「いい加減にしろよっ!」

 事務所の会議室に田所課長の怒号が響き渡った。背もたれに片肘をつき、足を組んで座っていた彼は目の前で会議用テーブルの天板を思い切り叩いた。そこにはいつものような不気味な笑みはない。まるで借金の取り立てにやってきた裏社会の人間のようなおっかない迫力も持ち合わせていた。

「せっかく大坪くんが君にも受注できそうな案件を見繕ってくれたのにさ。しかも紹介案件だぞ? どうすればそんな簡単に同僚の好意を不意にすることができるんだよ。あぁっ?」

 眉間に深いシワを寄せていた田所課長は勢いよく語尾を上げた。

 この日の朝、ちょうど一週間前に僕が営業に行った株式会社ファインバンクの担当者から、今回の契約は見送るとの連絡が入ったのだ。

 近頃メディアでたびたび紹介されることが増えていたとはいえ、ウチの会社はまだ四十人弱の社員しか抱えていないベンチャー企業だ。規模の拡大は今年の最優先課題にも挙げられていた。僕たち営業部の社員はその実現のために毎日テレアポや飛び込み営業で新規顧客の獲得を試みる。だが、当たり前のようにその成約率は高いものではなかった。ほとんどの企業で門前払いに遭い、たとえ話を聞いてくれたとしてもそのほとんどが相手にされずに終わった。

 しかし、そんな中でも比較的成約率が高いのが紹介案件だった。よって、既存顧客を始めとするその他の繋がりある人物から紹介してもらう新たな見込み顧客を確実に獲得していくことは、営業部の中でも最も重要視されていたのだ。

 が、そんな紹介案件を僕は今月に入ってからもう二度も逃していた。

「君はどれだけ会社に迷惑をかければ気が済むんだい?」

 田所課長は数字を取れない社員のことをことごとく嫌った。

「……すみませんでした」

「もうそれは聞き飽きたよ」と田所課長は深いため息を吐いた。「君ってもしかして反省しないタイプの人間でしょ? でないと普通はありえないもん。失敗から学ばない人間なんて犯罪者とそう変わらないからな?」

「……はい。すみません」

 田所課長はわざわざこちらにも聞こえるように舌打ちを鳴らす。

「だからもういいってそういう謝っているフリは。ウンザリするんだよ」彼は再びテーブルを叩き、先ほどよりも若干前のめりに座り直して説教を続けた。「君がどれだけ高いプライドを持ってるのかは知らないけどさ、そんなしょうもない演技してる暇があるなら少しは学習するってことを覚えた方がいいんじゃないかな。え、それとも何? もしかして君は猿でもできるようなことができないっていうのかい?」

 僕は膝の上に置いた拳を固く握り締めながらかぶりを振った。

「いえ、そんなことはないです」

 声に出しながら僕は何に対して「そんなことはない」と否定しているのかがわからなくなった。猿でもできることができない人間だと思われたくないのか、失敗から何も学んでないということを否定したかったのか、そもそも謝っているフリをしていると主張する彼の誤解を解きたいのか、それともプライドが高いと思われたくなかったのか──

 とにかく、この期に及んでも体裁ばかりを気にしている自分に僕は嫌悪感を抱いた。結局はいつも周りの目を気にしないと生きていけない。今更になって弁明したところで田所課長の目に映る僕の印象なんてほとんど変わらないのはわかっているのに、少しでも彼に見放されないために必死でその裾に手を伸ばそうとしている自分に腹が立った。

 別にいいじゃないか、周りの評価なんて──ときっぱり割り切れたらどんなに楽に生きられただろうか。昔から優等生だった僕は誰かに怒られるということに慣れていなかった。両親や先生の目を気にしながら真面目に過ごしてきた学生時代の弊害が、まさかこんなところで現れるなんて当時は思ってもみなかった。

 真面目に生きたって結局は損するだけなのかよ……。

 やり場のない後悔と不満ををすり潰すように僕は奥歯を嚙み締めた。

 すると、田所課長は途端に何かを思い出したように薄ら笑いを浮かべて「そういえば、他の社員から噂で耳にしたんだけどさ」と言い出した。

「君、将来は大坪くんと林くんと三人で起業しようとしてるんだって?」

 僕は思わず「え」と声を漏らした。

 何に対して負い目を感じていたのかは自分でもはっきりしていなかったが、それでも僕は心臓の一番柔らかい部分を掴まれたような息苦しさを感じ、つい咄嗟に目を伏せてしまった。

「君たちが仲良いのはもちろん知っているよ。入社日もそれぞれ一週間ほどしか変わらないからね」田所課長の唾液多めのぺちゃくちゃとしたその粘着質な喋り口調がいやに僕の鼓膜にこびりついた。「でもさ、それはプライベートだけにしてくれるかな? 起業しようなんてふざけたこと言い出したのはどうせ君なんだろう? やめてくれないかな、そういうの」

 諭しているというよりはむしろ脅しているように聞こえた。やがてこめかみの辺りが突然酷い鈍痛に襲われる。どうやら自分が思っている以上に心と身体は連動して動いているらしい。今になってようやく、病は気から、という昔からある科学的根拠のない言い伝えにも納得がいった。

 その後も田所課長は容赦なく僕に対する苦言を続けた。

「君がどんな風に二人をたぶらかしたのかは知らないけどさ、せっかくウチの会社に入ってくれた優秀な人材を引き抜こうなんて汚い真似はさすがにルール違反だと思うんだ。それに、きっと彼らも君の言う戯言を本気にはしてないと思う。そもそも君は彼らと対等な立場でビジネスの話をできるほどの位置にはいないんだよ。いい加減そのことを自覚した方がいい。ほら、すごい人たちの輪の中にいるだけで自分の力量を見誤る馬鹿はこの世にたくさんいるだろう? たぶん今の君もそいつらと同じようになりかけてる。つまりは大きな勘違いをしているんだよ。そうでもなきゃ、君みたいに実力のない人間がいきなり起業なんてアホらしいことは考えないだろうからね、普通は。だからさ、大坪くんと林くんと仲良くするのは構わないけど、頼むからもうこれ以上は会社に迷惑をかけないでくれよ。なっ?」

 たぶん僕は誰からも期待なんてされてない。たった今それを実感した。

 反論はない。そこに怒りや悲しみや悔しさなんて感情はなかった。

 意気揚々と説教を垂れる田所課長を目の前に、無言のまま俯いて下唇を噛んでいた僕の周りを取り巻いていたのはただの恥ずかしさと惨めさだけだった──

 

「せっかく案件回してくれたのに悪かったな」

 エレベーター前の自動販売機で僕はお詫びも込めて雅人に缶コーヒーを奢った。

 勢いよく滑り落ちてきた缶コーヒーに手を伸ばしていた雅人はこちらを見上げて眉をひそめた。「なんで俺に謝ってるんだよ」

「いや、だってさすがに申し訳ないだろ」僕は雅人から目を逸らして返却口に落ちてくるお釣りの何百円かを手に取り、そのうち百円玉一枚をまたコイン投入口に入れた。「恩を仇で返したじゃないけどさ、お前からもらった絶好のスルーパスを空振りしちまったんだから」

 上段で唯一光っていた天然水のボタンを押すと、500mlペットボトルはガゴンっという音をたてて取り出し口に着地した。

「ありがたく頂戴いたしやすっ」

 そう言って片手で器用にプルタブを開けた雅人は一瞬のうちに缶コーヒーの中身を飲み干した。用済みとなった空き缶はすぐさまリサイクルボックスの丸い口の中に吸い込まれていく。僕はペットボトルの蓋を開け、缶コーヒーを捨てる雅人を横目に乾いた喉を潤していた。

 いつかは僕もああなってしまうのかもしれない──という漠然とした不安が頭の中によぎると、雑味のないはずの天然水が途端に不味く感じ始めた。

「それにしても田所課長っておっかねえよな」雅人は苦笑いを浮かべていた。「余裕で会議室の外まで聞こえてきてたぞ」

「まあ、めっちゃ怒ってたからな」と僕は言う。

「だとしてもあそこまで翔のこと責める必要あるかな?」

「仕方ないよ。契約取れなかったのは事実なんだし」

 僕がそう言うと、雅人はまだ何か納得がいってないように小首を傾げた。

「たぶんさ、俺が翔に回した案件が悪かったんだよ」

「それはないって」

「いや、あるよ。ってか、それしか考えられない」

 雅人はどんな時でも僕の肩を持ってくれた。

「だってさ、翔ほど仕事に一生懸命な奴はいないし、ファインバンクの営業の時だって翔がギリギリまでたくさん準備してたこと、俺は全部知ってるんだぜ? そこまでやっても駄目だったんだからさ、俺がやったって田所課長がやったって結果は変わらなかったはずだよ。だから翔が落ち込む必要はないって」

「……うん。ありがと」と僕は言った。

 心がスッと軽くなったのはたぶん気のせいじゃなかった。

 雅人はちゃんと僕のことを見てくれている。それは知ってか知らずか、彼の言葉はどれも会議室ではとても言えなかった僕の本音を代弁してくれていた。

 僕は会議室の中で田所課長に説教を食らっている間、心の奥底ではずっと雅人がさっき口にしたことと同じようなことを思っていた。自分にやれることはやったのだ。それを受け入れてもらえなかったのなら、もうそれは運が悪かったとしか言いようがない──と。

 でもそれを自分の口から言い出すわけにはいかなかった。

 仮にあの時、僕が田所課長を前にそんなことを言い放っていれば、きっとそれは言い訳だと一蹴されていたに違いなかった。どれだけ大声で「違うんだよ、わかってくれっ」と叫んだとしても理解されないと悟った。しかし、本当は誰でもいいから君のせいじゃないというハンコを押して欲しかったのだ。

 だからこそ僕は雅人の言葉に救われていた。ペットボトルの天然水が何故かさっきよりも美味しく感じてしまう。意外と僕は単純なのかもしれない。

 しばらく沈黙が流れると、すでに缶コーヒーを飲み干して手持ち無沙汰にしていた雅人は何の脈絡もなく「あっ、そういえばさ」と唐突に口を開いた。

「翔、今年の大晦日って暇してる?」

「大晦日? まあ、特に外せない予定は入ってないけど」と僕は言った。

 毎年、大晦日の日は決まって実家で過ごすようにしていたが、結局は年越し蕎麦を食べながらガキ使を観るか紅白を観るか格闘技を観るかしかやることがない。暇といえば暇だった。

「もしあれならさ、今年の大晦日は三人で一緒に『DIEMAJIN』の試合観戦しないか?」と雅人は言った。「実は俺の知り合いがスポーツバーやっててさ、年末は店内でその放送を垂れ流しにするって言ってるんだよ。だから酒飲みながら三人で試合観れたら楽しいかなって思ってさ」

「いいじゃんっ。行く行く」と僕は二つ返事でその誘いに乗った。「それに神楽坂空海のラストマッチは絶対見逃せないもんな」

「そうだよな。俺もその試合を超楽しみにしてたんだよ。まあ、相手が炎也ってのは物足りない感じはするけど、でも五年ぶりの再戦だからそれなりに感慨深いものもあるんだよなあ。当時は団体チャンピオンだった炎也を圧倒したあの試合から神楽坂の最強伝説は始まったわけだから」

「確かにね。そう考えると最後に相応しいのかもしれない」と僕は言った。

 その後もしばらくは自動販売機の前で二人の格闘技談義は続き、僕がペットボトルの中身を半分飲み干した頃合いに雅人の社用携帯に着信があり、ようやく会話が途切れた。

 やがて見えない電話口の相手に向かって「ほんとですか?」「ありがとうございますっ」「今後ともどうぞ宜しくお願い致します」と立て続けに歓喜の声をあげていた雅人を横目に、ひとり置いてけぼりにされていた僕はなんとなく仕事している風を装い、カレンダーアプリを開いて大晦日の予定を埋めた。

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