。
机上に広げられた
利用者の忘れ物を保管しようと佐久田の手で受付に持ち込まれる。その忘れ物を物珍しそうに見る葵の姿が子供のようで、やってみますかと言ったのは佐久田だ。
人様の物で勝手に遊ぶなんて、と首を左右に振る葵に佐久田はおどける。僕、強いですよと。
授業のない土曜の昼下がり。図書室には珍しく利用者が一人もおらず、当番の佐久田と葵がいるだけだ。佐久田は相も変わらず先輩からの当番を引き受けていた。
「もう一度お願いします」
駒を始点に置きなおした葵が隣にいる佐久田に頭を下げる。
佐久田も駒を始点に戻すことで了承を示した。
受付の机には本ではなく双六が広げられ、並んで座る二人が盤上に視線をすべらせる。開け放たれた窓から聞こえる鳥の声に混じり、こん、と賽子を転がす音が響いた。
隣で息を吹き出すのを感じた葵は小首をかしげる。
「どうかされましたか?」
いや、と笑みをこらえながら佐久田は賽子を振り、葵に渡したが不思議そうな顔は変わらない。観念して白状する。
「ちょっと弟のことを思い出してしまって」
「弟さん?」
葵は目を瞬いた。以前の話から下がいるのは思ってはいたが、弟のようだ。
兄のことは恵子に教えてもらってはいたが、佐久田には聞けていなかった。軍のことを隠せず、首を突っ込んでしまいそうだからだ。聞きたくても聞けない、を繰り返していた。
佐久田は葵の手が止まったことを咎めずに答える。
「生真面目で融通がきかない弟がいますよ。空木さんのとこはどうです?」
しかめっ面の佐久田を想像した葵は頬をゆるませた。会話が止めていたと慌てる。
「あ、姉の世話まで焼いてくれる頭のいい弟がいます」
「仲がよさそうですね」
「……そうですね。心配をかけてばかりで申し訳ないんですけど」
葵は答えに迷うそぶりを見せたが、結局は照れた笑みで頷いた。
こん、と音が鳴る。葵はマスを進め賽子を渡す時に、じっと見詰めて話の続きを促した。
好奇心に満ちた瞳に破顔した佐久田は応える。
「小さい頃の話なんですが、僕がシャボンを褒美にもらったことがありまして」
こん。公園で休憩をする。一回休み。
二回振ってください、と賽子を渡した佐久田が続ける。
「確か、試験で上位が取れた時です。父が土産に買ってきてくれたんですよ。珍しいこともあるものだと思いました。身内のことをこう言ってはなんですが、子供にも厳しい父ですから」
こん。迎賓館で演奏を聞く。
「そうしたら、弟が兄ちゃんだけずるいって言い始めました。僕も僕で子供だったので弟に貸してやらなくて。意地が悪いでしょう。そこで兄が言うんです、勝負をしたらどうだって」
「お兄さんもいらっしゃるんですね」
「器用貧乏の食えない兄です」
佐久田は渋い顔で言った。
思いがけない情報に葵は喉のつかえが取れた心地がする。真面目に見えましたよ、とは口が裂けても言えなかったが。
こん。駒が並んだ。花屋敷で気付いたら朝。一回休み。
肩を落とす葵の代わりに佐久田が賽子を拾う。
「よくよく考えれば、シャボンは僕の物なので勝負する必要はないですよね。兄にはめられました」
苦笑しながら言った佐久田は賽子を振った。
こん。百貨店で買い物。
「勝負をすると決めたはいいものの、弟が拳の喧嘩で勝てるわけでもないし、勉強でも勝てないと思っていたのでしょう」
こん。洋菓子店でサブレをおまけしてもらう。
二回振った佐久田は勿体ぶるように賽子を握った掌を、差し出された手のひらの上で止める。
「弟は双六で勝負をしてきました」
ころん、と葵の手に賽子が落ちた。
「……弟さんは佐久田さんが双六に強いって知らなかったのかしら」
「正月や盆に数回やった程度だったので、そんなこと考えていなかったのでしょう」
こん。駒は佐久田に並んだ。終点まで六マスとなった。何回か振って、合計でちょうどの目が出れば終わりだ。
葵は顔を上げた。続きが待ちきれない。
「勝負の行方はどうなりましたか?」
こん、こと。六の目。
「二十回、僕が勝ちました」
「にじゅっかい」
驚いた葵は繰り返し、呆然と双六を見下ろした。
とんとん、と佐久田は終点の帝国議事堂に駒を進めた。
「上がり、ですね」
「よ、四連敗」
型紙でできた駒が戦を駆け抜けた一騎に見える。充分に敗北に浸った後、葵は気になることを思い付いた。日誌を書く佐久田が目に入る。
「二十一回目に弟さんは勝たれたのですか?」
そうですよ、と頷いた佐久田の口から笑い声がこぼれる。
「やっと勝てて、あいつ、何て言ったと思います?」
あいつとは弟のことだろう。見当がつかない葵は首をひねるばかりだ。
見かねた佐久田が先に答えを教えてくれる。
「二十一回勝たなきゃ、勝負に勝ったことにならないって」
父に似て、真面目なんです。と続けた横顔はあたたかい。
顔を直視できなかった葵は日誌を綴る手をぼんやりと眺め、ぽつりぽつりと呟く。
「二十回勝った佐久田さんもすごいですけど、それ以上、勝とうとする弟さんもすごいですね」
「誰に似たのか、負けん気が強いので。さすがに二十回負けたら懲りると思うのですが」
誰に似たのでしょうね、と佐久田は目尻に皺を寄せた。
二十回も勝つことなどそうそうない。勝つ秘訣があったのか。二十一回目はわざと負けたのでは。本人に確かめてもはぐらかされそうだ。
それならば。葵は佐久田を見据えた。
「もう一勝負、お願いできますか」
葵の言葉に佐久田は笑顔で頷く。
その日、軍配を上げたのは佐久田だけだった。
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