陸 図書通信
「葵さん、聞いてくださる?」
昼休憩に弁当を広げようとした葵は恵子の声で手を止めた。中庭に誘われ、長椅子に並んで座る。
落ち葉が目立ち始める時分、周りには人がいなかった。
「先日、素敵な殿方にお会いしたの。わたくし、恋をしてしまったようだわ。チョコレイトみたいな明るい髪にやわらかい目をしていた方でね、軍人の方だったのだけれど覚えがなくて……助けていただいたから、お礼をしたいと言っても遠慮して名前を教えてくださらなかったの。葵さんのお宅のすぐそばで起きたことなのだけど、覚えがない?」
座ったと同時に矢継ぎ早に言われ、葵は衝撃を連続で受けていた。恋にチョコレイトに軍人に。頭を必死に追い付かせている間、光にかざしたビードロ玉のように輝く瞳に見つめられる。期待に応えるべく、記憶をたどるが思い当たる節がない。
「すみません、わかりません」
「そうよね」
輝いていた瞳が陰り潤みを帯びた。
肩を落とす姿に胸を痛めた葵はすぐに協力を申し出る。恵子は調子を取り戻したようで葵の手を握りしめて喜んだ。
気を取り直して食事を取ることにする。
葵は漬け物を口に運び、よく噛み砕いてから飲み込んだ。あまりにも空が高く澄んでいたものだから、気が抜けてずっと考えていたことが漏れてしまう。
「恋をしたら、どうすればいいのでしょうか」
「そのままで、いいのではないかしら」
卵焼きを切り分けながら、恵子は息をするように言った。え、と驚きの声をもらす葵に流し目を向ける。
「それよりもお相手が気になるのだけど」
石になる葵に、恵子は相手が誰かとは聞き出さなかった。興味津々の瞳は向けていたが、ふと小さく吹き出して諭すような口振りで言葉を紡ぐ。
「恋と愛は別物でしょう?」
難しい顔をする葵に構わず恵子は卵焼きを頬張った。今日は砂糖醤油ね、とこぼして筑前煮に箸をのばす。椎茸を味わってから葵に顔を向けた。
「恋は勝手にするものよ。相手に迷惑がかからないもの。恋ならどんな相手でも自由にしていいとわたくしは思うわ。愛は、いろいろな形があるから相手と自分とでぴたりと合わないと迷惑だと思うのだけどね」
「大人、ですね」
恵子の考えに葵は感心したが、言われた本人はさみしい色を瞳の奥に見せた。諦めたように笑いながら肩をすくめる。
「ほめられることでもないのよ。いろーんな大人を見てきたからわかるだけ。反面教師ね」
何食わぬ顔で言った恵子は卵焼きの残りを味わっている。
葵は上流階級特有のしがらみが少しだけ怖くなった。子細を聞く勇気は持ち合わせていない。
「逆にね、わたくしは葵さんがうらやましいと思うことが多いわ」
唐突に向けられた言葉が葵は信じられなかった。うまく返す言葉を見付けることができずいたが、咎められることなく恵子は独白を続ける。
「わたくし、本心では諦めてる所があるのよ」
おどけた口調ではあるが、嘘のようには聞こえない。
「葵さんは自分の最善を尽くされるもの。図書委員だって、わたくしが無理にさせたようなものなのに真面目にされているし、将来のために試験勉強もきちんとされたでしょう。たいていの人は怠けようとすると思うのよね」
「それは私がどんくさいだけで、人より努力をしないと追い付けないだけで」
葵は気弱な声で反論した。
恵子は葵の口の前まで人差し指を持っていき、黙らせた。
「自信がないのは、いただけないのよね」
「す、すみませ」
「謝ることではないわ」
恵子は葵の言葉にかき消すようにすばやく言った。押し黙る顔に顔を近付ける
「ひた向きに努力をされる葵さんは素敵だと、わたくしは思うわ」
何と言われてもゆずらない、と恵子にだめ押しをされ、葵は照れくさそうにうつ向いた。鼓膜を笑い声が震わす。
足元には重なりあう落ち葉が広がり、高い空を見上げていた。
。゚。゚。❀。゚。゚。
葵は職員室を出た佐久田を見かけて踵をかえそうとしたが、一足遅かった。
「久しぶりですね」
佐久田の言葉通りだ。夏休みの少し前からなので二ヶ月は会っていない。もともと男子と女子とで教室のある棟は違うので、意識しなくても会わなくてすむ。
佐久田が図書室に顔を出すのは当番の日だけだ。会議は半年に一度で図書室の連絡帳でやりとりしていたこともあり、葵が当番の日以外は立ち寄らなければ事足りた。
「そう、かもしれません」
葵は視線を合わさずに返事をにごした。周りに目を配れば、長い廊下には佐久田と葵しかいない。
「こんな早くに来られているんですね。通りで顔を合わせないはずだ。僕は昨日の提出物を忘れていたので持ってきました」
開いているとはいえ、登校にはまだ早い時間だ。寮生は始業ぎりぎりに来る者が多く、葵のように教室で読書を楽しむ者は珍しい。
葵は佐久田が自分を探して早く来たわけではないことに安心しつつ、心の隅で落胆した。無難な返事を考えて、遅れて話す。
「……無事、提出できましたか?」
「ええ。小言を言われましたが」
佐久田は肩をすくめているが、何処か面白がっている風だ。
よかったです、と呟いた葵は自分が嘘が下手なことは自負している。何せ、ほとんどつかない嘘を家族には必ず見破られるからだ。
夏休みで帰省したおりに学校での生活を聞かれ、上手くやっていると言ったら皆に心配顔をされた。口でごまかしても、顔と態度にすぐに出てしまう。
佐久田のことを避けているとは言わなかったが、態度に出ているのではないかと気が気ではなかった。
流れで肩を並べて教室に向かう。
「夏休みの蔵書整理にも来られなかったので心配してたんですよ」
足跡と窓がゆれる音しか響かない廊下で、佐久田が話題を振ってきた。
「実家の手伝いが忙しくて」
葵の言葉は嘘ではない。恵子がいろいろな所で口利きをしてくれたおかげで、最近は客足がのびている。うれしい悲鳴を上げる実家を助けるために、不慣れながらも接客もこなした。
結果は予想通り最悪だ。嘘がつけないから客が好みのものを身に付けても気の利いたことが言えずに、お世辞を言わないから選びやすいと嫌味を浴びることもあった。
客の趣味が悪かったと弟がなぐさめてくれたが、弟よりも仕事ができないことが情けなかった。
「空木さんの図書通信、読みましたよ」
思ってもみなかった言葉に葵は佐久田に顔を向けた。気付かれる前にすぐに元の場所へ戻す。
「つたなかったでしょう。佐久田さんの知的なものとは比べ物になりません」
葵はごまかすように早口で言った。
図書通信は利用状況と新書の案内、おすすめの図書紹介が主だった内容だ。葵は女性の書いた詩集を薦めた。みずみずしい自然や子供によりそった詩がやわらかな言葉選びで書かれた葵の気に入りだ。
「せっかくだから読んでみたんですよ。女性の本はなかなか読む機会がなくて新鮮でした。『見えないものもある』の所は確かに一言では言い表せませんね」
佐久田の感想に葵は言葉につまった。
作文や日記は苦手だ。気持ちを何処まで素直に書けばいいのかわからず、できるだけ淡々と記した。皆の作文にはごたごたと余計なことまで書かれていなかったからだ。
蓋をしなければいけないと距離を置いた。夏休みに貼り出されるものなんて誰も見てくれないだろうとやさぐれながら、図書通信を書いた。
『下ばかり見ていたら、見えるものも見えなくなる』と背中を押してくれた言葉を思い出して、詩集を選んだ。
好きなものを好きと書いて、気持ちが伝わった時の喜びに勝るものは何もない。今まで家族以外に書いたものを誉められたことのなかった葵は胸が熱くなった。
葵は礼を返したつもりだが、気もそぞろで廊下の木目ばかり見つめていた。手汗がすごく服で拭いたかったが、変な染みを指摘されるのではと変な気を回す。
遠くで人の笑い声が聞こえ、浮いた心が少しだけ落ちついた。並んで歩く姿を見られれば、また噂になる。それは避けたかった。
押し黙る葵にあたたかい言葉が投げられる。
「また、お薦めの本を教えてください。楽しみにしています」
距離を置こうと思っていたはずなのに、葵の首は縦に揺れていた。
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