③
第2ラウンドのゴングが鳴った。
早速、神楽坂空海は1ラウンド目の勢いそのままに炎也との間合いを詰め、右フックからボディへのヒザ蹴りをヒットさせた。すると炎也はリング上でよろめき、たちまち会場と店内との両方でほとんど同時に歓声があがった。炎也も負けじとローキックをお見舞いしようとするが、それは神楽坂の華麗なステップでいとも簡単に躱されてしまい、逆にローキックを返されてしまう。「おおっ」というどよめきはその後も神楽坂に勢いをもたらしていた。
2ラウンド目に入ってからも防戦一方が続いていた炎也は、なんとか相打ち覚悟で神楽坂の顎をめがけて右のスイングフックを振るっていくが、それらはあっけなくガードされてしまう。その直後に神楽坂の左ストレートが顔面に入り、炎也が一瞬フラついたところに続けて左のボディストレートが入った。それにはさすがに耐えきれなかったのか、炎也はまるで車海老のように上体を屈折させながら後ろに倒れた。今度は解説者が「おーーーっと!」と声を大にして叫ぶ。炎也はカウントが入る前になんとか立ち上がってみせたが、左手のグローブでさっきから横腹を気にしているあたり、相当ダメージを負っていたのだろう。画面越しに見えるその顔にはまだ余裕さえ感じられたが、実は満身創痍なのかもしれなかった。彼はすぐさまファイティングポーズをとってレフェリーにまだ闘える意思を見せた。
「……チッ。いい加減早く倒れろよな」
店内の誰かが呟いた声が僕の耳にも聞こえた。
きっと誰もが同じことを考えていたに違いなかった。このラストマッチはあくまで神楽坂空海がキックボクシング卒業の花道を飾るために組まれた試合だったのだ。観客はみんな神楽坂の有終の美を待ちわびていたし、炎也の勇姿なんて誰も欲しがらなかった。このまましぶとく神楽坂の攻勢を耐え凌がれた挙句の判定勝ち──なんていう後味の悪い終わり方は誰一人として望んでいない。そんな匂いが店内の隅々まで充満しているように思えた。
人が背負う役割はいつだって他人から勝手に与えられるもので、自ら選んで背負うことはできないのかもしれない。何でもかんでも平等に挙手制で決めることができたのは教室の中に居る間だけだったようだ。僕らはいつしか背負いたくないものを誰かに背負わされ、背負いたいものに手が届かなくなっていた。
神楽坂コールはさっきからずっと鳴り止まない。
リング上で闘っている炎也の耳にもきっとその残酷で無情な声は届いていたはずだった。それでも彼はたった一人で無理やり押し付けられた敗者という役割から逃れようと必死に抗っていた。
「あんなに殴られてるのによく頑張れるよな」
元気はチーズをつまみながらそう言った。
「わかる」と雅人はその意見に同調する。「俺だったら絶対耐えられないわ。ってか、あんなに力の差をまざまざと見せつけられたら普通さ、格闘技自体を辞めたくなっちゃうもんなんじゃないのかな?」
僕はその会話に口を挟まなかった。いや、実際は心のどこかで無意識的に二人と同じ土俵に立って会話することに引け目を感じ、口を挟めなかったのかもしれない。
いつの間にか残り時間は一分を切っていた。
ラストスパートをかけるように神楽坂は左アッパー、左ハイキック、顔面前蹴り、そして胴回し回転蹴りと畳み掛けて技を放ったが、炎也はなんとかそれらを避け切り、その直後には反対に攻勢に出ようと右ストレートを放った。しかし、それはあっさりと神楽坂にいなされてしまう。その後、炎也は飛びヒザ蹴りを顔面に受け、ちょうどトレードマークのまぶたの傷痕あたりから血を垂れ流していた。それでもダウンしない炎也に神楽坂は容赦なく左フックと右フックをお見舞いした。
だが、炎也はまだ倒れなかった。足元のフラつきこそあったが、度重なるダメージをなんとか堪え続けて何度も何度もファイティングポーズをとった。その顔面はボコボコと腫れ上がっており、もはや原型をとどめていない。サンドバッグのように打たれ続ける彼のその姿はあまりに惨めで可哀想に映った。
それでもなお観衆は神楽坂を応援し続けた。
何をそこまで必死になって闘う必要があるのか。そして誰も炎也が勝つことなんて微塵も望んでいないこの状況下で、どうして彼は抗い続けられるのか。
僕はいつの間にかそんな彼の姿から目が離せなくなっていた。
やがて2ラウンド目終了のゴングが鳴り響く。
試合は最終ラウンドまでもつれ込んだ──
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