⑥
「へえ。俺の知らないところでそんなことがあったんだな」
雅人は生中ジョッキを片手にそんな相槌を打った。
会社から徒歩十分ほどで着く昔ながらの大衆居酒屋は普段から僕ら三人が足繁く通っている店だった。お洒落や写真映えなどという概念とはかけ離れている店内には、メニューが記された短冊が貼り付けてある壁際に四人掛けテーブルが四組と、三段積まれた『SAPPORO』というロゴの入った赤いビール瓶ケースの上に木目調の丸い天板が載せられた三人掛けテーブルが二組あり、カウンター席が五つあった。
席ごとの間隔は狭く、トイレに行くだけでも何回も他の客に頭を下げなければいけなかった。しかもトイレはいまどき珍しい和式トイレで、酒に酔った客が尿を飛び散らすせいか床のあちこちが汚れ、ドアノブや換気用の小窓の枠は経年劣化でひどく錆び付いている。カウンター席から見える厨房の換気扇も当然のように油汚れで変色し、お世辞にも衛生的とは言えなかった。
そんな店で働いているのは、頭に白いタオルを巻いた店主の他に色黒で普段は大学に通っているという鳥取県出身の女の子と、ついこの間三人目の息子を育て終えたばかりだというふくよかな体型をした四十代半ばの女性の二人だけ。初めてこの店を訪れた客にはいつも決まって家族三人で切り盛りしている居酒屋だと勘違いされてしまうらしい。事実、僕自身も最初の頃はそう思っていた。
時代に乗り遅れた店主が経営しているこの店では、このご時世になってもなお現金主義で電子決済は断られるし、どのテーブルにも灰皿が用意されている。
字面だけで表すと『狭い、不衛生、会計が面倒臭い』という飲食店にとっては致命的な三拍子が揃っているが、それでもこの店が未だに潰れていないこの現実を目の前にすると、それだけこの街が喫煙者によって支えられていることを象徴しているようにも思えた。
黄色い照明に隅々まで照らされている店内は灰色の煙が充満し、まるで晴れと曇りが混在しているような不思議な空間だった。店主が懸命に振っている中華鍋の上で炒められ続ける食材たちが弾ける音は各テーブルから飛び交う客の笑い声と重なり、心地よい騒がしさが耳の中を満たしてくれる。
僕はそんな場所で、今朝、社内の会議室で田所課長に告げられた異動の件を二人に話していた。
「──でさ、田所課長と話しててふと思ったんだよね。もしかすると雅人と元気はずっと話を合わせてくれてただけなんじゃないか、って」
見下していただけなんじゃないか、とはさすがに言えなかった。
「どういうこと?」と元気は眉をひそめる。
「ほら、起業の話とかさ、二人はたぶん適当に話を聞き流してただけなんだろうなーって」
「……ああ、そういうこと」と雅人は素っ気ない返事をする。
「つまらない話に付き合わせて悪かったなって、今はすごく反省してるんだ」
僕は必死に苦笑いを取り繕うことしかできず、二人とはまともに目も合わせられなかった。
いつの日だったか、起業しようと二人を誘ったのも確かこの店だった。
酒に酔った勢いで口に出してしまったそれは、雅人や元気が面白がって肯いてくれるたびに薄っすらと輪郭を帯び始め、日が経つにつれて僕はふとした瞬間に二人と過ごす未来をはっきりと妄想するようになり、二人から「社長」と呼ばれる中で僕はいつの間にか本気で起業してみたいと思うようになっていた。
ただ、それらも結局は僕が勝手に期待していた幻想に過ぎなかった。田所課長に言われた通り、雅人や元気はずっとその幻想をまともに聞いてなかったに違いない。それなのに僕はたった一人で舞い上がり、形のない舞台上で音のない音楽に合わせて意気揚々と踊っていた。
冷静になって考えてみれば、二人とは生まれ持った才能がまるで違うのだ。誰が僕みたいな凡人なんかと一緒に本気で起業しようと思うだろうか。ましてや営業部をクビになって総務部に飛ばされるような使えない人間だ。僕がスティーブジョブズなら絶対にそんな奴とは手を組まないはずだった。
「起業するなんて馬鹿なことはもう言わないから」
この期に及んでもなお、僕は二人に止めてもらえるんじゃないかと心のどこかで期待していた。だからこそ「おっけい」「わかったよ」とあっけなく承諾する二人に僕は戸惑い、まともにショックを受けていた。そこでようやく僕の幻想は本当に幻想だったんだという事実を目の前に突きつけられたような気がして、勝手に本気にしていた自分自身を心の底から哀れんだ。その直後には煮え立つほどの羞恥から大量の血液が頬に上ってくるのを感じる。たちまち僕は普段のような自然な立ち振る舞いができなくなり、手持ち無沙汰になるとつい目の前の生中ジョッキに手を伸ばし、中身が空になっていることにも気付かずにそれを一気に傾けてしまう。わずかに残っていたビールの泡はねっとりとジョッキの側面を滑り落ち、やがて舌の上に生ぬるい温度が伝わった。それはこの世のものとは思えないほどに苦く、虚しいほどに一瞬で形を失くしてしまった。
もうこれ以上惨めな思いはしたくない──
そんな思いが腹の底の方から沸き立ってくると、自然と僕は雅人が愉快に喋っている間も、元気が最近作った自作のゲームを嬉しそうに自慢している間も、必死に涙を我慢しながら無理やりにでも口角を引き上げていた。
そろそろ締めに差し掛かっていた頃合いで二軒目にハシゴしようと言い出した二人の誘いをつい反射的に断ってしまった僕は、楽しそうに歌舞伎町の方へと姿を消していく二人の姿をよそに駅の方に向かってとぼとぼと歩いた。
とにかく今は一人になりたかった。どんな慰めも励ましもいらない。優しさなんて今の僕にとっては蜂に刺されるよりも痛かった。
乗り慣れた電車に揺られ、通い慣れた最寄駅で降車し、気付けば日課となっているジムに足が向いていた。トレーニング用の着替えは持ってきていないことはもちろんわかっていた。スーツのままトレーニングをしてしまえば、きっと周りの人たちからも白い目を向けられるに決まっていることも知っていた。普段の僕がそっち側の人間なのだ。昔からルールやマナーを守らない人は苦手だった。
それでも僕はいてもたってもいられず、今すぐにでも何かに没頭して気を紛らわせたい一心で足を動かし、やがてジムの看板が見えてくると自然とその動きは速まっていった。
結局、僕はスーツのままおよそ一時間程度のトレーニングをこなした。
周囲に気を遣ってルールやマナーを守れるほどの余裕はなかった。それだからか、こちらに向けられているであろう軽蔑の眼差しも全く気にならなかった。もはやトレーニングを終えた頃にはそれどころではなく、体内にアルコールが回っていたせいなのか背中は粘着質な汗でぐっしょりと濡れ、ひどく口の中が渇き、その場に立っていられないほどに足元はふらつき、いつの間にか何も考えられなくなるほど頭はぼうっとしていた。
受付の横にある自動販売機でスポーツドリンクを一本買い、
一体、僕はどれだけの時間そうしていたのだろう。
人の流れにつられて視線を動かし、施設内に響き渡るトレーニング器具の音に耳を澄まし、胸元から立ち上ってくる自身の汗臭さに息を止め、口に含んだスポーツドリンクの程よい甘みは舌の上に残った。それらは情報としてのみ僕の脳を刺激し、だからといって何の感情も生み出すこともなかった。ランニングマシンや自動販売機と同じように、僕はただただこの空間に居るだけの存在に徹していた。こちらから何かを発信することはなく、周囲の干渉に応じて反応するだけ。その方が余計なことが頭に過ぎらず、気が楽だった。
いつの間にか時計の針は零時を回っていた。さっきまで休みなく稼動させられていたトレーニング器具たちも、今では安息を取り戻したかのように静かに佇んでいる。僕は空になったペットボトルを捨てに行こうと、ようやく重い腰を持ち上げた。
自動販売機の前には赤髪の男性が立っていた。その後ろ姿からして目の前の赤髪の男性が只者でないことはすぐに察した。黒いTシャツの袖から覗く細い腕は身が詰まったように筋肉質で引き締まり、丈の長い白い半ズボンからは太くて角張ったふくらはぎが姿を現していたのだ。僕は息を潜めて自動販売機のすぐ横に設置されていたリサイクルボックスの穴に空のペットボトルを滑り込ませる。その一瞬の隙に、ちらっと赤髪の男性の顔を覗いた。
その瞬間、僕は思わずハッとしてしまった。
「えっ……、あ、あの、す、すみませんっ」
赤髪の男性は僕の声に気付き、こちらを振り向いた。
「どうかされましたか?」
その威圧感のある出で立ちからは想像できないほど穏やかな声をしていた。
「いや、えっと、その」と戸惑う僕はつい喉元に言葉が引っかかってしまう。「……あの、勘違いだったら申し訳ないんですけど、もしかして炎也さんですよね?」
その問いに赤髪の男性は一瞬驚いたように目を見開き、やがて柔らかい笑みを浮かべ直すと「僕のこと知ってる人なんてまだいたんですね」と自虐っぽい冗談を口にしていた。
「やっぱりそうだっ。握手してくださいっ」本人だとわかった途端に僕はわかりやすく興奮した声を上げていた。
伸ばした手を両手で優しく握り返してくれた炎也はいつもテレビで観ていたイメージとは違い、ビッグマウスでも嫌われ者でもなんでもない、ただ髪色が派手なだけの温厚で常識のある男性に見えた。
「い、いつもこのジムでトレーニングしてるんですか?」
いきなり握手を求めただけにとどまらず、初対面の人間がプライベートに踏み込もうとするなんて自分でも図々しいことは自覚していたが、こんなチャンスは二度と来ないような気がして僕は無神経なフリを貫いた。
しかし、彼は嫌な顔一つせずにううんと首を振って答えてくれた。
「今日はたまたまこの辺で取材があったから立ち寄っただけなんですよ。お兄さんはここの職員さん?」
彼の視線が僕の胸元に移ると、慌てて僕はかぶりを振った。
「ああ、違いますっ。これはその……」
ついさっきまでスーツのままトレーニングをしていたことを白状してしまえばきっと彼に不快に思われてしまうような気がして、僕はつい途中で口を噤んでしまった。
すると炎也はそれを察してくれたように苦笑いを浮かべ、「それにしてもよく僕のことをご存知でしたね」と話題を変えてくれた。
「そりゃ知ってますよっ」と僕は声を張る。「弱冠二十歳でプロの世界に飛び込み、団体王者のタイトルを勝ち取ったのは二十五歳の時。果敢に打ち合うそのファイトスタイルが特徴で、ファンの間では『火星人』という愛称で人気だったんですから。それに、今やトレードマークにもなってるその瞼に残った傷痕だって元々は──」
そう言いかけたところで僕はハッと気付き、手で口を覆った。あまりに興奮していたせいで、つい余計なことまで口にしてしまった。
彼としても軽く触れられてしまったことに気付かないふりをするのは居心地が悪いのか、彼は自ら指で瞼に触れ、「そうそう、この傷痕は五年前に神楽坂くんがね」と笑ってみせた。
「ご、ごめんなさいっ」と僕はとっさに頭を下げた。
「謝らないでください。全然気にしてないですから」と炎也はかぶりを振った。「確かにその試合を機に勝てなくなってしまったのは事実ですし、当時のスポーツ紙にはよく『翼の折れた鳥はもう二度と羽ばたけない』なんてことを散々書かれてましたけど」
僕はそれに何も言い返せず、無神経に彼の過去を掘り返してしまったことをただただ猛省した。すると彼は気を遣ってくれたのか、沈黙を埋めるように言葉を紡ぎ始めた。
「でも、僕はその時にこう思ったんですよ。翼の折れた鳥はもう二度と羽ばたくことはできないかもしれないけど、地道に歩くことはできるって。たとえいくら時間がかかったとしても、一歩一歩、着実に自分の足で登っていけば、いずれは高い場所にだって辿り着けるに違いない。でしょっ?」その真っ直ぐな瞳からは一切の濁りが感じ取れなかった。「それに、幸運にも今年の年末には神楽坂くんとラストマッチを組むことができた。五年前の雪辱を晴らすチャンスがもらえたんです。きっと世間は僕のことなんか応援してないでしょうけど、僕は本気で彼に勝ってもう一度チャンピオンの座を目指すつもりなんです」
僕はいつの間にか彼の迷いのない言葉に聞き入っていた。やがて沸き立つような何かが強い疑問を喉元まで押し上げ、僕はそれを声に乗せる。
「負けることが怖くはないんですか?」
すると炎也はしばらく考える素振りを見せ、やがて小首を傾げてこう言った。
「負けたまま人生を終えたくない。そんなダサい人生は送りたくない。僕はただそれだけのために戦ってるんです。だから、いくら恥ずかしい負け方をしたって次勝てばいい。また負けてしまったなら、その次に勝てるよう努力すればいい。最後に笑ってリングの上に立ってる奴こそが結局は一番格好良いと思ってるので。まあ、それに人生なんて負けがかさんだところでゲームオーバーになって死ぬわけじゃないから。だったら勝つまでやり続けることが負けないための唯一の秘訣なんだなって思ったんです」
「……でも、そもそも負けることって本当に悪いことなんでしょうか?」
何を血迷って彼に向かってそう反論したのかはわからない。ただ、このままでは今の僕がダサい人生を送っていると言われているようで、さっきの言葉がほんの少しだけ癪に障った。
彼もまさか言い返されるとは思ってもみなかったのだろう。面食らったように目を瞠っていた。
「あっ、いや、ごめんなさいっ」
ふと我に返った僕は慌てて炎也に謝罪した。そしてすぐに誤解を解こうと言葉を続けたが、言い終えた後でようやく僕は火に油を注いでいたことに気付いた。
「別にそういうつもりじゃなくて、あの、そのっ、やる前から負けると分かっているのにどうしてわざわざ戦う必要があるのかなって思って……」
これまでずっと温厚な態度で接してくれていた彼もさすがに僕の身の程をわきまえないその言動には腹を立ててしまったのか、しばらく一文字に口を結び、すっと一瞬にして殺気を滲ませたような鋭い目つきでこちらを睨みつけた。
ハッとするよりも先に背筋に冷たいものが走った。
やがて彼はおもむろに自動販売機に向き直り、上段にあった天然水のペットボトルのボタンに手を伸ばしてガゴンっという音とともに滑り落ちてくるそれを取り出し口から拾った。その一つ一つの動作から僕は目を離せないでいた。一瞬でも気を緩めてしまえば殺されてしまう。そんな恐怖が全身にまとわりつき、僕はその場から一歩も動けなくなってしまっていた。
炎也はペットボトルを片手に僕のすぐ横を通り過ぎようとしたその去り際、僕にしか聞こえないような小声でぼそっとこう言い残した。
「負けることが悪いとは思わないです。けど、勝つつもりのない奴を格好良いとも思いませんから」
軽いジャブ程度の
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