⑦
「いやあ、終盤にかけて良いパンチが何発も入ってますねえ」
実況を務めていた男性アナウンサーは感嘆するような声を出した。
最終ラウンドが始まってもなお、神楽坂空海が優勢に試合を進めていることには変わりはなかった。とはいえ残り時間はもう二分を切っている。炎也は鋭いパンチを受けるたびにフラつきながらも、なんとかその猛攻を必死に耐え凌いでいた。
──負けることが悪いとは思わないです。けど、勝つつもりのない奴を格好良いとも思いませんね。
僕は画面の中で戦っている炎也の姿を眺めながら、ふとその言葉を思い出していた。
炎也にパンチが当たるたびに店内では歓声が上がり、「早く倒れろ」とか「さっさとくたばれ」などという野次が飛んでいる。
きっと彼のことを応援している人なんて誰もいない。彼がリング上で笑っている姿を期待している人なんて誰もいないし、誰も望んでいない。たぶんそのことは彼もよくわかっている。それでも彼は未だに勝つつもりでいるのだろうか。原型もとどめていないほどボコボコになっていたその顔の中で、唯一彼の瞳だけはまだ生気に満ち溢れているように思えた。
残り時間が一分に迫った頃、散々攻撃を仕掛けていた神楽坂にもようやく攻め疲れが見え始め、徐々に炎也のパンチが当たり始めた。
左フック、右フック、ボディフック、ドロップキック──と息を吹き返したように前に出る炎也に神楽坂は気圧されてしまったのか、なかなか反撃の糸口を見つけられないまま後ろに退いてばかりの展開がしばらく続いた。
そして、その勢いそのままにとうとう炎也は神楽坂空海からダウンを奪った。
「おーーーっと!」
実況のうるさい声が響くとともに尻もちをついた神楽坂の姿が画面に映し出されると、店内のあちこちがざわつき始めた。同じテーブルを囲んでいた雅人や元気もわかりやすく驚いた様子で「わおっ」と同時に声をあげていた。
その後も面白いように炎也の攻撃は神楽坂の脇腹に、みぞおちに、そして顔面にヒットしていく。果敢に攻め続けるその姿はまるで『火星人』と呼ばれていた全盛期の彼を彷彿とさせていた。
とはいえ、炎也が圧倒的アウェイに立たされている状況に変わりはなかった。彼のパンチが当たるごとに「がんばれ空海」「負けるな神楽坂」「そんな時代遅れの奴なんかに負けんな」などという声が店内に飛び交っていた。そしてその声にはやがて力が込められていき、焦りが見え始めていた。
まさかこんな奴に神楽坂空海の無敗記録は破られてしまうのだろうか──
そんな空気が店内に漂い始めると、今度は炎也に対する罵倒があちこちから飛び交い出した。
「戦い方が汚い」
「弱いくせに調子に乗んな」
「空気を読め」
「プロとしてみっともない」
「疲れたところを狙うなんてダサいし格好悪い」
「主役じゃないお前は引っ込んでろ」
「誰もお前なんか応援してない」
しかし、それでも炎也は攻撃の手を緩めなかった。
蓄積した疲労と容赦なく襲いかかってくるダメージとで明らかによろめき始めた神楽坂から二度目のダウンを奪うと、炎也は畳み掛けるように飛びヒザ蹴り、ワンツー、右フックをお見舞いした。店内には「やめろっ」「負けんなっ」というほとんど怒号のような声が反響していた。
そして、試合終了の十秒前にゴングは鳴らされた。
まさか炎也が神楽坂空海を相手にKO勝ちするなんて、誰も予想だにしていなかった。店内にいる客は皆その結末を受け入れられない様子でただただ呆然とし、シーンという音が聞こえてきそうなほどの静寂を保っていた。実況を務めていたアナウンサーや解説者もそのまさかの結果に口をあんぐりとさせていたに違いない。さっきから画面に映し出されている炎也はリング上で何度も力強くガッツポーズを掲げているにもかかわらず、「おめでとう」の一言も聞こえてこなかった。
やがてふと、僕は何かの異変に気付いた。周囲の眼差しが一斉にこちらに向けられているように感じたのだ。実際、雅人や元気も目を見開いて僕のことを見上げていた。
どうしたのだろうかと気になって辺りを見渡してみると、そこでようやく僕は知らぬ間に自分が立ち上がっていたことに気付いてハッとした。僕は慌てて天井に掲げていた両腕を下ろし、目一杯に開けていた大口を手のひらで押さえつけて息を止めた。
「お前さ、少しはこの空気察しろよ」
誰かが言ったその鋭い声が僕に向けられていることには気付いていた。
僕は顔を伏せながら静かに腰を下ろす。多勢の嫌悪感を一身に受けることがどれほど苦しいことなのかを、どうやら僕は甘く見ていたらしい。心臓はこれまでにないくらいに激しく警鐘を鳴らしていた。
しかし、その直後に店内にいた客全員の視線は再びプロジェクターに向けられた。腫れ上がった顔面を血で染めていた炎也がリング上でマイクを持ち、まるで会場から遠く離れたこの歌舞伎町のスポーツバーの中にいる全員に向かって訴えかけるように大声で叫んでいた。
「いいか、よく覚えとけ。俺はなあ、てめえらが作った空気なんか読む気はねえんだよ。無敗のままボクシングに転身? ラストマッチに華を添える? そんなもん知ったこっちゃねえっ。俺は俺が勝つためならどんな泥水だって飲んでやる。どんな恥だってかいてやる。どんな批判だって受けてやる。でもなあ、最後に笑ってるのはいつだってぜってえ俺なんだよっ!」
その終始攻撃的な口調からは、僕が偶然行きつけのスポーツジムで見かけた時のような温厚で腰の低い炎也の姿とは結びつけられなかった。
店内にはさっきよりも酷い野次が飛び交い始める。
「調子乗ったこと言ってんじゃねえよっ」
「たかが一回勝ったくらいで粋がんなよっ」
プロジェクターに映し出されている炎也はそんな批判や罵倒が遠く離れたこの場所で繰り広げられていたことなんて知らず、リング上で満面の笑みを浮かべていた。その瞳が微かに潤んでいたことに気付くと、何故だか途端に胸が熱くなった。気を抜いてしまえばついその涙にもらい泣きしてしまいそうで、僕は奥歯を強く噛みしめた。
僕は心の底から彼のことを格好良いと思った。彼のようになりたいと思った。
その衝動に突き動かされるように僕はいつの間にか口を開いていた。
「やっぱり三人で起業してみたい」
自分にビジネスマンとしての才能がないことは理解してる。営業さえロクにできてない奴が起業なんて馬鹿げてると自分でも思う。田所課長から言われたように、僕はただ雅人と元気と一緒にいて自分にもできるかもしれないと勘違いをしているだけだということもわかってる。二人の足を引っ張ろうとしていることだってわかってる。失敗するかもしれないし、周囲からは酷く批判されるかもしれない。もしかすると立ち直れないほどの深い傷を負ってしまう可能性だってある。
だとしてもやっぱり僕は三人で一緒に勝ちたいと思った。
それが誰との勝負に勝つことなのかも、何をもって勝ちに値するのかもよくわかってなかった。具体的なプランなんて全くない。何系の企業を立ち上げたいのかなんてイメージすらない。それでも僕は炎也のように最後まで戦い抜いてみたかった。
「今は二人にとって何の役にも立たないかもしれないけど、絶対にいつかは二人の戦力になってみせる。どんな汚れ仕事でもどんな雑用でも何でもやるし、必ず二人を裏切るようなことはしない。だからお願いします。一緒に起業してくださいっ」
僕の下げた頭は勢い余って思い切りテーブルにぶつかってしまう。その音は店内で飛び交っていた野次を一瞬にして断ち切ったかのように、周囲の声は一斉に止んだ。やがて、またこいつかよ──というような視線がこちらに集まってくる。まるで時が止まったかのような静寂が僕を中心に染み渡り始めた。
すると、唐突に雅人の「バーカ」という声が店内に響いた。「俺ら二人は最初からずっとそのつもりだっての。なあ、元気」
「そうだよ。僕らだって翔と一緒に起業することを本気で楽しみにしてたんだからさ、勝手にやめるだなんてことはもう二度と言わないでくれよ」元気はわざとらしく眉をひそめて口を尖らせた。
雅人は周囲の視線など全く気にしない様子で「ほいっ」と右腕をテーブルの上に伸ばし、軽く握っていた拳を前に突き出した。元気もそれと同じように拳を前に出す。
「ほら、社長もやってよ」と元気が言った。
「……おう」
僕は奥歯を噛み締めながら二人と拳をくっつけた。
「よっしゃ、これで今日は記念すべき一日になったな」と雅人は言う。「こうなりゃ、とことん飲もうぜっ」
それに続くように元気も「そうだねっ」と肯いた。
「じゃあ、ありがたくゴチになりましょうかね」
僕がそう言うと目の前で二人はほとんど同時にぽかんと口を開けた。
「……あっ」
ようやく飲み代を賭けていたことを思い出したのか、二人はどちらからともなくハッと目を見開き、互いの引きつった顔を見合わせていた。
僕はそんな彼らをよそに、近くの店員にこの店で最も高価な酒を頼んだ。
凡人(No.5) ユザ @yuza____desu
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