弐   オルガン

 入学式の次の日、役決めを行う教室はさざめいていた。学級委員は三名が立候補した後に投票となり、風紀委員、美化委員は立候補と推挙で順調に決まっていく。

 残りは図書委員だけとなったが、手が挙がらない。本が好きな葵は立候補したかったが、握られた手は膝の上にままだ。挙げた瞬間に皆の視線が集まるのを想像して動けなかった。


「毎週一回、二時間は当番があるのでしょう。誰かが休むなら、代わりに出ないといけないらしいわ。しかも、日曜日まであるって聞いたのだけど、本当かしら? 盆と正月だけが休みで夏休みも冬休みも関係ないんですって」


 斜め後ろから聞こえてきた声で、葵も遠慮したい気持ちに傾く。家の手伝いもあるので時間を取られては勉強が追いつかなくなる。

 学級委員が候補を募っても誰も名乗り出ず、近くの席同士で話に花が咲き始めた。入学式での失敗も足かせとなり輪に入ることができない葵は俯いて時間をやりすごす。


「ねぇ、空木うつぎさん。あなた、本はお好き?」


 隣の席の名前もわからない人が声をかけてきた。色白でやわらかそうな頬と大きな目は栗鼠りすを思い起こさせる。

 緊張した葵は頷き返すことしかできない。

 葵の返事に見た目通りの可愛らしい笑みを浮かべると、止める暇もなく真っ直ぐに手を挙げた。


「皆さん聞いて。空木さんがしたいそうよ。反対する方いらっしゃる?」


 よく通る声が教室に響き渡り、静まり返る。

 言葉を失う葵に盛大な拍手が送られた。


。゚。゚。❀。゚。゚。


 葵はもう陽が落ちていることに驚いた。図書委員の会議をしていたことに一拍遅れて気が付く。担当を決めて、来月に委員総出で蔵書の整理をするところまでは覚えているが、その後の記憶がない。

 扉と黒板から一番離れた場所が葵の席だ。顔を上げれば、ひと目で現状を知ることができる。雰囲気から察することはできたが、さすがに一人だけ残されたということはないだろう。葵は努めて明るく考えて机を見ていた顔を恐る恐る上げた。

 ロ型に組まれた長机に等間隔に並べられた椅子には誰もいない。

 面白がられて推挙された役ではあるが、任された限り責任を持ってやろうと決めて葵は会議に挑んだ。気合い十分でも空振りだ。一人残されるというさみしい結果で終わった。

 入学式に続き、失敗の連続。知り合いも友達もいないので、何かしら関係がほしいと考えたバチかもしれない。


「おはようございます」


 遠くなる葵の意識を取り戻したのは、オルガンの奥から聞こえる声だった。

 見覚えのある顔をのぞき、葵は瞬く。


「えっと、佐久田さくださん、でしたよね」


 会議の始まりに全員が自己紹介をしたので青年の名を呼ぶことができた。組と名前だけの簡単なものではあったが、桜の花弁を十枚集めた青年を見つけて目を丸くしたものだ。

 佐久田は葵の前まで来て書類を置いた。

 葵は吸い寄せられるように、机の上に並ぶ文字を眺める。

 担当は曜日ごとの表にまとめられ、下には蔵書整理の日時と月毎の図書通信の担当が書きとめられている。整った字は読みやすく、手本のようだ。物差しも使わずに綺麗に線が引かれた表は、わかりやすく丁寧で葵を感心させた。頭上から補足が入る。


「図書通信は毎年一年生が担当するみたいです。これまでのものは図書室に保管しているので必要に応じて確認してほしいと言われていました。これ、差し上げます」


 流れのままに聞いていた葵は、我に返り気になっていたことを訊ねる。


「あの、会議は?」

「終わりましたよ」


 穏やかな返答だったが、葵が青ざめるには十分だった。予想していたとはいえ、慌ててしまう。


「私、何て粗相をっ」

「大丈夫ですよ」

「皆さんに失礼なことをしましたっ」

「日頃の行いがいいのでしょうね。会議で決まったことを僕が伝える、で収まりましたよ」


 佐久田が事の次第を説明しても、葵はでも、と納得できない。


「初めての会議なのに、私、皆さんに失礼な態度をとってしまいました。同じ担当になった先輩にもご挨拶したかったのに」


 葵はつらつらと自責の念を並べていたがぴたりと止めた。さ迷わせていた瞳が弱々しい笑顔を映したからだ。

 佐久田は言いにくそうに口をゆがめて言う。


「空木さん、疲れているでしょう」


 顔色が悪いので皆さん、心配していましたよ、と佐久田は眉を下げた。

 言い当てられた葵は白い頬をさっと染める。

 確かに、ここ数日立て込んだ。寮に入ると家の手伝いができなくなるからと、入学の準備と並行して無理を押し切った。二日前に入寮した同室とはぎこちがないままだ。気の休める暇もなく、迎えた入学式は失敗してしまった。昨晩は皆の白けた目が頭から離れずになかなか寝付けなかったのも居眠りの原因だ。

 情けないやら申し訳ないやら、葵は言葉につまった。俯いた先の握られた白い手はわずかに震えている。

 重い空気を変えたのはやはり佐久田だった。

 そういえば、という佐久田の言葉につられて葵は目線だけを上げる。


「眼鏡のまじないって知ってますか?」

「……いくつかは」


 二人の出会いのきっかけはまじないだった。からかうネタにするのだろうかとやさぐれた葵は警戒する。葵とて、心の底からまじないを信じているわけではない。しかし、未来は不透明だ。願掛けに似た、自分への慰めとして試しているだけだ。


「眼鏡を逆さにしてかけると未来が見えるそうですよ」

「ああ」


 心当たりのある葵は薄く笑う。手軽にできるそれは次頁をめくる前に試してしまった。

 見えませんでしたよ、の一言も言えずに目を泳がせる葵とは反対に佐久田は人差し指を出す。


「それ、借りてもいいですか?」


 それ、とは机に置いた葵の眼鏡だ。

 葵は少しだけためらって、結局渡してしまった。

 佐久田は慎重に受け取り、眼鏡を物珍しそうに眺める。ゆっくりと逆さの眼鏡をかけ、鼻から落ちそうになる様を楽しんだ。新しい玩具でも見つけたように、顔の横で支えて笑う。


「何だか、不思議な世界ですね」

「慣れないと目が疲れるので気を付けてくださいね」


 葵の言葉に小さく頷いた佐久田は体を回転させながら教室を見渡す。

 楽しげな横顔を葵は直視できなかった。実を言うところ、葵は眼鏡が好きじゃなかった。遠くの字を見るのが苦しくなったらかけるだけの道具だ。授業の際にもかけるが、分厚いレンズは重く見目も不格好で恥ずかしい。母に見立ててもらった時も外に行く時は控えなさいと言われた。

 あ、と佐久田の背中が声を上げる。


「見えましたよ」


 しばらく間が空いたが佐久田は続きを何も言わなかった。

 聞き間違えではないかと思い始めた葵は言葉を選びながら口を開く。


「何が、見えましたか」

「空木さんがオルガンを弾いているところです」


 瞬きを数回して、やっと言葉の意味を理解した葵は思わず笑ってしまった。笑い声を混ぜながら夕日に照らされた背中に問いかける。


「それは未来ですか?」


 楽しそうな顔で振り返った佐久田は教師のように勿体ぶって言う。


「まじないの結果にケチをつけてはいけません」


 その言葉は答えになっていないのに、なぜかすとんと降りてきた。

 佐久田は落ちそうになる眼鏡に失笑して、葵の元に戻す。

 眼鏡に映る夕日は葵の心もあたたかく照らした。

 いつもなら絶対に固辞する葵はオルガンに向かう。人前で演奏するのは恥ずかしくてたまらないはずなのに、足取りは軽い。


「私の好きな曲でいいですか?」


 控えめに訊ねる葵に佐久田は満面の笑みで頷いた。

 


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