漆   冬休み

 年の瀬でも高等師範学校の図書室ともなれば、忙しさは変わらなかった。返却と貸出処理を済ませてすぐに立ち去っていく者も多い。外と同じような寒さに居座る者はほとんどいなかった。


「今日は一段と冷えますね」


 横で平然と呟いたのは、詰め襟姿の佐久田だ。

 冬休みに入ると曜日の担当とは関係なく当番がふられ、気付いたら葵と佐久田は同じ日になっていた。

 強張る笑顔で返した葵は火鉢に炭を足した。着古した滝縞に厚手の羽織に手を通し、毛糸のショールを肩にかけても、歯の根が合わない。受付台の下に隠した火鉢でやっと震えが止まる状態だ。教室の薪ストーブが恋しい。

 本を読んで気を紛らわせようにも隣に座る佐久田が気になり、すぐに閉じた。受付を任せて本の整理をしても寒いばかりではかどらない。行きついた先は元の火鉢のそばで、横から苦笑がもれたのでひと睨みしてやった。手持無沙汰になり少し先ではあるが図書通信に取り掛かる。


「次は何にされるんですか」


 佐久田が葵の手元を覗きこんできたので隠そうと手を動かした。数秒考え込んで、手をどける。机の下に隠した手を握り締めた葵は震える口を叱咤する。


「物語にしようと思っています。今月は社会主義の本だったでしょう? 次は娯楽の話がいいかな、と思って……好きなものが多くてなかなか一つに決めらていないんですけどね」

「うんと現実離れしたものにしても面白そうですね」


 眉を八の字にした葵は頭の中で現実離れしたものを選び出した。数の多さに一瞬、意識が遠退いたが一つの話が天から降るように思い浮かぶ。


「八剣士とかどうでしょう?」


 維新よりも前に描かれた八剣士は大衆娯楽の読本だ。因縁と数奇な運命で結ばれる男達の勧善懲悪が描かれ、生き生きとした人物が魅力の物語。

 覚えがあるのか佐久田も納得したような顔をする。


「あの長編を読むのは骨が折れますからね……特に薦めたい回を抜粋するのもいいかもしれません」

「それいいですね。ちょっと行ってきます」


 葵が何冊か手に取って受付に戻ると、佐久田は希望図書の投書を整理していた。

 二人は黙々と作業に没頭していたが、先に葵が呟く。


「私、不思議だったんですよ」


 文字を追いながら、佐久田が顔を向けたことを感じ取って続ける。


「八剣士には不思議な力は出てくるのに異能は出てこないんだな、て。すごい人達ばかりなのだから一人ぐらい異能を持っていてもいいのに、て思っていました。今なら、登場人物が協力しあって、切り開いていく物語だとわかるんですけど、まどろっこしいな、と。浅はかな考えでしたね」


 天帝がまだ神だった時代、不可思議な力を与えられた一族いた。今世まで続く花族かぞくだ。文明開化の名のもと、力は異能と呼び名を改められた。傷を癒すもの、目には見えぬ結界を作るもの、火や風を操るものと多種多様の形をとり、力の強さも千差万別。

 八剣士には、樹族きぞくのような超人が出てくるのに、異能を使う者は出てこない。幼い葵はそれが不思議でならなかった。

 葵は気に入りの登場人物の名前を指で撫でる。超人の力を手にしたら、人生は華やかになるのだろうか。


「力によっては一人勝ちになってしまうので、無くてよかったと思います」


 佐久田の冷静な返しに疑問が少しだけ解決した。

 葵は盗み見た横顔に疑問を抱いたが、答えを出す前に話を切り上げられる。


「時間がなくなりますよ」


 短く答えた葵は、図書通信に視線を逃がした。帳面に載せたいことを書き出しながら、佐久田の横顔を思い起こす。

 垣間見た空虚な顔は文字よりも先のここには存在しないものを見ているようだった。空虚を抱えた瞳は冷えた何かが潜んでいる。普段の顔からかけ離れた表情に別人とさえ思えた。

 最後の言葉は深く踏み入れるなと言われたのではないか。

 書く手を止めた葵は思考の沼に足を取られる。一旦考え始めると加速した不安は止められない。拒絶は、気のせいだと言い聞かせても、文字が書けなくなってしまった。

 閉業が後三十分と迫り利用者がいなくなる。室温も下がり辛いことこの上ない。

 あまりの寒さと不安を紛らわしたくて、葵は血色の悪い唇を開く。

 

「米寿のお祝いって何をしたらいいでしょう?」

「それはめでたいですね。ご親戚の方ですか?」


 思いの外、やわらかい声音に安堵した。指先に血が通うのを感じながら葵は答える。


「曾祖母がむかえるんです。ついでに実家も」


 実家と聞いて、佐久田は夏休みのことを思い出したらしい。眉を下げて会話を切る。


「冬休みは店の手伝いは大丈夫なんですか」


 葵は従業員が一人増えたから大丈夫だと伝えた。勉学に集中してほしいという親の優しさでもある。

 よかったですね、と目を細めた佐久田が話題を戻す。


「この時期だと、正月に皆で集まってお祝いする形ですよね」

「そうなんです……父と母は黄色の半纏はんてんだ、と息巻いているのですが、嫁いだ姉や従兄弟が何を送るかわからなくて。猫の手も借りたい時期ですから、わざわざそれを聞くのも気が引けるし……」


 つらつらと言いたいのを我慢して葵は一端、間を置いた。

 隣を見やれば、困った笑みを浮かべる学友がいる。

 突っ走りすぎたかと葵の手は汗をかいていた。足先は冷たいのに頬は熱い。心も体もあべこべ状態だ。

 正面を向いていた佐久田の瞳が葵を映した。


「なかなか八十八歳になるような知り合いもいませんし、思い付かないものですね。僕の家は男ばかりだしそういう付き合いは疎いんですよ」


 情けなく下がった目尻の下にある双眸はやさしい色をふくんでいる。

 変な話題をふったかと後から心配していた葵は影でそっと息をはいた。心で止めていた言葉をとつとつとこぼし始める。


「安易に米を贈ることも考えたんですけど、大ばあ様は最近、とんと食べなくなったと聞くし……物持ちもいい方なので、いらないものを贈ってもいけないと思って」

「たいていの人なら何をもらっても喜びそうですけどね。気持ちが大事ですし」


 佐久田の言葉はもっともだ。それはわかってはいるが、葵はすぐに考えを変えれるほど潔い性格ではない。ため息まじりに吐露する。


「……悩みすぎだとはわかっているのですが、せっかくなら米寿に関係するものがいいなって贅沢なこと考えてしまって」


 相手が弟なら面倒くさいと放っておかれる所だが、佐久田は嫌な顔一つ見せない。小さく唸って何気ない態度で言葉を投げる。


「では、八にちなんだ物なんてどうですか」

「はち……ハチ……鉢? 植木鉢ですか?」


 葵は難しい顔で想像して、微妙な態度を示した。

 それもいいですけど、と笑みを深くした佐久田はいたずらっぽい目を細め弧を描いた口で内緒話をするようにそっと言葉を紡ぐ。


「はちみつ、を使った菓子なんていかがですか」


 ああ、と思ったよりも大きな声が出て、葵は慌てて口に手の先をあてた。周りを見渡したが、誰一人いないことを思い出す。一息ついて佐久田に向き直った。


「金柑のはちみつ漬けとか?」

「はちみつ入りのどら焼きとか?」


 同時に出た言葉に二人して目を見開いて、一緒になって破顔した。


「悩みますねぇ」

「はちみつ、だと八十三歳の祝いみたいになりますね」

「あ……八十三歳の時にしてあげればよかった」


 葵の言葉に、響かない程度の笑い声が返される。

 閉業時間は目と鼻の先だ。この穏やかな時間を今は独り占めにできるのだったら、もう少しだけ、贈り物について考えたい。

 葵は歩き出せない自分の心を甘やかした。



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