──それから二日後のこと。

 主役の雅人はいつも通り就業時刻ギリギリになってようやく出勤してきたらしい。

 いつの間にか事務所に出勤していた社長や副社長、部課長陣は一斉に立ち上がり、「よっ。営業部の若きホープ!」と誰かが言ったのを皮切りにあちこちから「おめでとう」だったり「ほんとによくやった」だったりと、歓喜と祝福が入り混じった声が飛び交っていた。その他一般社員たちもそれを加勢するように祝福の声と拍手を彼に送っている。

「えっ、これなんすか?」

 雅人はその異様な光景にわかりやすく困惑していた。その様子を見かねた社長は彼のもとへと歩み寄り、握手を交わして肩にポンっと手を置いた。

「君のおかげで竹内商事と業務提携を結ぶことができたよ。これでまた一つ会社が大きくなれそうだ」

「ああ、よかったっすね」と雅人は他人事のような返事をした。

「これからも会社のために頑張ってくれることを期待してるよ」

 その言葉を境に拍手はさらに大きくなった。その拍手のおかげで雅人のことがいつもより何倍にも大きく見えてしまう。

 会議室の扉の前で立ち止まっていた僕は自然とそんな彼から目を逸らした。頭の中では田所課長と交わした会話が延々と再生と巻き戻しを繰り返されている。雅人が竹内商事との商談を成功させたというニュースもその会話の中で知らされていた。

 今朝方、就業時刻の三十分前に出勤していた僕はすでに出勤していた田所課長に呼び出され、つい先ほどまで会議室の中で二人きりで話をしていた──


「すまんな、朝から呼び出して」

 向かいの席に腰を下ろした田所課長はいつにも増して上機嫌だった。表情もどこか普段とは違って穏やかに見える。呼び出しを食らった時はついいつもの癖で身構えてしまっていたが、やがてそれを察したかのように「大丈夫だよ、今日は説教なんかしないから」と彼に笑われると、僕もようやく少しは肩の力が抜けた。

「そういえば聞いたか? 竹内商事の件」と田所課長は言った。

「雅人が担当してたやつですか?」

「そうそう。無事にウチと業務提携を結んでくれることになったんだってさ」

「ほんとですか?」僕はつい大きな声を出してしまった。「相変わらず雅人はすごいですね」

「すげえよな。入社してまだ間もないのにさ、もうウチの会社のエースになってるんだから俺たちみたいな上の人間はずっとビクビクしてるよ」と冗談交じりに田所課長は笑い、デスクに肘をついて人差し指と親指で顎の輪郭をなぞった。

 僕は愛想笑いを返す。

 わざわざそんなことを報告するためだけに会議室に呼び出されたのだろうか──と疑心暗鬼になった矢先、田所課長は何の脈絡もなくこう切り出してきた。

「それよりもどうだ。最近、仕事は楽しいか?」

「えっ、ああ、えっと……」

 僕はデスクに目を伏せてこめかみの辺りを指で掻く。あなたに怒られてばっかりだからここ最近はあんまり楽しくありません──なんて正直な気持ちは言えるわけもない。僕は喉元までせり上がってきたその本音を舌の上に溜まっていた僅かな唾液と一緒に飲み込み、「た、楽しんでますよ」とその場しのぎの嘘をついた。

 しかし、田所課長はその心にもない言葉をあまりにあっけなく見抜き、そこに積もっていた埃を払うように鼻をふんっと鳴らした。

「いいんだって、無理しなくても」

 意外にもその声には温もりが感じられた。田所課長はその後も柄にもない言葉を続けた。「俺はさ、これまでずっと中町くんのことをちゃんと理解してあげられていなかったような気がするんだ」

「……えっ、ど、どうしたんですか急に」

 さすがに僕も田所課長の変貌ぶりに戸惑いを隠せなかった。

「別にどうしたってわけじゃないんだ。ただ、上司として素直に反省してるだけさ」田所課長はそう言って突然目の前で頭を下げた。「すまんかった。お前にはもっと伸び伸び仕事ができる環境を作ってやるべきだったんだよな」

「や、やめてくださいよっ」僕は慌てて立ち上がり、デスクの上に身を乗り出して田所課長に頭を上げさせる。「課長がそこまで思いつめる必要なんてないですから」

 ただ、そうは言いながらも彼の頭の裏を見下ろしていた僕は心のどこかで安堵していた。ようやく田所課長にも少しは自分のことを認められたような気がして、これまで盤上を真っ黒に染めていたオセロの石が一気にひっくり返るような爽快感が胸の中で染み渡った。これまで君が思うように営業成績を伸ばせていなかったのは君だけのせいじゃない──と、そんなことを言われているようにも聞こえた。本来、君の実力はそんなもんじゃない。田所課長が今にもそんな言葉を言ってくれそうな気がして、僕は本気でその言葉を密かに期待していた。

「やっぱりさ、適材適所ってあるもんな」

 ゆっくりと頭を上げた田所課長は僕の顔をじっと見つめながらそう言った。

「昨日、社長とも相談してさ」と田所課長は話を続けた。「突然だけど、中町くんには来週から総務部で働いてもらうことに決まったよ」

 会議室に漂っていた和やかな空気は一瞬にして不穏なものに変わった。

「…………はいっ?」

「だからさ、中町くんは来週から営業部から総務部に異動することに決まったんだ」

 もちろんその言葉の意味は理解できたが、何を言われているのかが僕にはさっぱり理解できなかった。開けた口を閉め忘れ、まぶたは一向に下りてこない。まるでその瞬間を写真で切り取られたかのように僕の顔は固定され、脳内に張り巡らされた思考回路は刃先が大きくて四角い中華包丁にぶつ切りされたみたいにその機能を失った。

 その後も田所課長は何の悪びれる様子もなく今後の業務の流れについて説明を続けた。その意気揚々と喋っている様子を目の当たりにして、ようやく僕はいつも以上に機嫌が良かった田所課長の根底には面倒なことから解放された喜びが流れていたことに気付いた。彼は決して反省なんかしていなかった。さっきまで口にしていたことも、結局は全部これから戦力外通告をされる僕に宛てた皮肉だったのだ。

 最後に田所課長は付け足すようにこう言った。

「あ、そういえば中町くんが逃したファインバンクの件だけどさ、昨日、大坪くんが担当者に電話で営業してみたらすぐに契約取れたらしいよ。よかったな、これで無事に君のミスも救われたわけだ。ちゃんと感謝しておけよ? 君、周りにだけはすごく恵まれてるんだから」

「……そうですね」

 僕の胸はまるで焼豚のように何かに強く締め付けられているように痛かった。それでも僕はなんとか満面のつくり笑いを浮かべて田所課長の言葉に肯く。

 何に対して失望していたのかは自分でもよくわからなかった。これまで歩んできた人生を全否定されているかのようで、着実に積み上げてきたブロックを一瞬のうちになぎ倒されてしまったかのような、そんな不確かで強い喪失感を味わいながら、着実に五臓六腑が何者かによって蝕まれているような気がした。

 ──俺がやったって田所課長がやったって結果は変わらなかったはずだよ。

 なんだよ。嘘じゃんか……。

 雅人に励まされていた過去の自分が途端に惨めで可哀想な人間に思えた。やっぱり僕は大きな勘違いをしていただけなのだろうか。もしかすると雅人や元気だって本当は僕のことを見下していたのかもしれない。そんなことばかりが沸騰した泡のように頭の中に浮かび始めると、これまで目に映ってきた景色がすべて嘘で造られてた偽物ように思えた。

 嘘で塗り固められた励ましを大事に抱えていた僕は、いつの間にか自分の腕が真っ赤に染まっていたことに気付かなかっただけなのかもしれない。

 程なくして席を立った田所課長は、去り際に「それじゃ、そういうことだから」と清々しいほどに未練のない別れを言い残し、そそくさと会議室を出て行った。

 事務所の入口の方から歓声と拍手が聞こえ始めたのはそれからすぐ後のことだった。

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