天と咲む
かこ
壱 零れ桜
下ばかり見ていた葵は気付けば講堂前まで来ていた。正面玄関とは反対方向だ。ため息をついて踵を返す時、白い雲を見つける。
雲ひとつない清々しい空だったはずだ。
訝しむ瞳に赤みをおびた白が映る。透きとおる空を背負い、浮かぶように現れた桜はみずみずしい若草に囲まれていた。
吸い込みたくなるような空気に誘われ、桜の下に足を運ぶ。ゆるやかな風に花弁がゆれ、おどる草は袴の裾と戯れる。枝の隙間から見える淡い空は心をなぐさめてくれた。
花を見上げていると、まじないのことを思い出す。先日、姉が見せてくれた雑誌に載っていたもので、地面に散り落ちる前の花弁を十枚あつめられたら願いが叶うというものだ。葵とて子供だましだとわかっている。
淡いひとひらが目の前をかろやかに過ぎ、差し出した手に寄り添うように落ちた。その様を見守って、葵の好奇心が芽を出す。二枚目に手を伸ばすが、指の隙間を抜け、一瞬浮いた花弁はすべるように地面に落ちた。もう一度、と手を伸ばすが結果は同じだ。桜に遊ばれてむなしくなった。教室で笑われたことを思い出して、悔しくなる。
最初の試験で一番になれる、そう信じて花弁を追いかける。夢中になって、なりふりなど構っていられなくなった。
右、左また左と手を伸ばすが一枚も手の中に収まらない。
「あぁ! もうっ」
躍起になってあげた声は思ったよりも響いた。次のひとひらを見極めようと顔を上げる。脇目も降らずに白い影を追った。
「どうかしましたか?」
後方から聞こえた声に葵は息を止めた。振り返れば、明るい髪の青年と目があう。髪も瞳も空を飛ぶ
「な、何でもありません」
葵は恥ずかしさがこみ上げてきて、とっさに誤魔化した。
青年は不思議そうに瞬きをして口を開く。
「桜の花弁を取っているように見えましたよ?」
「わかってるなら! 聞かないでください!」
誤魔化しは無用だったようだ。熱が顔に集まるのを感じながら、葵は批難の声を上げた。青年が穏やかに笑えば笑うほど、居たたまれない。
「集めているんですか?」
青年が問いを重ねても葵は押し黙った。
二人の間に桜が舞い落ちる。
青年は答えを待っていた。無理強いすることはなかったが、善人のお手本のような青年を邪険にすることは良心が痛む。葵は青年がからかっていないことを確認して、慎重に口を動かした。声が裏返らないよう気を付ける。
「ま……」
「はい」
「ま、まじないをしてみようと思って……」
同じ失敗は繰り返さなかったが、此度はどもった。言葉もまともに話せず、みじめで仕方がない。
「失礼しますっ」
口早に言うや否や、葵は袴をひるがえしながら駆ける。
「桜の花弁を取ったら良いんですか」
すべり落ちる花弁のように入り込む言葉が、地を蹴る足を止めた。
青年の口が弧を描いていないことを横目で見た葵は確信を持つ。
不可思議なことを言っても笑わない、と。
「落ちる前に桜の花弁を十枚集めたら、夢が叶う、というまじないです」
葵の話を聞いた青年は十枚か、と口の中で繰り返した。学生帽を葵に手渡しながら口端を上げる。
「夢が叶うなら、僕もやってみましょう」
葵は青年と学生帽を見比べ、恐る恐る帽子を受けとった。
桜に向きなおった青年が瞼を閉じる。呼吸を整え、ゆっくりと開かれた目が桜を見据えた。
やさしい風が髪をさらい、花弁がふわりと舞い散る。
葵が見守る中、ひとひらを追う手はすくうようにして動く。美しく舞う桜に合わせて時に早く、時にゆるやかに、右左、斜め下と瞬く暇がもったいない。
花弁は吸い込まれるようにして青年の手の中に収まった。
葵があんなに苦労しても無理だったのに、呆気なく集まる。信じられない気持ちが勝り、思い付いた言葉を口に出してしまう。
「……奇術ですか?」
「いいえ、違いますよ」
青年はいたずらが成功した子供のように笑った。やわらかい笑顔とはまた一味違うあどけなさの残る笑みだ。
桜が零れ落ちる季節に、二人は出会った。あたたかい日差しの中、雲ひとつない日から時が重なり始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます