捌   チョコレイト

 年が明けて寒さが和らいできた。新たな芽吹きが見られるのはもうすぐそこだ。

 葵は休日には必ず実家に帰り、店の手伝いをしていた。姉がお産を控えているからだ。


「ごめんねぇ、葵。あなたも大変なのに」

「困った時はお互い様、でしょ」


 姉の口癖をまねた葵は得意気だ。

 昼間は旦那が家にいないので実家に帰ってきている姉は休みもせずに縫い物をしている。取り上げようものなら、腐ってしまうと嘆く筋金入りの働き者だ。


「ちょっと休んだぐらい、バチなんて当たりやしないよ」


 反物をいくつも抱えた弟が通りすぎさまに言った。

 縫い物の手を止めた姉はくすぐったそうに笑う。


「全く。あなた達、この上なく可愛いわね」

「そりゃ、姉さんに育てられてましたから」


 ねーと葵が同意を求めたら、弟もうんうんと頷く。

 空風が吹いても、呉服東雲しののめ屋はあたたかい。

 名を呼ばれ、手招きされた葵は姉のそばに寄った。姉は手のひらで隠しながら囁く。


「学校でいいことあったの?」

「どうしたの急に」


 葵は少し距離を取って姉の顔をまじまじと見る。姉と会うのは仕事中ばかりであまり長話はできていない。客がいない隙を狙っていたようだ。

 葵のちょっとの変化も見逃さまいと瞬きもしない姉が距離をつめる。


「引っ込み思案で後ろ向きで、自分にびっくりするほど自信がなくて墓穴を掘るかわいい葵のことだから、上の学校に行くと聞いた時には心配したのよ」

「姉さん、けなしているように聞こえるわ」

「愛よ、愛。受け取りなさい」


 独走する姉を止めることは至難の業なので、葵は黙って聞くことにした。

 妹を置いてけぼりにして姉は自分の言葉に深く頷いてから続ける。


「新しい世界に飛び込んで、かえってよかったのかもね。最近、やけに楽しそうに見えるもの」


 自覚のない葵はとまどった。一番に出てきたのは佐久田だ。次点は恵子や図書委員の面々。座りが悪いような気がして、こっそりと居ずまいを正す。

 前置きを長々と述べていた深刻な顔が手を返したようにほころぶ。

 

「それで、いい人がいるの?」


 葵は返事ができなかった。

 恐怖を覚えるほどの笑顔が、固まった妹の挙動を楽しんでいる。

 

「姉ちゃん達、お客さんだよー」

「相変わらず兄弟仲がよろしくてうらやましいわ」

「恵子さん! 待っていました」


 救いの手に葵はすぐに飛びついた。苦情をあげる姉を無視して、奥の棚にしまっていた依頼品を衣装盆にのせる。年末からある品物なので埃を心配したが、仕入れた時と変わりはなかった。


「遅くなってごめんなさいね」


 言葉通りの顔で言った恵子に、気にしないでくださいと葵は笑う。学校で遅れることを聞いていたので受渡しの心配はしていなかった。

 弟が音もなく茶と菓子を置いて去る。友人でなおかつ上得意なので、家にある一番のものだ。弟の抜け目のなさに葵は舌をまいた。

 茶を一口飲んだ恵子に向けて包みを広げる。花緑青はなろくしょうの地に虹色の蝶が舞い、雪輪、小菊、牡丹で彩を添えた振袖は下に向かうほど、珊瑚色に移ろう。愛らしい恵子に似合うことは間違いなしの逸品だ。

 目を輝かせた恵子は両手を合わせて喜ぶ。

 

「素晴らしいわ! ありがとう、葵さん」

「素晴らしいのは職人の腕ですよ。恵子さんが上手におっしゃるから張り切ったみたいです」


 この着物ができた経緯はたまたま納品に来ていた職人と恵子の出会いから始まっている。最近は上っ面しか見てない連中ばかりだと嘆いた職人の作品を褒めちぎったのが恵子だ。新しい色合いでわたくしをときめかせていただきたいの、と煽ったのも恵子だ。

 情けないことに、葵は部屋の隅で感心しているだけだった。

 特に恵子の指先が撫でる蝶は見事な出来前だ。


「今にも飛んでいきそうですね」


 葵がぽつりと呟いて、そろって見上げた先の空には紗のような雲が流れている。


「あら?」


 唐突に聞こえた声の方へ向くと、すでに恵子は側付きに支持を飛ばしていた。どうやら、知り合いを見つけたらしい。


「申し訳ないのだけど、もう少しだけ預かっていてくださる?」

「お客様、ここで茶でも飲みながら待っていただいて構いませんよ。行き違いになったら大変でしょう」


 慌てて店を出ようとする恵子を引き留めたのは姉だった。

 居ても立ってもいられない様子の恵子は浮いた腰を落ち着かせない。でも、と珍しく迷う素振りを見せるので葵は目を丸くした。思い立ったが吉日とでもいうような恵子が即行動に移さないのは初めてだ。


「お待たせして申し訳ない」


 側付きの案内で入ってきた男は軍人だった。軍帽をぬぎ、脇に挟む。

 髪の色に見覚えのある葵はぶしつけに上から下へと観察してしまった。

 空を飛ぶ鳶と同じ色の髪と瞳、目尻は少したれて柔和だ。おだやかな表情は軍人らしくない。


「呼びつけてしまってごめんなさい。以前、お礼をできなかったのがやっぱり心苦しくて……この後、お時間があるようでしたらお茶をご馳走させてくださらない?」

「せっかくのお誘いですが、勤務中なので遠慮させてください」


 軍人は生真面目な顔で断った。

 恵子は申し訳なさそうに眉尻を下げてしなを作る。


「引き留めてしまいましたね。そういえば、名乗ってもいませんでしたわ。わたくし、胡桃谷恵子と申します」


 家の名で呼ばれることを嫌う恵子が、軍人と縁を繋ぐために名を利用したのは明白だった。

 恵子の父は軍人だと聞いている。家柄や歳を考えても、目の前の軍人より階級は上だろう。上官の名を出されては、彼も名乗る他あるまい。 

 恵子の強かさに葵が呆気に取られている内に会話は進む。


「胡桃谷大佐のご息女でいらっしゃいましたか。失礼を働いて申し訳ございません。自分は佐久田さくだたくみと申します」

「もしかして佐久田小佐のご子息の方でしょうか?」

「ご存知でしたか」

「ええ、もちろん。お父様が佐久田少佐のことを勤勉で清々しいと誉めていらっしゃるのを聞いたことがあります。その方のご子息と偶然とはいえ、またお会いできるなんて縁があると思いますの。匠さんね。覚えておきますわ」


 目礼した軍人は葵に顔を向けた。

 頭の中で名前を反芻していた葵は突然のことに目を丸くする。


「少々お伺いしたいのですが、この近辺で、背が高く癖毛で肌の浅黒い男を見ませんでしたか」


 おだやかな風貌に反して、瞳は些細な変化も見逃さまいと鋭くなっている。

 軍人を相手にする度胸など持ち合わせていない葵は息も止めしまう。


「葵さん? 大丈夫?」

「は、はいっ」

「佐久田さんがおっしゃったような男性を見たことはある?」

「ありま、せん」


 恵子に間を取り持ってもらって、やっと返事ができた。

 軍人は気分を害した素振りを見せずに、姉と弟に視線を配る。二人にも首を横に振られ、軍帽をかぶりなおした。


「ご協力、感謝します。職務がありますので、失礼」


 目尻に皺を作って微笑んだ軍人は颯爽と姿を消した。


「前に言ったでしょう、チョコレイトの人よ」


 恵子がこっそりと教えてくれた。

 突然のことが起こりすぎて、大混乱している葵は真顔を向ける。

 消えた背中を見送る様は恋する乙女だ。


「もしかして、佐久田さんのお兄様かしら。聞きたかったのだけど……先走ったら距離を置かれそうね」

「恵子さん、そこまで考えていらっしゃるの……私も佐久田さんのことを思い出しましたけど」


 何度も瞬く葵の瞳に、いたずらっぽい笑みが映った。まぁね、と唇に艶っぽい弧が描かれる。


「名前がわかってよかったわ。これでいろいろ調べられる」

「しらべられる」

「軍人なら樹族や花族でなくても添い遂げられる可能性があるでしょう? その機会をみすみす逃してなるものですか」


 葵は目が点になった。

 恵子は面白がって小さな声で笑った後、思案げに眉間を寄せる。


「でも、変ね……佐久田家は軍人のお家のはずよ。どうして、佐久田さんは……わたくしが言えた口ではないわね」


 茶目っ気たっぷりに肩をすくめた恵子は側付きに手を上げて風呂敷を持ってこさせた。


「実はチョコレイトを手土産に持ってきたの。そのご利益で匠さんに会えたのね、きっと」

「えぇ、手土産なんて! そんないいですよ」

「徳をつんだ方が、またいいことありそうだもの。気にせず召し上がってちょうだい」


 ご機嫌な顔で言われたら断れるものも断れない。葵はしぶしぶと受け取った。

 大福が一銭で買える時代、薄板で十五銭とはなんと贅沢品だろう。いつもすまし顔の弟が寄ってきたのも頷ける。もちろん葵も食べたことがないので何とも言いがたい気持ちになった。

 その晩、家族で食べたチョコレイトは甘くて苦くて不思議な味がした。



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