参   友人

 水曜日の放課後は、四年生と一年生の葵で図書当番をすることになっていた。当日になって行ってみると、先輩の姿はなく佐久田が図書室の前にいる。急用ということで、佐久田が当番を代わったと告げられた。


「佐久田さん、一年生ですよね」

「一年生ですね」


 佐久田の返答に、葵の眉間はますます寄った。首をひねりながら問いを重ねる。


「でも、仕事がわかるのでしょう?」

「月曜の担当で覚えました」

「それだけで覚えられたんですか」


 佐久田は身近な人だと思っていたのに、秀才だったのかと裏切られたような気持ちになる。

 葵の狼狽ぶりに佐久田は笑いが我慢できなくなった様子で口元を拳で隠した。恨みがましい目を向けられ、笑顔で取り直す。


「そんなに難しくありませんよ。空木さんもすぐに覚えられると思います」


 佐久田が言ったように特別難しいことはなかった。鍵の施錠や貸出書の説明を受け、利用者がいないのを見計らって本の整理に向かう。


「どうして図書委員をしようと思いましたか」


 本の順番を並びかえたり、分類の違うものを引き抜いたりする合間に投げられた問いに葵は顔を上げた。

 聞き間違えだろうかと心配になるほど、佐久田は真っ直ぐに本を見ている。葵が答えあぐねていると、目だけが向けられた。


「僕は時間つぶしに。寮にいても寒いだけですし、部屋も窮屈ですから」


 最小限に抑えられた声は変哲もない理由を語った。


「私は」


 葵は言葉につまった。押し付け合いを言うべきか思案する。正直に言って憐れまれるのも、馬鹿にされるのも傷付きそうだ。


「女子の学級も押し付け合いになりました?」


 葵の心を読んだと思えるほどに、佐久田は事も無げに言った。驚いた葵の顔を見て、ふと空気がゆれる。


「言いにくい理由はだいたい決まってます。評価のためか、押し付けられたか。空木さんは前者ではないと思いましたので。僕の学級も押し付け合いになりましたよ。それが面倒になって僕が立候補しただけです。立派な理由もいきさつもありません」

「私は、推薦されて。あ、でも、特にすごいところがあるとかじゃなくて、隣の席の人が本が好きそうだからと推してくれただけです」


 心が軽くなった葵もすぐに答えたが、最後になるにつれて覇気がなくなった。顔を上げることもできず、膝を折って下の本を見るふりをする。無駄に本の背を撫でて気を紛らした。

 佐久田は気にした様子もなく話を続ける。


「へぇ、友人ですか」

「友人だなんて! まだ一人もいません」


 素っ頓狂な声を上げた葵はすぐに周りを確認した。誰にも目を向けられなかったので詰めていた息を吐く。


「では、知り合い?」


 降ってきた佐久田の問いに葵の心臓が締め付けられた。恥ずかしさを圧し殺して口を動かす。


「実は、名前も知りませんでした……相手の方はご存知だったみたいですけど、たぶん、入学式のことで覚えられただけです」

「入学式で何かあったのですか?」

「声が裏返って、それで可笑しな人と思われて、友人ができないんです」


 葵は自分で言って悲しくなった。学校生活の四年間を棒に振ったかもしれない。

 佐久田は考える素振りを見せて、まだ不思議そうな顔で葵に訊ねる。


「声が裏返っている人なんていました?」


 想定外な問いに葵は信じられないものを見る目を向ける。


「……寝てましたか」


 佐久田の返事は空気をくすぐるような笑い声と否だった。


「空木さんは面白い人だとは思います。もちろん、ほめてますからね。僕のいうことが嘘だと思うなら推薦した理由を訊いてみたらいいじゃないですか」


 含みのある言い方に葵は口を引き結んだ。隣の席とは入学式以来、会話を交わしてない。名前を知って怖じ気ついたからだ。


「下ばかり見ていたら、見えるものも見えなくなりますよ」


 あたたかい言葉がうつむいた葵に降りてきた。

 説教みたいになっちゃいましたね、とおどけた佐久田は奥の棚へ行ってしまう。

 背中を目だけで追った葵は仲間外れにされていた本をあるべき場所へ戻してやった。


。゚。゚。❀。゚。゚。


「空木さんの担当される日はいつですの?」


 準備室へ備品を運んでいる途中、葵の足を止めさせたのは胡桃谷くるみたにだ。ちょうど他の教室から帰ってきた様子で、教室を出ようとした葵と鉢合わせた。

 名前は図書委員に推薦された後に名簿で調べた。隣の席に高貴な身分を持つ人が座っていると知って、葵は鳥肌がたった。

 樹木を冠する名前を持つ者は、神代の時代から脈々と続く樹族きぞくの末裔だ。

 図書委員に推薦された時も逆らわなくて正解だった。

 葵は失礼がないように向き直ってから返答する。


「水曜日です」


 視線を上げることはできなかったが、声が裏返らなかった。

 葵の臆病な姿など気にならない様子の胡桃谷は頬に手をあて、眉尻を下げる。


「その日はお花の先生がいらっしゃる日だわ。残念、行けないのね」


 葵は言葉につまった。図書委員を押し付けて、その姿を見て笑い者にしたいのだろうか。頭をよぎる考えを先日の言葉が打ち消す。

 卑下するばかりでは、見えるものも見えなくなってしまう。唇と掌に力を込めて、葵は顔を上げた。


「もしかして。わたくし、またやってしまったのかしら」


 葵が言うよりも先に胡桃谷が呟いた。長い睫毛にふちどられた大きな目が悩ましげに細まる。頬にあった手は下唇に移り、あのね、と間を置いた。甘えるように首を傾げて続ける。


「わたくし、空木さんが図書委員をやりたそうに見えたから推薦したのよ。ご迷惑だったらごめんなさい。よかれと思ったら、先走る所があるのよね、気を付けなくちゃ」

「胡桃谷さんは――」

「ごめんなさいね。わたくし、名字で呼ばれるの嫌いなの」


 胡桃谷は悪くないと言おうとした葵は形のいい笑顔と鋭い言葉でぴしゃりと止められた。有無を言わせない雰囲気に涙が出そうだ。

 取り直すように笑顔を作り替えた胡桃谷が提案する。


「そんなに怖がらないでよ。同級生なんだから、名前で呼んでくださらない?」

恵子けいこさん」

「はい、葵さん」


 高等師範学校に入学して以来、初めての名前を呼ばれた葵はこぼれる笑みを我慢することができなかった。


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