伍   騒動

 試験の結果が上々だった葵は機嫌よく図書室の扉を開けた。昼休憩を利用して本を返そうと思ったからだ。


「こんにちは」


 おだやかな声に葵は同じ言葉で返した。瞬きをして、やはり可笑しいと受付に座る佐久田を見る。


「当番ばかりしていませんか」

「まぁ、暇なので」


 葵は鳶色の頭を睨むように見下ろした。

 当番を変わった彼は逃げるように日誌をつけている。

 図書委員の仕事は、噂されていたよりも多かった。月曜から土曜日までは昼休憩と放課後のそれぞれを二人一組で担当する。さらに日曜日の九時から六時までは順番で当番を回していた。

 暇だからと言っても、月曜と火曜の放課後、金曜の昼と週に三回も仕事をしては自分の時間がなくなる。試験期間とはいえ、代わりすぎだ。

 葵は一つの可能性に行き当たり、眉をひそめる。


「……もしかして、押し付けられてます?」

「僕がこんなのだからか言いやすいみたいで、よく頼まれますが問題ありませんよ」

「無理しないでください、私が代わりますから」


 葵の強い声にばつの悪そうな顔をした佐久田は、実はですねと白状する。


「お礼として試験の情報を仕入れています。もちろん、試験そのものではなくて先生方の癖や特徴ですよ。問題にも好みとかあるじゃないですか」


 葵は開いた口がふさがらなくなった。

 佐久田は、ははとわざとらしく笑う。

 たっぷりと十を数えた後、戸が開いて利用者が入ってきた。

 道を譲った葵は少し離れた場所で頭の中を整理する。

 頭がいいと、勉強ができるは頭の出来が違うとつくづく思っていた。佐久田は前者で、葵は後者になるだろう。いつも客で賑わっている主人が言っていたことを思い出す。知識は努力で補えるが、発想は別方向から見る必要があると。

 佐久田は人とは違った方法取っただけで、試験勉強をしなかったわけではない。歴史の試験は知識が物を言うからだ。葵も受けた物は簡単なものではなかった。試験を楽にこなす方法だとしても、仕事を過剰にする必要があるだろうか。

 いくら忙しくても健康が一番だ。父も笑って言っていた。


「本、返さないんですか」


 そう言った顔はいつもの笑顔で、葵は面白くなかった。受付に置いた本を睨んで憎まれ口を叩く。


「ごまかさないで教えてくださったらよかったに」

「軽蔑されると思いました。ずるをしているって」


 本の返却作業を進めながら、軽い口調で返された。反省の色は見えるが淡々としたものだ。

 葵は佐久田の態度に眉を曲げる。


「何がずるなんですか」


 人の物を取ったり、壊したわけではない。葵にはずるという言葉に思い当たる節がなかった。

 佐久田はひどく驚いた顔をして動きを止める。未だに納得のいかない顔を目のあたりにして、笑い声がこぼれるのを手で抑えた。


「空木さんて、案外図太いですね」

「ほめてませんよね」

「ほめてますよ。うらやましいぐらいです」


 葵は腑に落ちなかったが、嬉しそうにしている佐久田の姿を見て水に流した。仕事を押し付けられているが、嫌々やっているわけではなさそうだ。見返りを活かしてもいる。態度や顔に出ないのだから平伏する思いだ。


「私は佐久田さんがうらやましいです」

「ずるをする人がうらやましいですか」


 慎ましい葵に反して、片眉を上げた佐久田はわざとらしく言った。

 互いに笑いを噛み締めて、内緒話は続く。


「いつも笑顔だから、すごいなって思います」

「極意をお教えしましょうか」


 大袈裟な言い方に頷きが返った。

 佐久田は返却作業を終わらせた本を脇に置き、目を細める。


「相手を弟や妹だと思うんですよ。癇癪起こしても、無理難題を言われても、どうしようもなく気に食わなくても、泣きべそかいている姿を思い出すんです。ほら、笑えてくるでしょう?」


 そう語る顔はあまりにも穏やかで、葵は目を見張った。胸の奥がぎゅっと捕まれたような気がする。一瞬止まってしまった時間に驚いて慌てて返す。


「そ、それならできそうです。私にも弟がいるので」

「ちょうどいいですね。試してみてください」


 佐久田は完璧な笑顔で微笑んでいる。

 はい、と答えた葵は図書室を飛び出すように出た。必ず楽しむ渡り廊下の景色も目に入らず、駆けあがるように階段を上る。先生に顔をしかめられたり、すれ違う生徒に驚いた顔をされたが、それ所ではなかった。急いで歩いたせいか教室に戻っても心臓が騒がしい。戸の近くで呆けていると、後ろから入ってきた級友に気付くのが遅れた。


「また図書室かしら」


 蔑みの目を向けられ、弾んでいた心臓が動きを止めた。嫌な脈を感じながら、葵は顎を引き半歩足を引く。背中には戸があり、それ以上は下れなかった。


「ねぇ、学校に何しにいらっしゃってるの? 色目を使ってるの見え見えですよ」


 二対の目が葵を追い込み、昼休みでざわついていた教室に静寂が訪れた。

 葵は無言で睨みをきかせる二人を直視できず、下を見ながら反論する。


「委員の、仕事をしたり、貸出を、利用しただけです」


 胸が重苦しく言葉は途切れ途切れになってしまった。

 一人が一歩前に出る。葵に逃げる場所はなく、両手を握りしめるしかなかった。

 冷たい目が怯える葵を映し、冷ややかな言葉を突き付けていく。


「では、一組の佐久田さんがいる時ばかりを狙うのは、どう説明されるの」

「狙ってなんかいませんっ」


 佐久田の名前が出るなんて思ってもみなかった葵は鋭く返した。声は悲鳴じみていたが気にする余裕はない。勢いで顔を上げたせいで、二人の能面のような顔が目に入った。泣きそうになるのを唇を噛んでしのぐ。自分のことだけならまだしも、佐久田のことは聞き捨てならなかった。

 もう一人が深いため息を吐いて、周りに聞かせるように声を張る。


「図書室に行くための渡り廊下、そこの窓からよく見えるのご存知ではありません? 佐久田さんが通った後は必ず貴方が通りますの。やけに手の込んだ偶然ですね」


 葵は血の気が引くのを感じた。ただの偶然ではあるが、説明できる根拠がない。震える両手を固く結び、足が崩れ落ちそうになるのを耐える。

 誰も助けの手をのばさなかった。

 無数の冷たい目が突き刺さる。


「色恋目的に学校に来るなんて失礼よ。同じ空気も吸いたくないわ」

「何を話していらっしゃいますの」


 葵達がいる戸とは反対側から、恵子が歩いてきた。口元は笑っているが大きな瞳は今にも怒りを爆発させそうだ。教室の皆が息を飲む中、葵の横に立った恵子は臆することなく口を開く。


「察するに、図書委員の件でしょう? 真意を確認せずに葵さんがいない所で噂を流していたこと、知っていますわ。葵さん一人によってたかって、はずかしいことこの上ない。やるなら、正々堂々一対一でやるというのが筋でしょう」


 恵子の雰囲気に教室が飲まれる。横やりを入れるものは誰一人いなかった。


「そんなに男性とお近づきになりたいなら、あなたも図書委員をなさったら? 週に一度は決まった日に、日曜日はみっちり一日されるそうよ。誰かの代わりなんてしたら、図書室にずっといるようなものね。学業をこなしながらできる? ああ、そうね、噂を流す時間があるのだから余裕よね」


 ね、と形のいい笑顔で念押しされ、恵子と葵の前からは誰もいなくなった。

 嵐のような出来事に、葵は追い付けなかった。相手にも恵子にも頭と舌がよく回るものだと感心してしまう。

 まだ鋭い目付きの恵子はひと仕事終えたとばかりに腰に手をあてた。今度したら軍式の訓練で性根を叩きなおしてやると言ったことの真偽は確かめたくない。

 誰もが恵子を敵に回してはいけないと心に刻んだ。


「きちんと仕事をなさってる方に失礼よ」


 最後の捨て台詞に葵の肩は揺れた。浮き足立っていた感情に蓋をする。噂を立てられても困るし、何よりも前に仕事をこなすのはあたり前のことだ。


「あらやだ、わたくしったら。この前も婆やに言われたばかりなのに。また先走ってしまったわね?」


 掌を返したように慌て始めた恵子に葵は頭を振り、感謝した。うまく笑えたことに驚いたぐらいだ。

 始業の鐘が鳴り、各々が席につく。

 葵は筆記用具を出しながら教室の窓から外を見た。

 入道雲が君臨する空が広がっている。

 巨大すぎて浮いていることが葵は不思議でたまらない。渡り廊下も図書室も見えない場所で、さっきの出来事を弟がしたことと考えてみる。やはり水に流せそうにもなくて佐久田の言葉もあてにならないと目を伏せた。



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