肆   ビスケット

 終了、の声を聞いた葵は鉛筆を置いた。試験用紙を後ろの席から前に送って、つめていた息を吐く。


「ねぇ、葵さん。珍しいお菓子が入ったの、うちにいらっしゃらない?」


 恵子が待ってましたとばかりに声をかけてきた。

 甘い誘惑に頷きかけた葵は思い直して首を振る。


「明日は歴史の試験だから遠慮します」

「わたくしの家で勉強しましょうよ」


 恵子は誘うのがうまい。

 是と答えかけた口は閉じた葵はもう一度首を振った。いつも世話になっているばかりでは申し訳ない。


「いいのよ、遠慮なさらないで。また葵さんの店でもてなしていただこうと思ってるもの」


 恵子は気遣い上手だ。先走ることはあるが押し付けがましく言わないので、葵も気楽でいれた。

 本人にも嫌なことは嫌と言われないとわからないわ、と頼まれたこともあり、葵はきちんと応える。


「とてもありがたい申し出なんですけど、明日は外せない試験なのでやめておきます。またの機会にぜひ」

「そうね、文学科に行きたい、て言っていたものね。また図書館に行かれるの?」


 頷いた葵に対して恵子は困った顔をした。何か言いたそうに葵の顔を見ていたが考え直したようで、気持ちのいい笑顔で別れを告げて去っていく。

 見送った葵は荷物を整え、通い慣れた場所へ歩き出した。廊下ですれ違う級友と挨拶を交わして教室を出る。

 入学式の一件で孤独な学園生活を危ぶんでいたが、分け隔てなく接する恵子のおかげで最悪の事態はまぬがれていた。引っ込み思案な葵も友人の多い恵子に誘われて少しずつ打ち解けている。

 教室とは別棟にある図書室へ行くには昇降口の前を通りすぎる必要があった。混雑する流れに逆らって、目的の場所に進む。

 同じ組の生徒達を見付けた葵は会話の邪魔にならないよう軽く頭を下げた。

 気付いた一人が顔をしかめる。


「また図書室? ずいぶん働き者なんですね」


 とげのある言い方をされたが、見当がつかない葵は相手の顔色をうかがった。冷たい双眸を向けられても無視をするわけにもいかず視線を外しながら言う。


「今日は当番ではありません」

「熱心に通われているなんて、よっぽど図書室がお好きなのね」


 重ねるように他の人からも言われた。何も返さない葵に鼻白む顔を見せて立ち去っていく。

 視界の端に映る木々は青い葉を茂らせ、強い日差しを受けている。梅雨が明けたせいで煮え立つような暑さが続いていた。

 時間を置いてやってきた憤りは葵の頭も沸騰させそうだ。渡り廊下を早足で通り過ぎた葵は険しい顔のまま図書室へ入室した。


「どうかされましたか」


 扉を開けた葵を迎え入れたのは図書当番の佐久田だ。目付きの悪いまま顔を向ける葵に佐久田は笑顔を返す。

 葵は両手で顔を覆い、全身の空気を抜くように細く長く息を吐いた。図書室に来た理由を思い出す。今やらなければいけないことは、試験勉強だ。


「明日、歴史の試験があります。それなのに……なかなか、頭に入りません」


 歯切れの悪い言葉を呻いた葵は心底困っていた。両手から出てきた顔は眉を下げ口を尖らしている。

 子供のような顔をする葵を佐久田はからかうことはなかった。安心させるように笑って言う。


「五組は明日ですか。そんなに難しいことはありませんでしたよ。頑張ってくださいね」

「一組はもう終わったんですね」


 羨ましいという言葉にこそ出さないが、葵の顔からは感情がにじみ出ている。


「すごい気合いの入れようですね」

「文学科に行きたいので歴史は落せません」


 不思議そうな顔をする佐久田に葵はしぶしぶといった様子で答えた。

 二人はまだ予科に身を置いている。予科の一年で基礎を積み、次年には本科に進む。男子に割り当てられた一組から三組は理化学科、博物学科、文学科。女子に割り当てられた四組から六組は理化学科、文学科、技芸科と科に分かれて学んでいく。好きに選べるわけではなく、年の終わりに希望が取られ、定員を越せば下の成績の者から違う科に振られる決まりだ。

 歴史の試験を落とせない葵は歴史上の人物がただの文字にしか見えなくなっていいた。特に将軍の名前が苦手だ。嫌な記憶が思い起こされ、手を止めたまま数分がたつこともざらだった。人柄や背景を詳しく知れば、頭に名前が刻まれるのではないか、という希望を抱いて図書室に訪れた。決してやましい理由はない。


「お仕事の邪魔をしてすみません。失礼します」


 礼をした葵は歴史の本棚に向かった。当番を真面目にやっているおかげか、本の配置は頭に入っている。目ぼしいものを手に取り、本の香りや質感を楽しむ余裕もなく頁をめくる。納得できた数冊だけを両手に抱え、机まで運んだ。

 本に没頭していた葵の耳に懐かしい音が届く。


 ぱちぱちぱち、とん。


 音がとまり、また聞こえる。受付の方からしているから、佐久田が何かの計算をしているのだろう。

 葵は音と共に懐かしい香りと味を思い出した。頑張った思い出と共に童心が蘇るから不思議だ。もうひと踏ん張り頑張ろうと目で文字を追う。文字が色を持ち、絵が鮮明に想像できる気がした。


 ぱちぱち、ぱち。ぱち、ぱちぱち。


 心地よく聞こえていた音に不安が混じる。だんだんと遅くなる調子もおかしい。

 集計をするというより手習いをする速さだ。

 我慢ができなくなった葵は立ち上がる。予想よりも椅子を引いた音が響き、羞恥を落ち着かせながら本を抱えて受付に向かった。裏から入り佐久田の背中に声をかける。


「お手伝いしましょうか」


 無意識に選んだ言葉が小さい頃と重なってこそばゆい。一人思い出を噛み締めていた葵に佐久田は珍しく困ったような顔で振り返った。


「本の貸出数を集計していたのですが、合いません。確認してもらえませんか」


 頷いた葵は佐久田の帳面を覗きこんだ。二桁の数字が一月分。暗算でもいけるが、より正確な数字にするなら算盤そろばんを使った方がいい。


「少し貸していただけませんか」


 葵は佐久田の横に座り、手を差し出した。

 佐久田は言われた通りに帳面を葵の前にずらし、算盤と鉛筆を渡す。消しゴムは邪魔にならない場所に置かれた。

 受け取った算盤の具合を確かめた葵はすべるように五の玉を横一直線に弾く。久しぶりに弾を弾くので心持ち速度を落とした。佐久田を驚かせるには十分な速さではあったが、集中した葵の目には入らない。

 上に下に弾かれた玉は、小気味よい音を刻み、時計の針のようにその場に馴染んでいた。

 二回計算して間違いがないことを確認した葵は、終わりましたと告げる。二分にも満たない時間だ。もともとあった集計に横線を引き、正しい数を横に書く。横線の上に印を押せばいいとまで考えてから失態に気が付いた。幼い頃の癖が抜けていなかったらしい。


「け、消しゴムはありますか?」


 言うな否や机にあった消しゴムを奪い取るように持ち、横線を引いた数と横に書いた数を消す。正確な数字を記録するものであって帳簿のように訂正する必要はない。己の短慮に葵は逃げ出したかったが、だめだと自分に言い聞かせて消した場所に数を書き込む。


「速いですね」


 怒られると思っていた葵は佐久田が言ったことをすぐには理解できなかった。目を丸くしている佐久田を見て、一拍おいてから得心する。


「帳簿の手伝いをしてたので、それなりに速くなりました」


 葵はくすぐったい気持ちを覚えながら答えた。

 佐久田はもう動かなくなった玉をじっと見て、葵の手も同様に眺める。


「商家の人でしたか。やはりというか、さすがというか」

「しがない呉服屋ですよ」


 あいまいに微笑んだ葵は人を雇う余裕もない貧乏商家とは言わないでおいた。

 維新前からの老舗で幅広く品を揃えていると言えば聞こえがいいが、時代遅れの成れの果てだ。洋式化に波にのまれ、機械化による安価な着物におされて立ち行きが危うくなっている。先日、訪れた恵子はいろいろな職人と縁があると喜んでいたが、閑古鳥が鳴いているのが実情だ。

 葵が高等師範学校に通う理由も、貧困家庭は学費も寮費も免除されることが大きかった。実家は苦労しながらも仲がいい。迷惑をかけまいと葵はこの道を選んだ。

 貧乏故にのびた力ではあるが、佐久田を驚かすのに一役買った。呆然とした顔はまだ算盤を眺めている。


「実は知り合いの帳簿も手伝っていたので、大人にも負けませんよ」


 得意になった葵はついふくみ笑いをこぼした。

 佐久田は素直に感嘆の声を上げる。


「そりぁ、あれだけできたらそうでしょう」

「褒美にビスケットをくださるものだから、よく通ったものです」


 葵は懐かしそうに目を細める。頑張った時の甘味は特別だった。持って帰って弟にあげるとたいそう喜んだものだ。


「僕も何かお礼をした方がいいですか?」


 佐久田が冗談めかして言った。

 葵は慌てて固辞する。


「図書委員の仕事をしただけなので、気にしないでください」

「でも、当番ではないでしょう」

「何を騒いでるんだ」


 本の整理がひと段落ついた先輩が帰ってきた。

 自然と内緒話が途切れ、葵は席を立つ。机に置いたままだった本の貸出処理を済ませて、図書室を後にした。本を両手で抱きしめて渡り廊下を歩く。

 夕暮れ前の涼しい風が吹き抜け、葵の後れ毛を揺らした。

 試験ができたご褒美はビスケットにしよう。そう決意した葵は本を握りなおした。



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